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時間4 (平野啓一郎試論)

【警告】
小説作品における物語の重要な部分に触れています。未読の方は十分に御注意下さい。

このテキストは『平野啓一郎論』の第六章です。
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死者との再会

ここまで、平野作品における主要なテーマである「存在、時間、死、記憶」について考察してきた。
彼の作品において、それらはいずれも身体を軸にして扱われる。
時間は、記憶という形で身体に取り込まれるし、死とは身体の存在が失われ、時間が無限へと還っていくことを意味する。
彼の作品は、本人自身が語るように、時代設定や文体が極めてバラエティに富んでいるのだが、物語の骨格となる構造だけを見れば、非常にシンプルである。
特に長編に限っていえば、平野作品とは要するに「死者との再会の物語」であるといえる。
それは、死者が実際に復活して家族と再会する『空白を満たしなさい』のように、表面上のストーリーからも明らかな場合もあるし、仮想現実上に死んだ母を再現する『本心』のように、近未来的なテクノロジー絡みの時もある。
具体的な死者は登場しない場合もあるが、しかし、ざっと概観してみるだけで明らかなように、どの作品においても「死」は必ず象徴的に扱われている。そこでは死の影を引き摺る人物が決まって存在するし、主人公は、少なくとも、登場人物の誰かは、その人物と再会する。
死者、つまり存在としては既に失われ、記憶となっている者と登場人物が再会する。そして、過去という時間は書き換えられるのである。

幼い頃に両親が離婚し、旅館の下働きをする母に育てられた『本心』の石川朔也は、唯一の家族であったその母を失って以来、耐え難い空虚を抱えて生きている。
それは、ただ肉親を失ったという理由によるのではない。生前、母は「自由死(安楽死)」を希望していた。母は、今が十分に幸せだからこそ、この状態のままで死にたいと言っていた。
「自由死」には家族の同意が必要である。納得出来ない朔也は、「自由死」に反対し続けた。
結局、母は朔也が仕事で上海に出張している間に事故死してしまい、息子に看取られたままに死にたいという母の願いは叶えられなかった。朔也が強い悔恨を抱えて生きているのも当然である。
彼がAR(拡張現実)上にAIによる母の製作を依頼するのは、単に独り暮らしの孤独を埋めるためといった単純な理由ではない。自由死を希望していた母の「本心」が知りたかったためでもあるのだ。
勿論、AIとは人間の呼び掛けに、用意された返答をやや高度なアルゴリズム(統語論的に分析された上での最適の反応)に従って返すだけの存在に過ぎず、母そのものである筈がない。だが、この作品におけるAIはVF(ヴァーチャル・フィギュア)と呼ばれ、母の生前のライフログや、口癖、趣味などの情報を入力して作られるものであり、つまり、これは平野がいう分人を統合したものである。朔也には知らされなかった秘密、思いがけない真相をVFとしての母が語り出さないとも限らないのだ。
「氷塊」では、実の母親の遺影を見せられた少年は、美術に没頭するようになり、「本当の母親」の絵を描き、それと対話する。
しかし、少年は自分の絵の未熟さが歯がゆかった。
「自分の画技の拙さが、彼を失望させ、苛立たせた。もっと上手になりたい。自在にどんな絵でも描くことが出来るようになったならば、自分は何時でも本当の母親と対面することが出来るのに。そうしてお母さんが絵の中で笑い、怒り、泣き、優しく語り掛けるのであるならば、それはお母さんが、そこで生きているということなのではあるまいか? 或いは、自分の鉛筆を通じて、もう一度、この世界に戻って来るということなのではあるまいか?」
初めて会った祖父母は、しつこいほどに、少年と母親が似ていると言っていた。
「本当の母親の顔は、自分の表情一つ一つに亡霊のように浮び上がってくる」
より上手に肖像画を描くこと。より精緻に母親の表情を再現すること。この発想の延長上にVFの技術はある。少年の画技は及ばなかったが、VFのテクノロジーによって母はこの世界に戻って来る。
また『ドーン』も同様にテクノロジーによって死者を復活させる物語である。
明日人と今日子の夫婦は、震災によって息子の太陽を失う。
宇宙飛行士となった明日人が火星への旅を続ける間、今日子は、遺伝子情報からAR上に製作されたクローンである太陽と生活する。このクローンは『本心』のようにゴーグルを必要とせず、特殊な装置によって現実と見紛うばかりに空間に投影されたものである。
『空白を満たしなさい』では、日本全国で突然死者が蘇るという現象が多発する。彼らは〈復生者〉と呼ばれている。土屋徹生は、その〈復生者〉の一人だ。
徹生が〈復生〉しても、妻の千佳は、喜ぶどころか、よそよそしい。いつまで経っても心を開いてくれない。徹生の死因が自殺だからである。夫に見捨てられた上に、それによって周囲の非難の的となった千佳は徹生を許すことが出来ないのである。
実は、自殺は徹生自身にとっても謎なのだ。徹生には自分が自殺すべき理由は思い当らなかった。そもそも自殺当日の記憶がないのである。
『空白を満たしなさい』は、一度は死んだ徹生が、関係者達と再会し、証言を得て、その空白の一日を取り戻し、自殺の真の理由を知るまでの物語である。
つまり、これは『本心』で朔也が母のライフログを掻き集め、AR上に母を再現することで「自由死」(自殺)の理由を探ろうとしていたのと全く同じなのだ。
ところで『空白を満たしなさい』において、自らの自殺によって妻を苦しめることになってしまった徹生が、千佳との、そして幼い息子璃久との絆を回復するために、決定的な役割を果したのは一枚のDVDである。徹生は、どうしても自らの死の理由が納得出来ないために、自殺ではなく他殺ではないか、自分は殺されたのではないかという疑いを捨てきれずにいた。徹生は、勤めていた会社の屋上から飛び降り自殺したのだが、DVDには屋上へと向かう徹生の姿を防犯カメラが捕らえた様子が映っていた。屋上に出たのは徹生一人であった。つまり、物理的に、例えば徹生を突き落とすなどの行為は不可能である。徹生は自らの足で屋上に行き、自らの意思で飛び降りたのである。他殺ではない。
そのDVDを見たことによって最後の「空白」が埋まり、徹生は自らの死の理由を千佳に話すことが出来た。そして、何より喜ばしいことに璃久から父親として迎え入れられる。父子が抱き合うところで物語は終わる。

