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なりすましと変身1 (平野啓一郎試論)

【警告】
小説作品における物語の重要な部分に触れています。未読の方は十分に御注意下さい。

このテキストは『平野啓一郎論』の第五章です。
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変身譚

平野は『私とは何か——「個人」から「分人」へ』で、自分たちの世代はバブル崩壊後の就職超氷河期だったために、学生時代はアイデンティティの危機に直面したと書いていた。就職氷河期がアイデンティティ・クライシスになるのは、自分の個性が発揮できる仕事に就けるかどうかが非常に危ういからだ。
しかし、それが本当にアイデンティティの問題であるなら、就職したからといって、その葛藤が簡単に解決する筈がない。実際、平野は作家となった後も、アイデンティティの動揺は治まらず、自身の「自分探し」は続いたという。学生時代の処女作が、そのまま芥川賞受賞作となり、一気に将来を嘱望される小説家となるという、この上ないデビューであったにも拘わらず、である。
平野は、デビュー作の「日蝕」で中世ヨーロッパの異端審問を、二作目の「一月物語」では明治期の学生の苦悩を描いた。三作目の『葬送』は十九世紀フランスで活躍した芸術家、ショパンとドラクロワを主人公にしている。
平野は「最後の変身」で現代におけるアイデンティティの問題を初めて扱ったという。主人公は、幼い時から変身願望を持っていた「俺」である。
そして、ここでもまた三島由紀夫の話をしなければならない。平野は一連の『三島由紀夫論』の最初に『仮面の告白』を取り上げ、その冒頭で主人公の変身願望を分析しているからである。
『仮面の告白』の主人公は「汚穢屋(おわいや)」「花電車の運転手」「地下鉄の切符売り」などに憧れる。
三島自身が、作家になった後に、肉体改造し、俳優業やボクサーなどに挑戦した。楯の会の活動なども、どこかコスプレめいている。三島は、死ぬまで変身を続けた。

名付けとは言葉のカオスに輪郭線を引き、顔を与えることであった。固有名の変更とは輪郭線の引き直しである。それは新たな属性を身につけることであり、一種の変身である。
「消えた蜜蜂」のKは田舎の郵便配達員である。Kには、他人の筆跡を完璧に真似するという特殊能力があった。文章の途中からKが続きを書くと、どこから入れ替わったのか、誰にも判別できない。自分が書いた字ですら見分けがつかない。彼は、どんな人の筆跡でも、たちどころに、完璧に模倣してしまう。文字の輪郭は全く同じになり、テキストは融合してしまう。そして、彼本来の字がどのようなものか誰も知らない。(彼は「本当の私」を見失っている)
彼は、この特技のために、遺言書の偽造(故人の成りすまし)を疑われ、訴訟に巻き込まれてしまう。疲弊した彼の美しい顔は荒れていった。
『ドーン』のディーン・エアーズは〈可塑整形〉で顔の輪郭を変え他人に成りすましていた。
また、『透明な迷宮』で、岡田はブダペストでのある事件以来、ミサと名乗る女性を忘れられない。岡田は、日本で再会したミサと関係を持つようになる。
しかし、再会したミサは美里と美咲という双子の姉妹の妹であった。ブダペストで出会ったのは姉の美里である。美咲は姉に成りすましていた。
岡田は、現在愛している目の前の女性と、彼女を愛するきっかけになったブダペストの体験とに引き裂かれ、混乱する。
美咲としばらく交際した後に姿を現し事実を打ち明けた姉は、自分は岡田と交際する気はないと言う。また、妹は岡田を深く愛しているとも。
「似たようなものなんだし、いいんじゃない? 遺伝的にはまったく同じよ。」と彼女は言い放つ。
確かに、姉妹は遺伝的には同じだ。しかし、育った環境が異なる。妹は、そのような乱暴な発言はしないし、突然放浪の旅に出たりもしない。だからこそ、妹と暮らした方が仕合わせである。自分と付き合っていたら、お互いが不幸になっていただろうと彼女は言う。

