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なりすましと変身3 (平野啓一郎試論)

【警告】
小説作品における物語の重要な部分に触れています。未読の方は十分に御注意下さい。

このテキストは『平野啓一郎論』の第五章です。
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分人は統合できるか

平野は、作品の中で、様々な変身・分身・合体のファンタジーを描いてきた。
また平野は、分人主義において、個人を分割したものが分人であり、その分人の全てを統合したものが個人であると言う。
平野がいう「分人の個人への統合」とは何を意味するのか、もう一度考えてみたい。
『本心』で、朔也は死んだ母親のVFの製作を発注する。VF(ヴァーチャルフィギュア)とは、拡張現実上で故人を再現する技術である。
朔也は、完成した母のVFと対面する。それは予想を遙かに上回る出来であった。朔也は「お母さん」と呼びかけた直後、崩れ落ち、堪えきれず泣く。
続けて、朔也は担当者の野崎から使用上の注意を受ける。
野崎は、母の交友関係を整理し、対人関係毎の人格の差異を分析して円グラフにしていた。その円グラフは立体的なもので、棒状である。時期を選べば、その断面が表示される。「断面がすべて違う金太郎飴」みたいなものだと野崎は言う。
問題は、この「人格構成のグラフ」と称するものである。
この円グラフでは、朔也との人格が常に第一位であるが、第二位は三好という名前しか聞いたことのない女性との分人であった。ここから三好との交流が始まる。
平野は『私とは何か——「個人」から「分人」へ 』で、複数の分人の集合体が一人の人間であり、個人を1とすると、分人は分数であると説明していた。
その「分数としての分人」を可視化したものが野崎が示した円グラフである。
しかし、これは少々奇異ではないか。
確かに、朔也は、母の写真やメールなど生前のライフログを一切合切、野崎に渡していた。また、母の口癖、趣味など、厖大な質問票にも答えていた。
だが、たったそれだけのことで、完璧に母の内面の分人関係が再現出来るものだろうか。
ましてや、母がどの分人を大事に思っていたか、その優先順位を付けるなどということが可能だろうか。
メールの内容を精査するにしても、その文章が本気なのか、表面的な世辞に過ぎないのか、どこで判断するのだろう。
SF的な小道具に一々文句を言っても仕方ないとも思えるが、『私とは何か』などを読む限り、平野は本気でこのような「分人を統合する装置」が可能だと思っているらしい。
もし分人関係の円グラフが可能だとしたら、たとえば、この時期には誰と過ごす時間が多かったかというような外的で客観的な条件によってであろう。それならば、母の分人関係の比率を、ある程度固定させることは可能かも知れない。何と言っても、母は死んでいて記録の中にしか存在しないのだから。
仮に、人格の円グラフが作成可能だとしても、母のVFと生活するうち、また三好の登場などによって、母の知られざる分人関係が掘り出され、朔也は母の意外な一面を知ることとなる。対象となる個人の分人は見えないのだから当然である。朔也が見ているのは、ざっくりとした人格構成のグラフであって、対象との具体的なやり取りまでは知ることが出来ない。
実際には、本当に母の分人が統合されているのかどうかを朔也が実感として確かめる方法はない。フィディテクス社の分析した資料を信じるしかない。
しかも、母のAIは対話する人物の言動や表情を分析し学習する。それによってVFの側も常に変化していくのである。VFを製作してしまったら、母はもう記録だけの存在ではなくなってしまうのである。母の歴史が再び動き出すのだ。実際、VFの母は、介護施設で年配者の話相手になるという、新たな仕事を始める。
『決壊』で、崇は沙希に向かってこう言う。
「初めて人と会う。その瞬間から、双方の人格は政治化される。コミュニケーションの中で、相手が俺をどう思うか、俺が相手をどう思うか。それは、フェアな合意形成の道筋を辿らないよ。——絶対に、ね。」
分人の統合が不可能な理由は崇のこの言葉に尽くされていると言って良いだろう。
会った瞬間から双方の分人は政治の場に立たされる。それがコミュニケーションというものなのだ。
VFと暮らし始めた瞬間から、それは単なる固定された記録ではなく、再び、分人関係という政治の葛藤の渦中に巻き込まれる。
あるいは、野崎が最初にさり気なく提案していたように、VFの母を、生前の母ではなく、理想化された状態にチューニングし固定して製作することも可能であった。(それは、まさに「聖母像」だ)
しかし、朔也は、出来る限りリアルにかつての母を再現することを望んだのだった。
そして、全ての分人がその対象によって揺れ動き、かつ、対象自体もこちらの言動によって揺れ動く時、分人を統合するという概念そのものがナンセンスでしかない。
分人を足せば1(完全体としての個人)になると平野が言う時、平野は都合良く、神の面前で独立した自我を持つ個人(神以外のあらゆる相互作用には一切動じない個人)という、最初に自分が否定した近代的な個人概念をちゃっかり呼び戻しているのである。
分人は個人の分割ではあり得ない。そもそも「自立した個人」という概念は平野によって否定されていたのだから。
分人とは、対象に相対して存在するものである。分人は全て対象を持ち、その対象との相互作用によって育まれる。
分人とはあくまで相互作用の産物であり、あくまで重要なのは分人関係なのである。