『決壊』では、弟である良介の殺害容疑をかけられていた沢野崇のもとに、やはりDVDが届けられる。崇は、良介の妻佳枝と不倫関係にあるのではないかと疑われ、痴情関係のもつれから殺害に及んだと見られていたのである。良介自身が妻の不貞を疑っていた節があり、ここでも、殺害当日の良介の不審な行動が、数々の証言から再構成され、空白が埋められる。
DVDは犯人から警察と崇のもとに郵送されたもので、そこに映っていたのは、犯人が良介を拷問し殺害した全行程であった。この決定的な映像により崇の容疑は晴れることになったが、より重要なのは、そこに映っていた犯人と良介のやりとりである。
犯人は、両手足が拘束され身動きの取れない良介に対し、神や悪魔、社会のシステムや人間の幸福に関する「形而上学的」な質問を浴びせる。そして、醜いアトピー持ちの女と結婚し喘息病みの不出来な子供を設けたことがお前の不幸だと決めつけた上で、自分が不幸だと認めさえすれば命を助けてやろうと言う。ところが、良介は決然とカメラの方を向き、画面を見つめる崇に向かって「僕は妻を愛してる! 息子を愛してる! この世界が好きで、みんなのことが好きだ! 僕は僕であって〈幸福〉だ! ずっと兄貴のことが好きだった!」と言い放つ。そして殺害されてしまうのである。
『決壊』もまた、映像という形ではあるものの、死者と再会し、死者の「本心」を知る物語である。

