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時間2 (平野啓一郎試論)

【警告】
小説作品における物語の重要な部分に触れています。未読の方は十分に御注意下さい。

このテキストは『平野啓一郎論』の第六章です。
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無限に還る

『葬送』のドラクロワは、常に納期に追われ、時間を気にしている。
ドラクロワにとって、絵画とは、自分の生を場所に刻みつける行為である。彼は、作品が完成すると、身体の中を巨大なものが通過していったかのような荒廃を感じる。
彼は抜け殻になる。
絵画という怪物は、ドラクロワの身体から時間を奪い、代わりに未来へと生き続ける。
描かれたもの、それは記憶である。キオス島での虐殺や、七月革命などの。
ドラクロワが死んでも、彼の作品は生き続ける。

「Re:依田氏からの依頼」は、周囲と時間の進行速度が変わってしまう男の話である。
依田は、舞台の演出家である。彼は散々だった海外公演を終え、成田空港から、主演女優であり愛人でもある涼子と白タクに乗った。彼は、七十は越えているだろう老齢の運転手と年代物のベンツに不安に抱く。
豪雨である。気づくと、車は、何故か、高速の追い越し車線を止まりそうな速度で走っていた。涼子は何を思ったのか、シートベルトを外し、膝の上に、向かい合わせに乗ってくる。彼女は、乳房を露わにし、依田の頭を抱く。
「シートベルト、してください。」と運転手が言う。
スペード・メーターは160キロ近くを指していた。
「危ない! スピード落とせ!」
叫んだ瞬間に車は追突した。
涼子と運転手は死んだが、依田は生還し、演出家としても復帰するが、奇妙な現象に遭遇するようになる。
渋谷のスクランブル交差点を、歩行者が途轍もない速さで横断していく。タイミングを失い、信号を渡ることが出来ない。
また、エレヴェーターは、扉が閉じた瞬間に1階に着いている。コンビニの店員は早口過ぎて聴き取れない。かと思えば、蛇口の水はゆっくりと流れ、下に落ちるまでに十秒はかかる。
周囲の時間は、速度を速めたり、遅くなったりを繰り返す。その進行は、ますます極端になる。
依田は、生活を続けることが不可能になり、涼子の姉である未知恵の世話なしには生きられなくなる。
平野は「「稔りの飽和」の静かな重み——古井由吉『ゆらぐ玉の緒』」(『考える葦』)というエッセイで「体内時計」の研究について触れ、人体の各器官には「時計細胞」が存在すると言っている。身体の時間の進行速度が狂うという事態は現実にあり得ると思っているのかも知れない。
成田空港での税関で、容姿が“ガイジン”染みている依田は、執拗にスーツケースを調べられる。
すると突然、「肉体の老化が、部分的に速く進んだり、遅く進んだりする人間という、新しい戯曲のアイディア」を思いつく。「手だけが老いてしまった男。首だけがいつまでも若々しい女。顔だけが体に先んじて年齢を重ねてしまう人。」
身体の各器官の「時計細胞」が、相互の連関を失い、独自に時を刻みだしたら、そのような事態もあり得る。

「氷塊」では、時間の進行は「水(氷の融解)」に喩えられる。
思い描いていたキャリアの夢が破れ、地元に帰り、男と泥沼の不倫関係を続けている女は、止まった(凍った)時間の中にいる。
いつも喫茶店の窓辺にいる、その女をじっと見つめる少年は、亡くした母への思いに囚われている。
女が倒したコップを手に取り、氷を口に含むと、その瞬間に男と別れる決心がつく。
少年の時間も、女の時間も再び動き出す。
いずれにしても、ここで重要なのは、口に広がる、溶け出した氷の冷たさである。
平野にとって、全ては身体感覚と結びついている。「時間」も例外ではない。

