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時間3 (平野啓一郎試論)

【警告】
小説作品における物語の重要な部分に触れています。未読の方は十分に御注意下さい。

このテキストは『平野啓一郎論』の第六章です。
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過去は変えられるか

大澤真幸氏は『<自由>の条件』の中で、「自由」についての問題提起に関連してマイケル・ダメットが挙げた例を紹介している。
ダメットが提起するのは「結果は原因に先立つか」という問題である。
ここに、封筒を開ける前に、必ず舌打ちする癖のある人がいる。舌打ちをした時には、中に請求書が入っていたためしがなかったからである。だから彼は、請求書が送られてくるのを防ぐために、封筒を開ける前にいつも舌打ちをする。
さて、この人物の行為に意味はあるだろうか。
勿論、合理的な思考はこうである。
封筒に請求書が入っているかどうかは、封筒を送った時点で既に決まっている。開ける前に舌打ちしようがしまいが、その事実を覆すことは出来ない。従って、その行為は無駄である。
大澤は指摘していないが、このエピソードは、キリスト教の予定説から発想したものだろう。
神が天地を創造した際に、未来永劫の全ての出来事が確定しているのであれば、天国へ行かせてくださいと祈るのは無駄である。天国に召される者と地獄に墜ちる者は既に決まっており、何をしても、それは覆らない。しかし、そのように祈らせたのもまた神であるなら、彼が祈りを捧げるのは天国に近い証拠なのかも知れない。そう考えるなら、祈るのは一つの安心である。しかし、決して祈り自体が神に届くことはない。だとしたら、それでも祈ることに本当に意味はあるのだろうか。
封筒を開封する前に舌打ちするのは無意味な行為に見える。しかし、その男が舌打ちするのは先方が請求書を入れていないせいだとしたらどうだろうか。本当に神が祈らせているのだとしたら。因果は逆転する。男は舌打ちするというより、舌打ちさせられているのである。
大澤の議論は、以上のような雑駁なものではなく、もっと緻密なものなのだが、ここでは置いておこう。
『決壊』に似たようなシーンがある。
息子の良介を殺害され、兄の崇が犯人だと疑われているために、和子は呆然としている。和子の兄の象一は、遺骨を抱えたまま、地べたに座っている妹の姿を見て驚き「しっかりせんと。」と肩を叩く。
和子は「やっぱり、崇が殺したんかね。」と呟く。
「馬鹿、お前が信じてやらんで、どうするんか?」
象一は、妹の顔を覗き込むようにして言った。
「万が一、崇君が良ちゃんを殺しとったとして、それでも和子ちゃんが殺してないっち信じ続けたことには意味があるんよ。それが心の支えになるやろう。」
象一は「崇が殺したかどうかは分からない。しかし、殺してないと信じ続けなければならない」と言うのである。親は、そう祈り続けなければならないというのだ。
ただし、象一がそう言う理由は、崇が本当に良介を殺していたとしても、親が自分を信じていてくれたという事実は、彼の更生に力になるからだというものだ。なんだか、随分功利的な物言いではないか。それは、相手を思い遣っての言葉でありながら薄情にも聞こえる。果たして、それで彼の無実を本当に信じたことになるのだろうか。
とはいえ、ここでは、マイケル・ダメットが提起したような「自由と責任」の問題が論じられているのではない。
ただひたすら対象と一体化し、その関係性を大事にすることが推奨される。実に分人主義らしい発想なのである。