また、死者の生前の記録を集めて、死の理由を探ろうとする朔也や徹生の行動は、平野自身が評論『三島由紀夫論』によって、関係者の証言や伝記的事実を収集し、三島由紀夫の自死の理由を探ろうとした姿と重なる。
平野は、新たな三島由紀夫全集の出版に寄せて「われわれは、全集を通じて、三島由紀夫と再会した」と言っている。(「決定版 三島由紀夫全集』の完結に寄せて」(『モノローグ』))
また、彼がここで、全集は三島本人の肉体と同じ六十キロであるなどと奇妙な発言をしているのも興味深い。
いささかトンチンカンにも聞こえるがそうではない。
「フェカンにて」の大野は、幼い頃に死んだ父親を「七十キログラムほどの細胞のかたまり」と表現していた。大野は、実際には抱いたことのない父の体重を感じる。
平野は、全集を前にして、大野同様、死者の肉体の重みを感じているのである。
また、大野が、自殺者の遺族は残された遺留品から、彼が本当は死ぬ意思がなかったと信じようとするが、実際には「死者の声」とは錯覚であり、いかに耳を澄ましても、決して何も聞こえてこないと断言しているのは面白い。
平野は、大江健三郎に対して「死者の声に耳を傾けることなんてできるのでしょうか」と問うていた。(『私とは何か』)
そうだ。「死者の声」など錯覚に過ぎない。
三島由紀夫全集という遺留品をいくら調べ上げても、彼が自決した理由を理解することは不可能である。

証言から死者の生前を再構成しようとした物語はまだある。
『ある男』はまさにそのような話だ。
離婚して実家に戻り、文房具店を手伝っていた武本里枝は、ふらっと客として訪れ親しくなった谷口大祐と再婚する。
二人の間には娘も生まれ、幸福な毎日を過ごしていたが、大祐は事故で死んでしまう。生前から、家族には絶対に連絡しないでほしいと言われていたため、葬儀は武本の家で済ませていたが、何時までもそうする訳にもいかず、一周忌を機に大祐の実家には手紙で知らせた。遠方からやって来た大祐の兄恭一は遺影を見るなり、これは大祐ではない、全くの別人だという。
里枝は、離婚の際に世話になった弁護士の城戸と連絡を取り、亡夫が本当は誰だったのか調査を依頼する。
そして、城戸は、関係者の証言を集め、大祐が、ある理由から戸籍交換を繰り返し谷口大祐に成りすましていたという事実を突き止める。
彼が里枝に語っていた過去は、全くの別人のものだった。
しかし、里枝は、城戸の助けを借り、死んだ夫の過去を知り、改めて彼と出会い直したような気になる。

以上は、明瞭に死者が登場する作品だが、例えば『マチネの終わりに』はどうだろうか。
この作品でも、確かにギタリストの蒔野聡史と通信社の記者である小峰洋子は紆余曲折の末にニューヨークでの再会を果たす。しかし、それは死者との再会ではない。
だが、洋子のバグダッドでの体験を思い出そう。
テロの多発するバグダッド。取材の一切を現地スタッフに任せているプレスもある中、洋子の所属するRFPは記者自身によるバグダッド市内の取材を継続していた。
洋子は、ホテルのロビーで地元部族の指導者らに取材した後、エレベーターに乗るのだが、そのエレベーターは衝撃とともに停止し暗闇に閉じ込められてしまう。自爆テロだった。取材を終えるのが、もう少し遅かったら、後一問でも多く質問してその場に留まっていたら、洋子も確実に爆発に巻き込まれていた。つまり、彼女は死んでいた筈の人間なのである。むしろ、物語的には既に死んでいる人間なのだと言っていいのかも知れない。
洋子は、映画監督である父から、お前は《ヴェニスに死す》症候群だと言われていたという。
「《ヴェニスに死す》症候群」とは、中高年になって、突然、現実社会の適応に嫌気が差して、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ることを意味する。
だから、テロの頻発するバグダッドに赴いたのは、洋子の自死でもあるのだ。
蒔野が洋子への気持ちを決定的なものにするのは、バグダッドでの自爆テロのニュースを見て、彼女との連絡が取れなくなってからである。
また、蒔野と洋子は、その気になれば何度も機会はあった筈なのに、最後まで肌を合わせようとはしない。ほぼ結婚を約束し合った仲だというのに、である。ロマンティック・コメディの常套手段を用いたかのように、二人の間には常に邪魔が入り続ける。
肉体は結ばれていないが気持ちでは結ばれているという言い訳も苦しい。実際、二人の気持ちはずっとすれ違い続け、そのために二人は別れるのだから。
ニューヨークでの再会時、ベンチから立ち上がり、顔をこちらに向ける洋子は、まるで幽霊のようだし、その姿は非常に絵画的である。その光景は、現在なのに、まるで遠い過去のように見える。
『葬送』では、物語はショパンの葬儀から始まる。
冒頭、画家であるドラクロワは、親友である作曲家ショパンの葬儀に駆けつける。そして、そこから長い回想によって生前のショパンが描かれる。
読者は、ショパンが、作中に登場する誰よりも先に死ぬことを知っている。読者が目にするのは、死にゆくショパンである。
彼もまた、物語的には、既に死んでいる人間だといってよい。
このことは、短篇である「初七日」を補助線として用いると理解しやすいだろう。
「初七日」もまた児島康作の死から始まる話であり、そこでも康作の葬儀が描かれる。
火葬場で父を焼いた兄弟二人は、寝つかれない深夜、父親の思い出を語り合う。康作には従軍経験があった。しかし、生前の父は戦地であるビルマの話を決してしたがらなかった。現地で相当酷いことをしてきたからではないかと言う人もある。
「死んでからしか口に出来んことはあるけ。」という兄の言葉が極めて平野的であるのは、もうお分かりだろう。
康作は「自分はビルマで死んどった筈の人間やけ、帰って来てからの人生は余生や」と言っていたのだ。
「死んどった筈の人間」。彼の、その後の行動は一度死んだ人間としてのそれなのである。