平野は『私とは何か』で、防犯カメラ網は分人を個人へと統合しようとするものだと言っていた。また、顔に注目すれば分人を統合出来るとも語っていた。
『ドーン』の〈散影〉は、防犯カメラの映像を収集し検索可能にしたもので、まさに分人を統合する仕組みである。
〈散影〉(防犯カメラ網)によって分人の統合が可能なのは、この場合の分人が「顔(の表情)」だからだ。
あらゆる場でのあらゆる表情を収集するのが〈散影〉である。それを反転させ、あらゆる状況でのあらゆる表情を再現させようとしたのが『本心』のVFである。
とはいえ、母のVFは見た目は母そっくりであるものの、受け答えはかなりとんちんかんで、一々「母ならそんな返事はしません」と教えてやらなければならない代物である。
確かに、たかだか写真やメール程度のライフログで故人が完全に再現されるのはあまりにリアリティを欠く。
分人の統合は不可能だというべきだ。

さて、大澤真幸氏が、平野との対談で、分人とは個人の中の社会性だ(分人は個人の内面に社会関係を取り込んでいる)と指摘していることは既に述べた。(『理想の国へ-歴史の転換期をめぐって』)
分人主義において、最も重要なのは対人関係なのだから、それは当然のことである。
ただし、分人関係とは“本人と”対象との関係である。分人が「社会を内面に取り込んでいる」というのはいささか言い過ぎだ。社会に存在していても、自分と関係のない人物との間に分人関係はないからである。興味のない事物、人物は取り込まれない。
従って、分人が取り込んでいるのは「社会」というより、あくまで、その人間から見えている社会のようなもの、つまり「世間」に過ぎない。
一神教世界で全てを創造した神と対峙する「個人」が社会に対し責任を持つ存在であるのは当然だ。しかし、分人関係を統合した果ての「個人」と呼ばれる存在が対峙するのは、ちっぽけな世間でしかないのである。
分人をいくら統合しても「社会」の広大さには及ばない。だから、分人の統合では本当の個人は生まれないのである。社会と対峙した“1”(完全体)ではないのである。
個人が社会における責任を持った概念として自立するには、神概念がどうしても必要だ。神と対話出来る存在だからこそ、人間が法や倫理によって構築したちっぽけな社会という存在について考えることが可能になるのである。
永遠であり無限であり絶対である神概念からスタートした「個人」は「社会」より広大だが、対人関係という最もミクロなものからスタートした分人主義の「個人」に社会性はない。
『私とは何か』の最終章では、「文化多元主義」と「多文化主義」という思潮を考慮し、分人同士が浸透し合い、混ざり合う場合もあるかも知れないと述べ、分人を足せば1になるかについては留保すると言っている。しかし、それは分人主義が「社会」を見据えている場合にのみ意味のある発想である。「世間」しか見ていない分人主義と社会学思想は無関係である。