『マチネの終わりに』には一貫して流れる主題がある。「果たして過去は変えられるのか?」というテーマだ。
著者自身が「情報に〝勝ち負け〟はあるのか?——レジス・ドブレ『メディオロジー宣言』」(『考える葦』)の中で「私は『マチネの終わりに』の中で、「過去は変えられるし、変わってしまうとも言える」と繰り返し説いた」と語っている。
しかし「過去は変えられるし、変わってしまう」という言葉が何を指しているのかは不分明であり、この短いエッセイだけでは真意を掴みづらい。舌打ちさえすれば過去からの請求書は決して送られて来ないとでも言うのだろうか。
『マチネの終わりに』には、洋子が蒔野と出会った夜、彼女が母の郷里の長崎での思い出を語る場面がある。洋子はミックスで、父はクロアチア人の映画監督、母は日本人である。
洋子の祖母は、一昨年亡くなってしまった。庭で転び、その時に庭石で頭を打ったのが原因だった。その石は、洋子が幼い頃、テーブルに見立ててままごと遊びをしていた石である。洋子にとって祖母はとても大切な存在だった。自分がよく遊んでいた石が、将来、祖母の命を奪ってしまうとは思ってもいなかった。
蒔野のマネージャーの三谷早苗は怪訝そうに「わかってたら、対処のしようがありますけど、しょうがないですよ。」と、常識的な反応をする。
しかし、洋子が言いたかったのは、感じる必要のない自責の念を、今になって感じているという話では必ずしもないのである。三谷には話の要点が全く把握出来ない。
「洋子さんは、記憶のことを言ってるんじゃないかな。」と蒔野は言う。
「お祖母(ばあ)様が、その石で亡くなってしまったんだから、子供の頃の石の記憶だって、もうそのままじゃないでしょう? どうしても、頭のなかでは同じ一つの石になってしまう。そうすると、思い出すと辛いよ、やっぱり。」
洋子は、理解されたという喜びに瞳を輝かす。
祖母が死んでしまったことで、庭石の意味は変質してしまったのである。だが、それは相変わらず同じ石としてそこにある。
ここで、「清水」の大野が語っていたビスケットの話を今一度思い出そう。
掌の上のビスケットは食べられてしまってもうない。しかも、それは、記憶のなかで、二枚目のビスケット、そして三枚目へと、上書きされてしまっている。だが、それは紛れもなく同じビスケットでもある。
子供の頃遊んでいた石は、祖母を殺した石へと意味を変えた。石は、一見変わらぬ石である。しかし、過去は書き換えられ変質した。
バグダッドで自爆テロに遭遇し閉じ込められたエレベーターの暗闇の中で、洋子はこの日の蒔野の言葉を思い出す。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
未来は過去を変えている。記憶の持つ意味が変わるとは、過去の記憶そのものが置き替わることである。
『マチネの終わりに』では、この「過去は変えられるか」というテーマに沿ったエピソードがしばしば挿入される。
たとえば、蒔野と洋子は、最初に会った夜に、お互いをこの上ない理解者だと確信した。しかし、初対面で、かつ大勢が参加した打ち上げの席であったこともあり、洋子は一人でタクシーに乗り、帰ったのであった。
けれど、あの夜、二人で朝までいたら、自分の人生はどうなっていたのだろうか。後に、二人とも、この夜を回想し全く同じことを思うようになる。
テロの後、パリに戻った洋子はPTSDを発症するが、彼女は、医師に、薬で不安を鎮めながら生活を安定させていけば必ず症状は消えると慰められる。
「過去は変えられる、ということですか?」
その表現に戸惑って、暫く間があったが、医師は頷く。
また、洋子は、幼い頃、自分と母を捨てて出て行った父と再会する。
父ソリッチは、社会派の映画監督であった。チトー大統領はソリッチを認めていたが、同時に民族主義運動の弾圧に利用しようとしていた。ソリッチは、映画製作の途上で極右グループに命を狙われることとなり、危険から守るために家族から離れたのだった。
洋子は、父が、母と自分を捨てた真相を初めて知った。父は、二人を愛していたからこそ関係を絶ったのだ。
ソリッチは娘を抱擁する。真実を知り、洋子の過去は書き換えられた。
また、蒔野も、過去が書き換わる経験をする。
マネージャーの早苗と結婚した蒔野は、彼女から、洋子が蒔野と連絡を絶った原因を作ったのは自分だと告白される。それも、メールを偽装するという、実に卑劣な方法で。
しかし、既に腕の中には子供がいる。蒔野は赤ん坊にミルクを飲ませ、その手を触って見るのが好きだった。この子には、両親が真に愛し合って生まれてきたのだと信じさせたい。いずれにしても、今は幸福なのだ。たとえ騙されたのであったとしても、その原因となった事実を否定すべきなのだろうか。
蒔野は、早苗の行為を結局、赦すことにする。子供と自分たちの未来のために、である。いずれにしても早苗の行為がなければ、この幸せはなかった。彼は、自分の意志で、、早苗の裏切りと、その衝撃の告白という過去の意味を、更に上書きして書き換えたのである。
これは『ある男』の城戸が、幼い子供のため妻の浮気の証拠であるラインに気づかない振りをしたのと同様である。(しかし、本当にそれで良いのだろうか?)
また、蒔野はレコード会社の社員だった是永から、洋子が深刻なPTSDで苦しんでいたことを聞かされる。それは毎日のようにスカイプで会話を交わしていた頃の話である。それなのに、自分は、洋子の苦しみにさえ気づくことが出来なかった。あれほどまでに愛していたというのに。蒔野は、楽しかった思い出が変質してゆくのを感じた。