さて『ドーン』の明日人と今日子の夫婦は、震災で子供を喪ってからセックスレスであった。蒔野と洋子のように。
明日人は火星探査という、生還の確率が低い任務に敢えて赴く。彼はバグダッドというテロの頻発する地に向かった洋子と同様、「《ヴェニスに死す》症候群」を病んだ人間なのである。彼は、火星で死ぬ筈だったのだ。しかし、彼はその危険な任務を終え、地球に帰還し、今日子と再会を果たす。
あるいは、明日人は市ヶ谷駅のホームから転落しそうになったことがあったから、そこで死んでいたのかも知れない。
「あの時死んでても、全然おかしくなかった。自分が幽霊みたいに感じられることがよくあったよ。本当は自分も死んでいて、ただそれに気づいてないだけなんじゃないかとか」と彼は語る。
死んだ明日人は火星に行き、妻の許に帰還する。妻との二年半のブランクを埋めようとするという意味では『空白を満たしなさい』の徹生が千佳との三年のブランクを埋めようとするのと同じである。
それは、火星探査船《ドーン》に乗り込んだ他のクルーに対しても言える。
リリアン・レインは、火星での堕胎という極めて危険な経験をした後、地球に戻り、父と再会した上で、世界中の人に向けて重大な告発をする。つまり「死んでからしか口に出来んこと」を語り出すのである。
『葬送』でのショパンも、愛人であるにも拘わらず、サンド夫人と一度も肌を合わせない。彼らもまたセックスレスである。
それは、既にサンド夫人の気持ちが離れているからでもあるし、ショパンが半ば死者だからでもあるのだろう。
更に、ショパンは、終盤、馬車の事故で死にかけている。馬車は暴走し、大木と激突し、大破する。彼は、そこで一歩間違えば死んでいた。
『かたちだけの愛』の叶世久美子(かなせくみこ)もまたそうである。
プロダクト・デザイナーである相良郁哉(あいらいくや)は久美子と出会い、奇妙な縁で結ばれた二人は後に再会することになる。
出会いのきっかけは何だったか。それは、雨の中の交通事故である。久美子は意識を失い車の下敷きとなり瀕死の状態だった。駆けつけた相良の適切な判断がなければ、彼女は確実に死んでいた。彼女もまた「死んどった筈の人間」の一人なのだ。
そして「一月物語」である。
ある理由から、社会から隔絶された山中に暮らす高子は、村人からは忘れられている、あるいは、もう生きてはいないのだろうと思われている。夢の中で高子と出会った井原真拆は、高子が忘れられずに再び彼女に会うために山へと戻る。
「日蝕」で、語り手である主人公が再会するのは両性具有者(アンドロギュノス)であり人間とはいえない。しかも異端審問によって、その者が殺されるのは物語の終盤である。その点では両性具有者は死者とはいえない。ただ、冒頭、村を訪れた語り手は、中央で村を分断する川にかかる橋がたった一本しかないのを訝しく思う。しかも、その橋の上では時折死者の霊に遭遇するというのだ。そして、アンドロギュノスが村人によって発見されたのは橋の上なのである。
川と橋は村の中央に十字を構成している。そのせいもあってか、主人公は、その両性具有者は再臨したキリストではないかという思いに捕らわれる。
また、平野は「『辻——「半日の花」』 古井由吉」(『小説の読み方~感想が語れる着眼点~』)でこう書いている。
「「辻」は、四方に道が開いた場所であり、途方に暮れる場所であり、来し方行く末を見失ったまま立ち尽くす場所だ。文化人類学の知識がある人は、「辻」の真ん中に罪人を埋める習慣や、そこで死者や悪魔と出会したという伝説があることを知っているだろう」
またしても、彼は、他者を評しながら、自作を解説している。
「辻」には死者が再臨する。
やはり両性具有者は死んでいたのだ。
しかし、そう考える必要もないのかも知れない。そもそも、錬金術とは死と生の合一、つまり死者との再会の秘術なのだから。
また、確かに、福音書、黙示録ともに死者との再会の物語である。