男が背中を向け、鏡の中の男も背中を向けているという、ルネ・マグリットの《複製禁止》という絵から始まる『ある男』は、全編が成りすましの物語である。
殺人犯の息子という過去を隠すために戸籍交換を繰り返した男(X)と、その過去を追う弁護士の城戸が物語の中心である。
谷口大祐と名乗ったX(原誠)と結婚した里枝は、その影響もあって何度も姓を変えざるを得なくなる。また、里枝の息子の悠人も姓が変わることに抵抗を覚えていた。
冒頭、作者という設定の語り手は、あるイベントの帰りにバーに立ち寄り、カウンターで飲んでいるうち、弁護士の城戸に会う。しかし、城戸は、最初、自分は谷口大祐であると名乗るのである。しばらく話をしてから白状した城戸に、語り手は、何故そんな嘘を吐くのかと問う。
城戸は「他人の傷を生きることで、自分自身を保っているんです。」と物寂しげに笑う。
「ミイラ採りがミイラになって。……嘘のお陰で、正直になれるっていう感覚、わかります? 本当は直接、自分自身について考えたいんです。でも、具合が悪くなってしまうんです。」と城戸は言う。
確かに『顔のない裸体たち』の〈吉田希美子〉は、〈ミッチー〉というハンドル・ネーム(架空の名前)を得て、普段の自分では到底出来ないような大胆な行動に出るし、『決壊』の良介も、〈すぅ〉というハンドル・ネームで日記を書くことで、家族には打ち明けられない本音を語ることが出来ていた。他人を名乗ることで正直になれるという場合も確かにあるのだろう。
城戸は、新しい人生を生きたX(谷口大祐)にそこはかとない憧れを抱き、自分と彼を重ね合わせていた。彼は、なんとなく弁護士になってしまったが、人生を回顧し、色々な人生があり得たのではないかと思っている。バーでつまらない嘘をついてしまったのもそのためだろうか。
城戸は、他人の過去の物語を身体に注入し、成りすます。彼は、大祐の元恋人美涼に対する自分の好意に初めて気づく。城戸は自分にやっと正直になれたのである。
これは、自分の体に流れる殺人者の血を意識して好きな女も抱けず、ずっと童貞だった原誠が、戸籍交換で他人に成りすますことによって、ようやく幸せな結婚が出来たことと並行しているといえよう。
原誠が戸籍を交換した谷口大祐は、伊香保温泉の旅館の次男坊だった。大祐の父は肝臓ガンになり、彼は生体肝移植に同意したが、躊躇している間に病気は進行し、移植の前に父は亡くなってしまった。実家に居辛くなった原因の一つである。
父は、移植に同意してくれたら遺産は全部譲ると言っていた。それは、兄に成り代わって自分が旅館を継ぐことを意味する。谷口大祐は、肝臓を提供し損なうことで、父の未来も自分の未来も閉じてしまったのである。
また、里枝は、次男が不治の病で苦しんでいる時、自分が身代わりになる奇跡をいつも祈っていた。
成りすましの話はまだある。
城戸は帰化した在日朝鮮人三世であり、義父から「在日といっても、三代も経てれば、立派な日本人だ。」と悪気なく言われる。
刑務所で面会した小見浦は、何故か彼が在日であることを一目で見抜き「先生は、在日っぽくない在日ですね。でも、それはつまり、在日っぽいってことなんですよ。私みたいな詐欺師と一緒で。」と言い、笑う。だから、ここでの「在日」とはアイデンティティの揺らぎの問題である。本物っぽくない本物、それこそが本物なのだとしたら、本物とは何か。
城戸の長男颯太は、こども園で幼児向けに編集されたギリシア神話を読んでもらっているらしく、ナルキッソスがどうして水仙の花に「変身」したのかわからないと城戸に尋ねる。興味を惹かれた城戸は、オウィディウスの『変身物語』を読んでみる。そこにあるのは、ありとあらゆる変身譚である。しかし、ナルキッソスがなぜ変身するのかという颯太の疑問には答えを見出せなかった。
(『変身物語』は「火色の琥珀」にも登場する)
ある日、颯太は「おとうさん。もし、ぼくと、ぼくのニセモノがいたら、ほんもののぼく、わかる?」と城戸に尋ねる。
「なんだ、それ?」
颯太は『アンパンマン』の絵本の、ばいきんまんが扮した偽物のアンパンマン(成りすまし)の話をする。
「みたらわかるよ。」
「みためもこえも、おなじだったら?」
「おもいでをきいてみるよ。」
『透明な迷宮』の美咲は、姉美里と見た目も声も同じである。しかし彼女には岡田と共通の思い出はない筈だ。ただ、姉からブダペストでの出来事は聞いていたのだろう。気づかなかったのも無理はない。ブダペストで買った因縁のカトラリーを覚えていないのが唯一のヒントである。
また、物語中で話題に上る朝鮮人虐殺は、日本人が朝鮮人に間違われて殺された事件も含む。
文学を好むようになった里枝の長男悠人は、芥川龍之介の『浅草公園』を読んでいる。それは、浅草で父とはぐれてしまった少年が、マスクで口を蔽った男を父親と見間違えるという幻想的な話である。その男は、何時の間にか本当の父親になっている。
また悠人が夏休みの宿題として提出し最優秀賞に選ばれた俳句は、ぬけがらを残して変態した蝉の歌であった。
そして、美涼は、かつての恋人である大祐をおびき寄せるために「谷口大祐」に成りすまし、フェイスブックのアカウントを開設する。それに反応してメッセージを寄越したのは、Yoichi Furusawa という偽名の男で、大祐本人だった。
このように『ある男』は、成りすましや変身譚を入念に織り込んでいる。しかも、戸籍交換の実態を探る話であるために大量の固有名が飛び交い、誰が誰なのか、何が真実で何が嘘なのか、読者も混乱する。城戸自身が、自分が何者なのか、次第に分からなくなっていったように。
これは、更に大量の固有名詞が整理されないままに羅列される『葬送』や『ドーン』と似た印象である。克明なメモを取らない限り、人間関係を把握するのは不可能だろう。