平野作品には「あの時、ああしていれば」という悔悟を抱く人物が多く登場する。
「あの時、躊躇せず結婚していれば」と考える蒔野と洋子がまさにそうである。
京都に旅行に出かけた『決壊』の崇と千津は、大原のトンネルを出た箇所で対抗のダンプカーにぶつかりそうになっていた。運転慣れしていない崇が、ほんの少しハンドル操作を誤ったら、二人は死んでいた。
また、崇は、弟の殺害を知って「あの時、無理に引き留めていれば、こんなことにはならなかったのに」と泣き、大粒の涙を流す。
『空白を満たしなさい』では、無理矢理、徹生の車に押し入って来た佐伯は、徹生の妻である千佳と生殖させてくれという。「あなたがそこまで言うんですから、あなたの奥さんは、きっとよほど素敵な女性なんだと思うんですよ。奥さんの遺伝子と私の遺伝子とを合体させてもらえませんか?」
激怒した徹生は佐伯の襟元を掴む。佐伯は、猛烈な力で徹生を払い除け、逃げていく。
『あの時、捕まえれば良かった。あそこで見逃したばっかりに。』と、後に徹生は後悔することになる。
また、洋子は、間一髪で自爆テロから逃れていた。彼女は、ホテルのロビーで地元部族の指導者らへの取材を終えた後、エレベーターに乗った。すると爆発の衝撃でエレベーターは停止した。
インタビューが長引いていたら、もし、後一つでも質問を続けていたら、洋子は確実に死んでいた。そのたった一つの質問が生死を分けた。
また、自分の人生には別の道があったのではないかと漠然と夢想する人物も多い。
「一月物語」の真拆がそうだし、画家としての生活に疲れ平凡な役人の生活を夢見る『葬送』のドラクロワもそうだ。
『ある男』の原誠や『最後の変身』の「俺」、あるいは『ドーン』の明日人など、変身(属性を変更)し続ける者たちも、あり得たかも知れない人生を常に追い求めている人間だといえる。
そして、『本心』で交通事故に遭遇し半身不隨になった鈴木流以(るい)のハンドル・ネームは〈あの時、もし跳べたなら〉である。それは、驚異的なジャンプ力で突進して来るスポーツカーを避けるという、あり得たかも知れない夢想を意味する。
ドラクロワは、自作の《ミサを行うリシュリュー》が革命のゴタゴタによって消失したことに深い失望を抱いていた。
人間どもの野蛮な行為は、未来永劫繰り返されるに違いないと彼は思う。
作品とは、時間の塊である。彼自身の生の一部である。
作品が失われるとともに、作品の製作に費やされた日々の記憶も完全に失われた。
昨日まで存在していたあの作品が今はもうない。つまり、この先永遠にない。恐らくは過去においてすら、それはやがてはなくなってしまうのである。物質として作品が失われ、記憶も失われれば、あらゆる時間軸上において、作品は存在しなくなる。それはドラクロワにとって最も痛切な悔悟である。
『マチネの終わりに』の洋子が経験したのは、記憶の中の庭石の意味が変容するという体験であった。あるいは、その物語は、早苗の告白によって全ての真実を知った二人が、それでもなおかつ、お互いの出会いの意味を再び取り戻す話でもあった。