賢者

「死者との再会」という物語には、ある重要なキャラクターが登場する。その再会を仲介する者である。
それを「賢者」と名付けよう。何故なら、彼の者は、主人公の知りえない情報を知っているからであり、そのことで主人公たちだけではなし得ない再会を演出することが可能だからである。
また賢者は基本的に親切である。主人公は賢者に世話になりおおむね感謝する。ただ、必ずしも反りは合わず、人間的には十全な信頼を置くには至らない。
賢者はしばしば人をいらつかせ、また主人公の知り得ない秘密を巡って嘘を吐くこともある。
たとえば「一月物語」の円祐(えんゆう)がその典型である。
明治期の廃仏毀釈によって寺院を追われた円祐は行脚に出た後、人との関わりを断って山中深く庵を結んでいる。
円祐は森の中で倒れていた井原真拆(いはらまさき)を助け、看病する。廃仏毀釈の激しい折、何故このような場所に禅堂が建てられたのかは分からない。そのような謎を持ち、また僧侶である円祐は賢者と呼ばれるに相応しい。
円祐は隣の炭焼小屋にだけは近寄るなと言う。多くの民話にあるように、近寄るなとは誘いの言葉である。人は「絶対に見るな」と言われたものを見ずにはいられない。
円祐は怪我の癒えた真拆に、すぐにここを立ち去れと言う。円祐は、真拆を、炭焼小屋に隠れ住む者に会わせたいようでもあり、会わせたくないようでもある。彼は引力と斥力の微妙な磁力を保っている。
また、円祐に助けられる前、真拆は大阪鉄道の車内で気色悪い老爺と出会っていた。
真拆は、駅で見かけた、モネの絵を思わせる白いドレスの女との再会を楽しみにしていたのだが、老爺と話すうちに駅を乗り過ごしてしまい、再会の機会を逸する。
老爺は賢者である。彼とは、決して分かり合えそうになく、しかし、何かを知っていて、奇妙に親切である。彼は宿泊代まで黙って支払ってくれていた。
この物語が、日傘の女と再会する話でなくなったのは彼のせいである。老爺は、ふざけているのか「天誅組じゃ。」と名乗る。「天誅組」は、その時、政府によって既に討伐されていた。つまり自分は既に死んでいると言う。
老爺と別れた真拆は、往仙岳(おうせんだけ)山中で毒蛇に嚙まれ瀕死のところを円祐に助けられる。毒蛇に嚙まれ意識を失った時に彼は死んだのだといえる。死者となった彼は女と再会するために山に戻る。また、女自身が既に死んだと思われている。
『決壊』での賢者は事件主犯の〈悪魔〉篠原勇治以外にあり得ないだろう。最初から全てを知っているのは彼だけだし、DVDの映像という形であれ死者との再会を実現するのも彼だからである。
同様に『空白を満たしなさい』で徹生に自殺の決定的な証拠となるDVDを送ったのは警備員の佐伯であった。彼が自殺を目撃し、防犯カメラの映像を取り出して保存していたのだ。佐伯は、徹生に付きまとい、そうかと思えば、素っ気なく突き放して、常に彼を不快にさせる人物だが、奇妙に親切だ。彼は、徹生の足取りを追って、真実を収めたDVDを届けてくれる。
徹生が家族との絆を取り戻したのは、佐伯の行動があったお陰である。彼は徹生がそれを知らされるまでは知りえなかった「空白の一日」を知っていた。
『ある男』の小見浦も佐伯同様、人をいらつかせて楽しんでいるとしか見えない人間である。
小見浦は、戸籍の交換を仲介し、そのことで服役していた。谷口大祐に成りすましていた男「X」もまた、小見浦の仲介によって誰かと戸籍を交換していた筈である。
しかし、刑務所に面会にきた弁護士の城戸に対し、小見浦は、城戸を「朝鮮人の先生」と呼び、早く戸籍交換の話を聞き出したい城戸をじらし続け、しまいには「私が『小見浦憲男』だって、どうしてわかるんです? 私だけどうして、戸籍を変えてないと思うんです? バカですねぇ。」と言い放つ。
小見浦は人をいらつかせる。
とはいえ、結局は、小見浦から届いた謎かけのような絵葉書がきっかけとなり、死んだ「X」の過去が明らかとなったのだ。城戸は彼のお陰で、ようやく真相に辿り着く。
人を小馬鹿にした言動を繰り返す小見浦は、城戸に真相を知って欲しいようでもあり欲しくないようでもある。
また、小見浦の他にもう一人賢者がいる。むしろ彼の方がより賢者としての能力を発揮していると言えるかも知れない。
谷口大祐の兄恭一である。
恭一は、いかにも遊び人といった風の旅館経営者である。整髪料なのか香水なのか、むっとするような匂いをいつも漂わせており、実家の格式ある旅館の隣にラブホテル風の新館を建てた人物である。城戸のような内省的な人間とは到底分かり合えそうにない。