『マチネの終わりに』で、洋子は、蒔野と初めて会った夜、コンサートの打ち上げの席で野菜ばかり食べている。
ベジタリアンなのかと聞かれた洋子は、通信社の仕事で近々イラクに行くからだと答える。向こうに行ったら食べられなくなる日本の野菜を今のうちに食べておきたいのである。
野菜とは、間違いなく、その土地が育んだものである。洋子が食べているのは、日本という土地の歴史(記憶)であり、しばらく離れる日本での思い出だ。無論、その中には、この夜の、蒔野とのこの上なく楽しかった会話の記憶も入っているであろう。
平野は次のように書いている。
「何処か遠くの、自分にはまったく馴染みのない国で作られた作物を食べるということ。それは、その作物を育んだ土地の歴史を肉体の一部として所有することです。」
「少なくともその地の一定の時間的経過を物質の形で摂取することだと言い換えてもいいでしょう。」「「多国籍商品」の時代」(『文明の憂鬱 』)
また「食卓の殺伐とした風景」(『文明の憂鬱 』)では、食品とは情報を口に入れるものであり、風評被害はそこに生まれる、食卓に必要なのは正しい情報であるという意味のことを述べているのだが、実に平野らしい発想である。
彼は身体性に拘る作家だ。
口にするのであれば、「正しい情報」を食べなければならないのだし、「時間を食べる」とは文字通り、そのままの意味なのである。
時間は身体に取り込まれ、身体の一部となる。時間は記憶という形で肉体に蓄積される。
勿論、とはいえ、記憶に残されるのは食事だけではない。全ての体験である。
たとえば、ドラクロワの絵画を見る時、人は、彼が絵画に込めた生きた時間を摂取する。

さて、平野は大江健三郎との対談で「死者に耳を傾けるなんてことが出来るのか」という平野の疑問に対して、大江氏が「文章を書くことによって、死んだ友人を自分の中に取り込んでしまうんです。死者との関係があいまいになってくる」(『私とは何か——「個人」から「分人」へ 』)と答えたと書いている。
ここにも「対象と一体になる体験」がある。
友人は身体に取り込まれ、自分の一部となる。
「個人は分割出来るが、関係性は切断出来ない」というのが分人主義であった。
対象と一体化した時、自他の区別は不分明になり「死者との関係があいまいに」なる。
記憶の中の友人と対話する時、それは他者との対話であり、かつ自己との対話でもある。

「フェカンにて」で、フェカンの浜辺に座りこみ、日没の時を過ごしている大野は、郷里の北九州の海を思い出す。
彼は、幼い頃、よく一家で浜辺に夕涼みに出掛けた。言いつけを守らないと、無数の手が海中に引き摺り込むぞと脅された。
彼は「海を発見したのは、寧ろ記憶に於いてである」という。
海とは、無限に続く記憶である。
大野は、小説作品を次のように説明していた。述語のカオスを、一つの主語が一連の述語の群を統合することによって輪郭線を形作る。その輪郭線が個々の登場人物(=固有名詞)である。
大野という固有名詞が取り結ぶ輪郭線は記憶を囲い込んでいる。死んだ家族や、郷里の友人や、その他諸々の人間関係は、記憶として彼の身体に取り込まれている。

「やがて光源のない澄んだ乱反射の表で……/『TSUNAMI』のための32点の絵のない挿絵」(『あなたが、いなかった、あなた』)は印象的な作品である。
「僕」は大江戸線のホームにいる。ホームには砂が舞っている。
地下鉄だけではない。この世界では、地上のあらゆるところに砂が積っている。街には砂塵が舞い、目が痛み、涙が滲む。
人が老いを迎えると、やがて、その身体からは砂が零れ落ちる。「僕」も、いよいよ零れ落ちる砂が気になるような年齢になってきたのだ。
最初はほんの一つまみだった。しかし、残業で疲れ果て、うっかり会社の机でうつ伏せになって寝てしまうと、起き上った「僕」の目の前には見たこともないほどの量の砂が積っていた。慌てた「僕」は、ブラシで砂を片づけ、まだ残っている砂粒をウェット・ティッシュで拭く。「僕」は溜息を吐く。
「こうしている間にも、僕の体は着実に崩れ落ちてゆく。無底の広大な場所へと向けて上下をさかさにされた砂時計のように、僕という時間の堆積を、匿名の時間の流れの中へと戻してゆく」
この世界では、身体という砂時計から時間が落ち続けているのである。砂の落ちた空隙には虚無が招き入れられる。「言葉はそれを埋め合わせようとしながら、宿命的に間に合わない」。
肉体とは、記憶のカオスに引かれた輪郭線である。記憶とは時間である。時間とは言葉である。その輪郭線は、やがて崩れ去り、砂(時間)は、広大な匿名の時間へと戻って行く。零れ落ちた砂は、どこかの誰かに僅かな涙を流させるが、それだけである。
「フェカンにて」の大野が、父親が死んだ年齢で自分も死ぬのではないかと予感する時、彼の身体という砂時計には、父親の生と同じ量の砂だけが詰まっている。砂が落ちきる時、彼は死ぬのだ。