さて『ドーン』の火星探査船《ドーン》の中で、閉鎖空間を限られたメンバーで航行するクルーたちは、息苦しさを感じていた。
ノノ・ワシントンは、明日人に、火星探査は一種の〈時間遡行〉であると熱心に説く。
『ドーン』の世界では、賛否はあるものの「分人主義」という考え方が浸透している。
《ドーン》のクルーは六人だけである。彼らは、分人関係が複雑さを増している現代社会を離れ、人間関係の極めて限られた、まるで近代以前の村のような単純な分人関係に戻っている。「《ドーン》はタイムマシンなんだ」とノノ・ワシントンは力説する。
明日人は、震災でわが子を亡くすという経験をしていた。医師だった彼が、突然宇宙飛行士を目指し始めたのは、その直後である。
帰還し、休暇を取った明日人は、自室の机の前でワープロソフトを開きながら過去を振り返り、幼い頃からの思い出をタイプし始める。
大江健三郎は、書くことで死んだ友人を自分の中に取り込んでしまうのだと語っていた。また、平野は、小説を書くことで「自分探しの旅」に出たと言っていた。(『私とは何か——「個人」から「分人」へ』)
明日人は、生れ育った富山県高岡の思い出を回想する。
アルバムを呼び出し家族の写真を眺める。
医師だった父、受付をしていた母。祖父母の家の縁側、祭でイカ焼きを食べるいとこ、ゲームで遊ぶ友人、親類を集めたバーベキュー、机に積まれた参考書。
二歳の自分と、死んだ太陽の姿が重なる。
妻の今日子との出会い。若い二人の慎ましやかな結婚式。挨拶してくれた友人は震災で家の下敷きになって死んだ。
長男の太陽が生まれ、被災し、太陽を失い、アルバムから明日人の笑顔は消えた。
そして、苛酷だった火星探査のミッション。
火星探査に出発する前に書いた遺書と、戻ってからそれを破った時の、何とも言えない感触。
明日人は、自分という存在が、死なないでいることのよろこびを感じた。
ただ後ろを振り返れば良かっただけなのだ。ただそれだけのために、自分には一億キロもの往復の道のりと、十年もの時間が必要だったのだと、彼は思った。
「《ドーン》はタイムマシンなんだ」とノノ・ワシントンは言っていた。火星探査は、明日人にとっても過去へと遡行する旅だった。
これから自分は、どんな物語を書いていくのだろう、と明日人は思った。
そして、「日蝕」の錬金術もまたそうである。
錬金術とは、神の創造した世界を復活させるための儀式であった。失われた過去を取り戻すための旅だった。錬金術は、人を、かつての完璧だった原初の人類へと変身させる。錬金炉とはタイムマシンである。

過去を変えようとする人間はまだいる。
言うまでもないが、たとえば『ある男』のXがそうだ。
殺人犯の息子という出自を持つ原誠は、戸籍交換によって、その過去を変えようとした。
では、谷口大祐に成りすました原誠と結婚した里枝にとってはどうだろうか。
離婚し、実家に帰った里枝は大祐と再婚した。幸せだった。二人の間に子供も生まれた。
夫が死に、彼が大祐ではなかったことが判明してXと呼ばれ、城戸の調査で実名が原誠であると分かった。
里枝は、大祐から、彼の過去の話を聞かされていた。自分は伊香保温泉の旅館の次男坊だが、父の肝臓移植の際のゴタゴタで気持ちが離れ、故郷を後にした、と。
しかし、それは谷口大祐の過去であり、原誠の過去ではなかった。
里枝にとって、否応なく、大祐と出逢う前の過去(いわば大過去)が書き換えられてしまった。
原誠が戸籍交換した際に、証拠隠滅のため、相手の男を殺していたとなると、里枝との幸せな結婚生活という過去の意味が変わってしまう。里枝を傷付けたくない城戸はそれを恐れていた。しかし、原誠は殺人者の息子ではあったが、本人が戸籍交換以上の罪を犯した訳ではなかった。
城戸は胸を撫で下ろす。
里枝にとっても、記憶の中の大祐との愛の価値は揺るがなかった。ただし、殺人者の息子という大過去が明らかになったことで、殺人者の血を引き継ぐ(遺伝子を持つ)娘の未来には多少の影が射す。
大過去、過去、現在。それぞれの意味は書き換えられる。恐らく、未来の意味も。
ビスケットは、次のビスケットへ置き替わっていくのである。否応なく、あるいは意識的に。
『透明な迷宮』では、ブダペストで、偶然出逢ったサキと衆人環視での性交を強要されるという事件に遭遇した岡田は、そのトラウマを、サキとの性交をビデオ撮影することによって上書きし、克服しようとする。
驚くべきことに、サキは双子の姉妹で、岡田が再会し、撮影を繰り返していたのは、事件を一緒に体験した美里ではなく妹の美咲だった。
二人の見た目は全く同じである。同じ形のビスケットである。
でありながら、記憶は美里から美咲へと書き換えられた。過去の意味は変容し、岡田は未来へ歩み出す。