恭一は、大祐が戸籍交換した相手が殺人犯の子供だと知って、大祐が既に殺されているのではないかと城戸に言うが、その態度は酷薄に見える。弟を心配してというより、警察沙汰になって旅館の看板に傷が付くのを恐れているだけのようでもある。
彼は、大祐の元恋人である美涼にして、大祐の名でフェイスブックの偽アカウントを作り、おびき寄せてはどうかとアドバイスする。そのアドバイス自体は、美涼にフェイスブックのアカウントを作らせ、それを通じて連絡を取りたいという下心から発したものだったようなのだが、実際、それによって美涼は、死んだかも知れない元恋人と再会することが出来た。
『ドーン』での賢者はAR上で明日人と今日子の子供を再現する技術者のディーン・エアーズだといえよう。
それだけではない。〈可塑整形〉という技術により自在に顔を変えられるディーン・エアーズは、身分を偽り様々な場所に出没することが可能である。彼はより深く何かを知る男なのである。
更に、火星で死ぬ筈だったリリアン・レインを助けて、地球に無事帰還させ父と再会させる明日人は、彼自身が賢者の役割を担っている。彼は、円祐がそうであったように、危機に瀕したリリアンを助けるし、帰還後に大問題になった彼女の妊娠について真実を知っている。彼が父親だからだ。
『本心』での野崎もまた、朔也の母のVFを製作する担当者である。彼女はディーン・エアーズほどの重要な登場人物には見えないが、朔也から渡された母親のライフログに精通している彼女は、彼の知らない多くの事実を知っているらしい。一度は何かを朔也に語ろうとしさえするのだが、結局は職業倫理を守り口を噤む。
『かたちだけの愛』では、事故で片足を失った久美子の義足を作るように相良に依頼するのは病院経営者の原田紫づ香である。彼女は極めて遣り手であり賢者たる風格を備えている。原田は、相良にとって一生頭の上らない大恩人だが、時としてやり過ぎをマスコミから非難されもする。相良は、原田の依頼をありがたいとは思いつつ、注文の厳しさに面倒に感じることが多く、彼女と会う時はいつも緊張を強いられる。
また、相良と死んだ母との再会を手助けするのは、離婚した母の再婚相手の息子である山崎淳二である。
彼は実に適当で信用の置けない人物だが、結局、母の骨壺を相良に送り、過去の清算を可能にしたのは彼であった。
『マチネの終わりに』でも、死者(洋子)との再会を仲介する人物がいる。蒔野のマネージャーである三谷早苗である。早苗は、時として気難しい芸術家である蒔野をファンや記者から守るため、しばしば疎まれる存在である。彼女は勝ち気で通っている。だが、蒔野本人とは本質的なところで合いそうにない。蒔野が洋子に惹かれるのは早苗とは決して出来ないような芸術に関する話題が弾んだせいでもある。ありったけの誠実さで蒔野のために奮闘する早苗は、皮肉なことに、そのために蒔野をうんざりさせることがある。
そして、これが決定的なのだが、蒔野に会うために日本にやって来た洋子と蒔野の再会を妨害するのが早苗なのだ。
洋子が到着したその日、蒔野の恩師である祖父江(そふえ)が倒れた。蒔野は慌てて病院に駆けつけるが、タクシーの中に携帯を忘れて来てしまい、洋子と連絡が取れなくなる。マネージャーである早苗の電話番号を思い出した蒔野は、代わりにタクシー会社に携帯を取りに行ってもらう。早苗は蒔野の携帯にある洋子からの着信履歴を目にし、自分の一生が蒔野のサポートという脇役で終わり、主役の座は洋子に奪われるのだと悟る。
早苗は、二人を繋ぐキューピッドにもなれるし、別れさせることも自在に出来るという賢者の立場を偶然手に入れてしまったのだ。
彼女は思わず、洋子に嘘のメールを送信し、彼女を日本から追い返してしまった。
恋人を失った蒔野は、失意の内に、早苗と結婚する。
蒔野の子を妊娠し、幸せであった早苗だが、ついに良心の呵責に耐えられなくなり、真実を告白し、蒔野と洋子はようやく再会を果たすことになる。
早苗は、常に蒔野の世話を焼き、彼に親切である。また勿論、最も重要な真実を知っているのも彼女である。
「日蝕」で賢者に相応しいのは錬金術師であり、自然哲学に関する智識、異教徒の哲学にも精通しているピエェル・デュファイであろう。万巻の書に囲まれている彼はいかにも賢者然としている。
彼は何より両性具有者を匿(かくま)っているのである。
ピエェルは語り手である「私」の大胆な尾行に何故か気づかない。「私」は、洞窟で石に躓き、その音(ね)を響かせることも度々であったのだから、気づかなかった筈はないのだ。彼は、両性具有者を匿っている場所を、本当は教えたいのかも知れない。
だが、より賢者らしい行動をするのは舍(やど)の主ともいえる。