『マチネの終わりに』は、蒔野のマネージャーだった早苗が洋子を騙し、蒔野姓という固有名を洋子から奪い取る話であった。
蒔野が洋子と初めて会った夜のことである。コンサートの打上げの席に移動すると、蒔野は、いきなり唐突に、京都からの帰りの新幹線で写真家のSを見かけた話をする。蒔野はSさんに挨拶するが、無視されてしまう。どうして返事をしてくれないのかと、しつこく話しかけると『人違いじゃないですか?』と言われ、穴があったら入りたいほどに恥ずかしい思いをした。席に戻ってふてくされて寝たふりをしていたと言うと、みんなは腹を抱えて笑う。
人違いだったものの、Sだと思い込んで話しかけた蒔野からすると、一種の成りすましだったともいえる。そのような場合、本人ではないと気付いてからも、何故か、理不尽な目に逢ったという印象だけは残るものだ。

このように、平野の作品には、成りすましや変身譚が多いのだが、そこには彼のファンタジーが垣間見える。
『私とは何か』で、分人主義について説明する際に、最初に彼は、高校時代の友人と大学の友人とで一緒に焼肉に行った時の話をしていた。
郷里の友人と大学の友人とで、平野の態度が変わる。友人からすれば、彼はころころ人が変ったみたいに見える。
また、ネットでブログを始めた友人は、普段穏やかなのにブログ上の文章では人が変ったように攻撃的で、周囲の人間を驚かす。
人は変わる。場所や、組織や、人付き合いや、上下関係、愛憎のもつれなどで。
それは、分人主義の話を聞いた誰もが思うように、当たり前のことではある。
立場やシチュエーションで人が変るのは当然で、わざわざ「分人」と名付けるほどのものではない。
しかし、平野は、分人主義を分かりやすく説明するためだけに、そのような話をしているのではないと思われる。それは、単なる一例ではなく、むしろ、分人主義の始原である。
まるで人格が入れ替わったように見える不思議さ。
記憶にもない父親と、何時の間にか似てしまっている不思議さ。
変身譚。そして分身。当たり前だと受け流し切れない奇妙さがそこにはある。恐らく、それらを説明するために分人主義はある。

さて、前章では固有名と属性の関係について触れた。
他人の固有名を奪うのが「成りすまし」であり、新たな固有名を得て自身の属性を書き換えるのが変身であるといえよう。新たな固有名とは、言葉のカオスに引く新たな輪郭線である。
『決壊』で、次男の良介を殺害された和子は窓を閉めきって横になっていた。和子は長男である崇からの連絡を待つ。
しかし、警察の話によれば、犯人は良介の携帯を持ち去ったらしい。犯人から連絡が来る可能性がある。そして、その場合、和子の携帯に表示されるのは〈良介〉の文字である。その文字は〈悪魔〉と呼ばれる犯人を指し示す。その場合、犯人は息子に成りすましている。〈良介〉の輪郭線は邪悪な意思によって否応なく引き直されてしまったのだ。
実際、〈悪魔〉は、犯行声明によって人々を煽り、〈離脱者〉と呼ばれる人たちの模倣殺人を連鎖的に発生させた。その様子は、「最後の変身」で「俺」が遺書をありとあらゆる掲示板にアップしてネット空間に悪意をバラ撒こうと妄想したのに似ている。〈離脱者〉たちは〈悪魔〉の分身である。
〈悪魔〉は他者の固有名を奪い取り、大量の分身を生む。
また、犯行声明は、一種の遺伝子だともいえる。それは他者に侵入し、その者を操る。〈離脱者〉(子供)たちは〈悪魔〉(父)に似る。