そして、三島由紀夫もまた過去を変えようとした人間であった。
平野は「『仮面の告白』論」(『三島由紀夫論』)で、三島特有の「原因と結果の故意の混同」について分析している。そこではマイケル・ダメットの例のように、舌打ちが請求書を封筒に入れさせないかのような倒錯がある。原因と結果が転倒しているのだ。
また『空白を満たしなさい』でラデックが「死は傲慢に、人生を染めます。」と語っていたことを思い出そう。
人は、人生を彩るための様々なインク壺を持っている。しかし、最後に倒してしまったインク壺の色が、人の一生を一色に染めてしまう。
三島の自決は、良きにつけ悪しきにつけ、その鮮烈な印象で三島自身の生涯を染めてしまった。
三島は『英霊の声』で、逆賊となった二・二六事件の将校たちや、犬死にと言われる特攻隊員たちを詩的に・文学的に救い出そうとした。従って、これもまた、彼らの過去の意味を書き換えようとする話である。
平野は、三島がしたのと同じように、『三島由紀夫論』によって、彼をその死によって染められた生から救い出そうとする。
「三島由紀夫は何故、あのような死に方をしたのか?」と彼は問う。
しかし、どの色のインク壺を倒すのかは、そもそも三島自身の意思によって決定されたのである。三島は自分の意志で自分の過去を染め直したのである。彼は「死に様こそは生き様である」を実践した。
また、平野は、三島が『仮面の告白』で採用した自伝的な手法について「(読者は)一般的な小説同様に、過去の主人公と共に、不確定な未来に向けて進んでゆくのであるが(順行)、同時に、既に定まった現在時から、語りを通じて過去へと遡行し、認識対象としての当時の自己を言葉によって造型してゆく主人公の傍らにもいることとなる(逆行)」と語っている。
分かりにくい文章だが、こういうことだ。
『仮面の告白』の主人公は、自分が産まれた時の、盥(たらい)のふちの光を覚えているという。それが、読者にとって最も遠い過去である。いわば無限遠点である。
『仮面の告白』には、二つの時間の流れがある。
通常の、物語の語りとともに現在から未来へと進む流れ(順行)と、無限過去の消失点である出産シーンへと遡っていく逆行である。
注目すべきなのは、平野が、このやり方を「過去から現在へと流れる順行的な物語の時間と、「証明」のために、意識的・無意識的であるに拘わらず、現在から過去を編纂しようとする逆行的な時間との二つの正反対の時間が流れて」いると述べている点である。
「証明」のために過去を編纂する。それはつまり、過去を書き換えようとする行為である。
興味深いことに『ある男』においても、この二つの正反対な時間が流れている。
まず、読者は城戸と一緒に不確定な未来へ向けて進む(順行)。
この順行の時間において、城戸と妻との関係はますます冷えていく。彼は離婚を考えざるを得なくなる。
城戸は、そのような現実から逃避するかのようにXの身許調査(証明のための逆行)にのめり込んで行く。
城戸の調査は過去へ遡行し、Xの秘密の出自を徐々に明らかにしてゆく。
Xの無限遠点は殺人である。
Xは戸籍交換という犯罪を繰り返した人間であり、彼自身が殺人を犯しているのではないかと疑われていたが、人を殺しているのはXの父であり、彼は無実であった。
城戸の調査により里枝の亡夫の過去は書き換えられる。
疑いは晴れ、明るい未来が開ける。
また、『三島由紀夫論』の「あとがき」で平野は次のように決定的な告白をしている。
「敢えて無体なことを言うなら、私は、もし本書を三島が読んだなら、自殺を踏み止まったかもしれないという一念で、これを書いたのである」
三島がこれを読み、自決を中止する。もとより、あり得ない話である。だが、平野は本気だろう。
「過去は変えられるし、変わってしまうとも言える」
平野は、三島が過去を書き換えようとした行為(自決)を、更に上書きして変えようとする。
既に死んでいる三島由紀夫は、平野の『三島由紀夫論』を読む。そして、自分の過去の自決を思い止まる。
これは『空白を満たしなさい』で、既に死んでいる徹生が、池端の話を聞いて、自分の自殺の真相を知り、苦悩から解放されたのと同型である。
未来によって過去は書き換えられる。
三島が掌の上に置いた記憶のビスケットは、平野が置いた次のビスケットに置き換わる。