「ボルヘスと「現在」」(『モノローグ』)では、平野はボルヘスの世界観について「彼の世界観の基底をなしているのは、何事かの事物、何事かの出来事は、いずれも無限の可能性、無限のパターンの中にある一通りである、という発想」だと述べている。「あらゆる現象は、無限に近い数学的可能性の単なる一つに過ぎない」。
例えば「バベルの図書館」という作品。
バベルの図書館とは、人類が使う文字のあらゆる順列・組み合わせを収録した図書館である。そこには、あらゆる思想、あらゆる詩、人が語ることの全てが収録されている筈だ。
あらゆる数学的可能性のパターンからなる砂丘を想像してみる。そこに片手を突っ込み持ち上げる。手の甲に乗った砂が一生分の思い出である。人が所有を許されるのは、たかだかその砂の分の記憶であり、人が死ねば、砂は砂丘に還る。
「やがて光源のない澄んだ乱反射の表で……/『TSUNAMI』のための32点の絵のない挿絵」が、この「バベルの図書館」を幻想的、かつリアリスティックに描いた作品であることは明らかだろう。
ここでも、平野は、その身体感覚によって時間を表現している。
身体から零れ落ちる砂は恐怖だし、机の上に積る砂のざらざらとした感触はさぞかし不快だろう。拭っても拭っても、零れ落ち、積っていく、その砂の感触。
「フェカンにて」では、時間の砂丘は、海として表現されていた。
「清水」で、冒頭から最後まで聞こえて来る、清水のしたたる音。それが何を意味するのかも明らかである。主人公は、死にかけているのだ。だからこそ音は止まないのである。ここでは、時間は「清水」である。
(無論、厳密に言えば、文字が有限である以上、その組み合わせであるバベルの図書館も砂丘も海も「無限」ではあり得ない。またバベルの図書館の蔵書のほとんど全ては無意味である)
『葬送』の冒頭、ショパンはマジョルカ島のヴァルデモザの僧院で幻影を見る。彼は独り僧院の一室にいた。それは、冷たい湖で溺れるという幻である。ショパンは「屍体のような自分の胸に、しずくが規則正しくしたたり落ちる音を」聴く。
ショパンは死につつある。
ショパンの葬儀で始まる『葬送』は、その全編の回想によって、死につつあるショパンを描く。
また、老いによって崩れた輪郭線から、砂が(あるいは水が)したたり落ちていくのなら、我々全員が、今この瞬間にも、まさに死にかけているのだといってよい。

そして、身体が朽ちて、その輪郭が失われたとしても、骨は残る。
「骨肉論」(『文明の憂鬱 』)で、平野は、前近代的な狩猟社会の多くで、肉を食べた後の骨を砕くのが禁止されていることに触れる。骨を砕くのが禁止されるのは、死んだ生物も、再び骨に肉を纏い復活すると信じられているからである。
肉は不可逆的に腐敗するが、骨は残る。死のアレゴリーとして骸骨が用いられるのは当然だ。骨は、肉(生)の喪失という意味で、生死の境目に存在するものである。
『決壊』で、息子の良介を亡くした和子が、その骨壺を両手で抱き、決して離そうとしないのは象徴的だ。彼女は、骨壺を、良介がお腹に入っていた時と丁度同じくらいの重さだと感じる。良介は、肉が再び纏わりつく前の姿に戻っているのである。(野蛮な現代人が、それを焼き、粉々にしてしまっているとはいえ)
骨は、死に還る生と、生の生まれる死の両方を象徴している。

『本心』の朔也は、ルームシェアしている母の友人である三好から、《縁起Engi》というアプリを勧められる。
それは、宇宙の時間を体験するアプリなのだという。
ヘッドセットを装着すると、そこは宇宙空間である。無数の星空の中、ただ意識だけが浮かんでいる。
朔也は自分の肉体が消え、自分という輪郭がなくなったように感じる。そこには完全な静謐が広がっている。「僕は」という主語は「宇宙は」という主語へと置き替わった。
《縁起》において、宇宙は、一億年が一分間で過ぎていく。
朔也の意識は、幾つもの銀河を経由し、太陽系を目指す。
轟音とともに、地球の大気圏に突入し、地球の時間を体験する。
恐竜が生まれ、人類が誕生し、戦争があり、原爆が落とされ、テロがあり、やがて、雲のかかった青空が見えた。それが、自分自身が焼かれ二酸化炭素になった日だと気づいた朔也は戦慄する。つまりは宇宙そのものに戻ったのだ。
続いて、時間は未来へと続き、人類は絶滅し、地球は死に、太陽は燃え尽き白色矮星に変わる。
朔也は、再び星々の輝く暗闇を漂う。


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