ここで発想を転換しよう。
確かに、平野は様々な統合(一体の体験)を描いている。
長編デビュー作では“1”(完全体)の幻想である両性具有者(アンドロギュノス)を描いた。それは錬金術という「統合の物語」の象徴である。
錬金術師ピエェルは「結婚は、本質が熔け合う。以前の本質を矛盾した儘保ち得る。有らゆる対立は一なる物質の裡に解消せられる。その物質には、完き存在そのものが、ありありと現れる」と語っていた。
結婚とは男女の合一である。
また、錬金術とは、硫黄と水銀の合一である。
対象と合体することで完全体を恢復するのである。
いずれにしても、彼が、まず描いたファンタジーは「対象との合一」であった。
「芸術家的な、余りに芸術家的な 小林秀雄」(『モノローグ』)において、平野はこう言っている。
「彼(小林秀雄)にとっての批評とは、己れと批評対象とが互いの区別を失って一つとなる、そうした希有な体験をすることであった」
しつこく繰り返すことになって申し訳ないのだが、平野が人を評する時、常に彼は自作を語っているのである。
平野にとっての作品とは、己と対象との合一、その希有な体験を描くことである。
彼が、錬金術、アンドロギュノスという「対象との合一」から作家生活をスタートさせたのは象徴的なのだ。
また、たとえば『空白を満たしなさい』は、徹生が自分の自殺した理由の謎を解明し、子供との関係性を恢復する話であった。この物語は、〈復生〉した後にぎくしゃくしていた父子が、ようやく心を開き抱き合おうとする、その瞬間で終わっている。
その抱擁は、徹生にとって、物心つく前に死んだ父親との関係性の恢復でもある筈だ。
また、璃久にとっても、父親は物心ついた時には既に死んでいる存在だった。
つまり、徹生にしても、璃久にとっても、父親の言動や人となりは、父の生前を知る周囲の人間の証言によって知るのみである。父親は記憶によって再構成される他ない。
二人にとって、本来最も大事な分人関係である筈の父とは、言葉であり記憶である。あるいは「遺伝」が父親と二人を直接つなぐ、しかし決して見えない綱である。
璃久の父親は自分を捨てて自殺しているのだ。母親が幼い璃久にそこまで説明したとは思えないが、印象が悪いことに変わりはないだろう。璃久が〈復生〉した徹生に懐かないのも当然だ。
『本心』のVFが分人の統合だと言えなくもないのは、それが、母の表情を再現するAIであり、かつ、朔也には母の表情一つ一つに結びついた記憶が存在するからである。母が取り結ぶ表情は、その度に、朔也の持つ記憶のカオスに新たな輪郭線を引き直す。それが一つ一つの思い出である。
そして、『本心』の朔也は、生前の母にもっと触れておけば良かったと後悔するのだが、徹生も父に抱かれた記憶がない。
『空白を満たしなさい』が徹生を璃久を抱き締めるシーンで終わるのは、徹生にとって、本当はこうあって欲しかったという自分にとっての父子関係の再現である。
徹生が璃久を抱擁した時、彼は死んだ父親と抱き合っているともいえるし、自分自身を抱き締めているともいえる。
では、たとえば『空白を満たしなさい』を〈復生〉という超自然現象を排除し、普通のリアリティ・ラインを持つ小説として、子供の璃久の視点から語り直してみよう。
——土屋璃久の父親は不可解な自殺を遂げていた。璃久は、父が死んだ理由が理解出来ず苦しんでいた。また、彼は自分が父親の死んだ年齢で自殺するのではないかという予感を抱いている。成人し、焦燥に駆られた璃久は、父親が自殺した理由を知るため、自殺した空白の一日の足取りを関係者の証言を集め、追う。
璃久は偶然出会ったNPO法人代表の池端との会話により、分人主義という考えを知る。そして、父親が死んだ理由が、自分との関係性を大切にしたからだと理解し、父親との和解を果たす。
すると、これで『空白を満たしなさい』は『本心』と全く同じストーリーになった。
『本心』では、たった一人の家族である母を亡くした石川朔也は、空虚を抱えて生きていた。
朔也は、生前の母が“自由死”(安楽死)したいと言っていた理由が理解出来ず、苦しんでいた。
朔也は、母そっくりのVFと対話し、また生前の母を知る三好や藤原亮治と出会うことで、母が死のうとしたのは朔也を大切にしていてくれたからだと知る。
朔也は、VFではない本物の母と再会するという奇跡の体験をする。朔也は母の手を握る。
『空白を満たしなさい』と『本心』は、親の側から見るか、子供の側から見るかという視点が異なるだけで、ほぼ同じ話なのである。両者はどちらも「最初から失われている対象との関係を恢復する」話なのだ。
分人主義にとって本質なのは、対象との関係である。“1”(完全体)となるのは、個人の内面にある分人の統合ではない。対象との統合である。

そして「高瀬川」で描かれる奇妙なエピソードについても触れておこう。
大野は、小説の取材で裕美子という女性編集者のインタビューを受ける。メールのやり取りをするうちに親密になり、京都に遊びに来た裕美子の案内役を買って出る。
二人は、ジャズバーの常連たちの退屈な会話から逃げ出し、そうなるだろうというお互いの予感とともにラブホテルにやって来た。
彼女は、下着に関してあるトラウマを持っていた。一度脱いだパンツは、それを洗うまで穿けないのである。
彼女がショーツをどうやって持って帰ろうかと困っていると、大野は「この中に入れて持って帰ったら?」と、そのショーツをペットボトルに押し込む。「ほら、ピッタリ!」
大野は、ショーツの詰まったペットボトルのオブジェを気に入って、彼女がシャワーを浴びている間に自分のパンツも一緒に詰めてしまう。
シャワーから出た裕美子はさすがにそれを見て驚く。しかし、意外にも彼女も気に入ったようだった。
ノーパンでズボンを穿いた大野は「大野君って、変わってるね。」と笑われる。
朝方、ラブホテルを出ると、仕事帰りのホステスや酔っぱらいなどの歩く高瀬川沿いを歩く。
大野は、抑え難い衝動に駆られて、そのペットボトルを、彼女の目を盗んで高瀬川に落としてしまう。
何故そんなことをしたのか、理由は自分でも分からない。
大野は裕美子を四条通りでタクシーに乗せると、また高瀬川沿いを独りでとぼとぼと歩く。
ここで、ペットボトルの持つ含意は明らかである。
大野がペットボトルに詰めたのは二人の関係性である。二人の下着はペットボトルの中で合体する。しかし、それは高瀬川に流される。二人は、もう二度と会うことはないだろう。
ペットボトルは『空白を満たしなさい』における自殺のメタファーともいえる。
佐伯は、徹生の車に無理矢理押し入ってきた。二人の関係性は決定的なものとなる。徹生は、佐伯との関係性を消し去りたいという抑え難い衝動に駆られて自殺する。


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