更に、『かたちだけの愛』について、もう一度振り返っておきたい。
「深澤直人さんの仕事——『AMBIENT 深澤直人がデザインする生活の周囲』展」というエッセイの中で平野は、深澤直人氏がデザインした画期的な傘立ての提案について触れている。このエッセイは極めて興味深い。
深澤直人氏との最初の対面は京都の建築関係のシンポジウムだったという。そこで深澤氏は、プロダクトは将来的に壁に吸収されてゆく方向と、身につけられる方向との両端に切り分けられていくだろうという見通しを語った。たとえば、携帯は、壁のモニターとなるか、あるいは、究極的には身体の一部として、ウェラブルな、極端にいえば義足のような存在になるであろう。
壁(場所)に吸収される物と、身体に吸収されていく物。
どちらの方向性も、極めて平野的な発想であるのは、もうお分かりだろう。
さて、平野は、深澤氏のプレゼンにあった、ある傘立てのアイデアに深く感心する。
「印象的だったのは、深澤さんが、傘立てというのは、実は壁際の床に、一本、溝を彫るだけで十分なのではないかと話されていたことだった。傘の先端をその凹みに嚙ませれば、柄の部分を壁に立てかけて、安定させられるだろうというのである。実際に私たちは、外出先では床にタイルの目地などを見つけて、それに近いことをしている。傘から流れ落ちる水滴は、その溝が受け止めることになるわけである」
床の溝により、壁に立てかけるだけの傘立て。
しかし、そのアイデアは、平野以外の聴講者には今一つピンと来なかったようだ。傘の先端部分を刺すだけの細い溝では、雨滴ですぐに一杯になってしまい、それを屋外に逃がすような仕組みが別途必要になってしまうからである。
しかし、平野は、いたくこの発想が気に入ったようで、この溝のために室内に入る前にきちんと水滴を振り落とすような新しい習慣が生まれるのではないかなどと、なんとか、このアイデアを救う考察をしている。
しかし、このアイデアの実用性はここではどうでもよい。問題は、平野がこの発想に惹かれた意味である。
床の溝により、壁に立てかけるだけの傘立て。そもそも雨の日にどんなふうに帰宅するか。生活の中の一連の時間と空間、双方を包摂するデザイン。こぼれ落ちる水滴。
傘とは身体の一部である。それが身体から取り外され、壁の一部となる。
平野にとって、水滴とは記憶である。短篇集のタイトルである『滴り落ちる時計たちの波紋』において、時計が滴(したた)り落ちるのは、記憶とは砂時計の砂であり、ここでは、砂が水に置換されているからである。
記憶は時間を内包している。
壁に立てかけられた傘は、絵筆のメタファーである。そこからしたたり落ちる水滴は、記憶である。それは一種のらくがきなのだ。そこには生活者の時間と空間があり、壁には生の証が刻まれる。
そして「義足」というファンタジックな短篇では、反政府軍の少年兵に鉈(なた)で左足を切り落とされた「白靴下」は、命からがら街へ戻る。彼は、生まれた時から膝下が真っ白だったので「白靴下」と呼ばれていた。
白靴下は、人から貰った義足を切って調整し、使うことにした。最初は痛くて仕方なかったが、次第に慣れた。二年経つと、何処でも自由に歩けるようになった。
ある日、森に出かけると、左足が地面に突き刺さって抜けなくなってしまった。
白靴下は右足一本で街まで帰った。
短い裸の棒が骨のようにその場に残された。
地面に突き刺さった義足はまさに生と死の狭間であり、身体を失っても、しばらくは地上に留まる。
『かたちだけの愛』で、左足を失い死にたがっていた久美子は、相良に義足を与えられ、生を取り戻す。
一方、相良は、母の遺骨を勝手に送りつけられ、処分に困り果てていたが、結局、その骨を墓地に埋葬する。
それによって、相良は確執のあった母との過去を乗り越える。
久美子は、現在にいる。失われた左足は過去に置き去りにされている。彼女は幻肢に苦しむ。それは過去の幻の苦しみである。
「これなら未来に向かって一歩を踏み出せると、心から思えるような新しい足を真剣に考えます。勝手に作ったものを押しつけるようなことは、絶対にしません。少しずつ、未来のことを考えていきましょう。」
義足をデザインする相良は、苦痛が描き出す左足の輪郭を未来の足を収めるのに利用しようとする。親切だが無神経な、彼らしい考えだ。
久美子は、左足(三笠との過去)を失い、新しい義足(相良と歩む未来)を装着した。
身体とは記憶である。『かたちだけの愛』の義足の意味はこうである。久美子は足を失うことによって三笠との記憶(分人関係)を断ち切り、相良のデザインした新しい義足を装着することにより、相良との新しい分人関係を得る。
久美子は、新たな対象を取り込み、再び〝1〟に戻る。義足が新しい笏(しゃく)だとしたら、久美子は完全体(アンドロギュノス)になる。
久美子が三笠との関係を清算しようとする過程と、相良が遺骨を処分する話が並行して描かれた意味がここにある。二人とも、過去と向き合い、それを精算することなしには、未来で結ばれることはなかったのだ。

2024.2.7 一箇所修正しました。

2024.2.9 文章を読みやすく直しました。内容は変わっていません。


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