舍の一階は酒場であり、毎晩村人が集っている。彼は、その立場により村の事情に精通している筈である。また、旅の疲れから寝込んでしまった語り手を、少々うるさいくらいに見舞う。「一月物語」の円祐のように。
語り手が村の錬金術師に会いに来たと告げると、ピエェル・デュファイという名であると教えてくれる。ただし「あの男に逢いに行くとおっしゃるのですか? 御廃(や)めなさいませ。追い帰されるのが落ちでございます。私にしても、一度として詞を交したことが無いのですから」とも言う。やはり円祐のように、絶対に会うなと言うのである。「会ってはならない」という言葉が持つ含意については既に述べた。
また、洞窟に匿われていた両性具有者がとうとう捕らえられた時、戸を叩いて知らせたのも彼である。
短篇ではあるが、「Re:依田氏からの依頼」もまた死者との再会の物語である。
時間感覚が狂ってしまい、食事も摂れず瀕死状態だった依田を救ったのは涼子の姉で、依田夫人となった未知恵である。
未知恵は、涼子とは似ても似つかない醜い女で、その振る舞いもいかがわしい感じが付きまとい、とても物語の語り手である作家とは理解し合えそうにない人物である。
だが、事故から生還した依田の手記を信じるなら、未知恵は、妹を事故で殺したのかも知れない依田の世話を熱心に焼き、語り手に依田の手記を元に小説を書いて欲しいと依頼する。しばらく音信不通だった依田(死者)と語り手の再会を手伝うのである。
『本心』の賢者は、母の主治医だった富田であろう。
彼は常に威圧的な物言いをするし、朔也に対する軽蔑を隠さず、人の話を聞こうとしない。しかし、帰り際に、母が愛読していたらしい藤原亮治の『波濤』という小説を読むように勧める。そこには、母の本心に近づくヒントがあった。
また、母の部屋に住み、死者の代わりとなる三好も朔也の母との再会を手助けする。
最後に『葬送』について触れておきたい。
物語の主人公は二人だ。ショパンとドラクロワである。愛人として、ドラクロワにはフォルジェ男爵夫人が、ショパンにはジュルジュ・サンドがいて、その庇護を受けている。芸術家にとってパトロンは最も重要な存在であろう。
物語はショパンの葬儀から始まり、その時点からすれば、ほぼ全編が回想シーンとなる。
ただし、サンド夫人との愛情関係は一切描かれない。二人の仲は冷え切っている。また、ショパンの病状は既に悪化しており、自らショパンの看病をしようとしないサンド夫人は非難される。端的に言って、ショパンは死にかけているのである。また、物語の冒頭部分では既に死んでいる。
では『葬送』における賢者は誰だろうか。
一人は、ショパンの姉ルドヴィカの夫、カラサンティ・イェンジェイイェヴィチであろう。彼はワルシャワ大学の教授職という知識人であり、やはり賢者然としている。
彼は、ルドヴィカがショパンの病状を知り、会いに行こうとするのを妨害する。ワルシャワ大学農業経済研究所の教授である彼は、ロシアがポーランド独立の旗印にされかねないショパンとの関わりを快く思わないであろうことを知っているのである。
しかし、最後には、彼は妻を伴ってパリにやって来る。ルドヴィカはショパンとの再会を果たす。
そして、物語は、平野作品がいつもそうであるように、臨終の近いショパンを愛人であったジョルジュ・サンドが見舞いに訪れるかどうかがクライマックスとなっている。
しかし、ジョルジュ・サンドは現れない。葬儀にも来ない。再会は果されないのだ。
何故だろう。
キーとなるのは、サンド夫人の娘ソランジュである。愛人とはいえ家族の一員としての意識の強いショパンは、幼い頃からソランジュを可愛がり、また母親との折り合いが悪く孤立しがちな彼女を助けてきた。
親切にされ、助けられるのはソランジュの方である。
だが、ショパンが死の床に着き、もう助かることはないと悟ったソランジュは、臨終の間際ですら見舞いに来ようとしない母親に変わってショパンの最期を看取ろうと決意する。庇護者としての役割を母親から奪いとろうとするのだ。
ショパンが最後にサンド夫人に一目会いたがっていることを知っている周囲の人間は、サンド夫人が見舞いに訪れるよう画策するが、彼女が、ショパンの姉を始め、多くの人間に毛嫌いされている状況では難しく、諦めざるを得ない。
ショパンの死後、彼が最後まで母親に会いたがっていたのではないかという疑念が払拭出来ないソランジュは母親に手紙を書く。
謝罪を述べ、せめてショパンの葬儀には列席して欲しいと乞うことも出来た筈である。しかし、彼女は自分の気持ちに正直に母親を非難する手紙しか書くことが出来ない。最後のチャンスだったであろう、死者との再会は果されない。
結局、ソランジュは賢者になり損ねたのである。