ところで、平野は「「玩具」と「ペット」」(『文明の憂鬱』)で、ソニーのロボット犬「AIBO」が単なる玩具ではなく、飼い主にとってはまさにペットとして扱われていることを知って「少し複雑な気分になった」という。
玩具は取り換え可能だが、ペットは掛け替えのない家族である。
平野は、またしてもここで分人関係について語っている。
対象との分人関係が切っても切り離せないのは、それが内面に取り込まれた他者だからである。
「「ペット」は恐らく飼い主にとって、対象であるよりは多分に彼自身であろう」と平野は書く。
濃厚な分人関係において、対象は、自分の身体の一部になる。
平野は、ロボットが当たり前のようにペットになり「切断された下半身を二つ繋げた奇妙なロボット犬の写真集に人々が恐れ戦(おのの)く」ようになるという怪しげな未来像を描いてみせる。しかし、ロボットとはいえ「AIBO」から「切断された下半身」へと話を繋げるのは飛躍し過ぎる感じがある。
とはいえ、これは『かたちだけの愛』の予告だともいえる。『かたちだけの愛』とは切断された下半身の話だから。
洋子は、三笠の車から飛び出し、事故に遭い左足を失う。すると徐々に彼に対する愛情を失っていく。
そして、相良によってデザインされた義足が与えられると、彼を愛するようになり、自身の生も取り戻す。義足とは相良の愛でもあった。洋子はその愛を受け入れ、自身の身体に取り込む。二人は切断不可能な関係となる。
人は変わる。その輪郭線とともに。

また、たとえば『マチネの終わりに』では、パリで洋子と再会した蒔野は、唐突に「洋子さんが死んだって聞いたら、俺も死ぬよ。」と言う。
洋子はテロの頻発するバグダッドで取材を続けるジャーナリストなのだから、常に危険と隣り合わせではあるのだが、しかし、彼が洋子と会うのは二度目で、二人だけで会うのは初めてある。
洋子は、その言葉の真意を測りかねて言い返す。
「そういうこと、冗談でも言うべきじゃないわよ。」
すると、蒔野は「洋子さんが、自殺したら、俺もするよ。これは俺の一方的な約束だから。」と言う。
対象が死んだら、自己も死ぬ。これは決意というよりは、事実なのである。洋子の気持ちを確かめていない以上、一方的であるのは否めないが。
蒔野にとって、既に洋子は掛け替えのない存在なのである。だから、洋子が死ねば彼(の中の洋子との分人)も死ぬのだ。

成りすましといえば、『本心』の朔也の職業は〝リアル・アバター〟という、身体の不自由な人に変わって、その人になりきるという仕事であった。同僚の岸谷は、カップルからの依頼で、依頼者の代わりにセックスまでしている。
死んだ母の親友で、朔也がルームシェアすることになる三好は美しい女性だが、出し抜けに「わたし、きれい?」と尋ねる。朔也は面喰らう。三好は「この顔も、アバターみたいなものなのよ。」と言う。彼女は、整形を繰り返していた。生き辛さを感じていた彼女は、世界を変える代わりに自分を変えることで適応しようとしたのだが、結局うまく行かず、仮想現実に入り浸る生活を続けていた。
また生前の母の気持ちが知りたい朔也は、母が愛読していた藤原亮治の『波濤』という小説を思い立って読んでみる。クラブで働く貧しい女性が主人公の物語である。彼女は、ドッキリの番組でお笑い芸人と疑似恋愛をして彼を騙す。女は罪悪感を抱くが、仕事だからと割り切って演技する。彼女は恋人に成りすますのである。
ところで『葬送』で、ドラクロワは音楽家のマニュエル・ガルシアと演技について激論する。
マニュエル・ガルシアは、劇中の人物の心情になりきれば、身振りなどというものは自然とついてくるものだという。
ドラクロワには「感性のまま、自然にその人物になりきる」という方法論が凡庸に思えた。技術的な研究を重ねて、最も優れた型を発見することの方がより重要ではないか。
どちらも正しいようにも、間違っているようにも見える話である。
疑似恋愛は、どこまで偽の恋愛だったのだろうか。演技はどこまで演技であったのだろうか。
また、これは演技の問題に留まらない。
内面から溢れ出る感情(生身の身体)が良いのか、人為的に最適解を求めた型(義足)が良いのかという問題でもあるからだ。
全身全霊で、その人物になり切って演技すれば、それは「成りすまし」を越えたものではあろうが、だからといって、それが観客の情動を呼び起すとは限らない。
プロダクト・デザインとは、環境に対してどのような輪郭線を引き直すかという問題である。(「身体と出現——深澤直人論」(『「生命力」の行方——変わりゆく世界と分人主義』))
義足は、それを装着する者と環境との間に新しい輪郭線を作る。それは、単に歩きやすいとか、見た目が美しいというような問題ではない。愛情の問題である。だが、紛れもなくデザインや機能の問題でもある。
「AIBO」はロボットだが、持ち主が愛情を注げるようにデザインされていた。「AIBO」に感情はない。しかし、巧みに設計された道具が環境と対話し調和するように、ロボットのペットも飼い主と感情の交流をする。そこには「演技とは何か」という問題がある。

2024.2.9 文章を読みやすく修正しました。また、固有名の誤りを一箇所直しました。それ以外の変更はありません。


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