(了)

参考書籍
著作者名のないものは全て平野啓一郎氏の著作です。

『日蝕・一月物語』(新潮文庫)
『葬送 第一部(上)』(新潮文庫)
『葬送 第一部(下)』(新潮文庫)
『葬送 第二部(上)』(新潮文庫)
『葬送 第二部(下)』(新潮文庫)
『高瀬川』(講談社文庫)
『滴り落ちる時計たちの波紋』(文藝春秋)
『顔のない裸体たち』(新潮文庫)
『あなたが、いなかった、あなた』(新潮文庫)
『決壊 上巻』(新潮文庫)
『決壊 下巻』(新潮文庫)
『ドーン』(講談社文庫)
『かたちだけの愛』(新潮文庫)
『空白を満たしなさい』(講談社)
『透明な迷宮』(新潮文庫)
『マチネの終わりに』(文春文庫)
『ある男』(文春文庫)
『本心』(文藝春秋)
『平野啓一郎 タイアップ小説集』(コルク)
『私とは何か——「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)
『「カッコいい」とは何か』 (講談社現代新書)
『文明の憂鬱』(新潮文庫)
『本の読み方 スロー・リーディングの実践』 (PHP文芸文庫)
『モノローグ』Kindle版(講談社)
『小説の読み方~感想が語れる着眼点~』(PHP新書)
『考える葦』(コルク)
『理想の国へ-歴史の転換期をめぐって』大澤真幸氏との対談( 中公新書ラクレ)
『「生命力」の行方——変わりゆく世界と分人主義』対談集(講談社)
『三島由紀夫論』(新潮社)
『〈自由〉の条件』大澤真幸著(講談社)
『錬金術の歴史: 秘めたるわざの思想と図像 創元世界史ライブラリー』池上英洋著(創元社)

2024.2.9 文章を読みやすく修正しました。内容に変更はありません。

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