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正法眼蔵 3/100

正法眼蔵 n/100 っていうタイトルからすると、敷地に n 個の点を選んで基礎杭を打ち、巨大な蔵を再現するプロジェクトに見えるし、自分もそういう気になりそうなんだけど、いくら建築が好きとはいえ、その喩えに嵌まりすぎないようにしないといけない。この喩えはどうも、西洋哲学に由来する感じがする。ウィトゲンシュタイン『論考』がわかりやすい。7個の点に基礎杭を打ち、柱を立ち上げ、その間に必要な梁を渡していった書物。その目標は、序文によれば、思考に(内側から)限界を引くことにあった。

でも正法眼蔵がそういう造作になっているかどうか。まず「思考の限界」というところだけど、道元はこう言っている。

水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。

正法眼蔵第一「現成公案」岩波文庫第一分冊 58-9pp.

水・空の果てまでもきわめたのち、さらに水・空を行こうとする鳥や魚があったとしても、水にも空にも道を得ることはできない。処を得ることはできない。······これはまさに水空の限界、人ならば思考の限界について述べていて、ウィトゲンシュタインも賛成するところだ。だがその次。

このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。

同 59p.

ウィトゲンシュタインが「沈黙するしかない」と言ってる限界の「外」に、処を得れば、道を得れば、なんかすごいことが起るって言ってません?「行李」とはふつう「行履」と書いて、おこない・ふるまいのことです。「修行」って限定はしない方がいいと思う。鳥なら飛ぶこと、魚なら泳ぐことがかれらの「行李」だ。その行李が、行李なりに(したがひて)「公案」を「現成」すると。

「公案」は唐宋代の裁判用語で、司法案件という意味。それを仏法案件にシフトさせたジャンプがすばらしい。科挙真っ盛りの役人の教養レベルのなせる技じゃないか。つまり「現成公案」は仏法の最重要案件を裁くというニュアンスだ。あきらかに道元は、「限界」の外を見ようとしている。

基礎杭は、荷重の集中する地点だ。数学の概念で「集積点」というものがある。集合Sがあって、点PがSの集積点であるとは、Pのいくらでも近くにSの点が無限個あることだ。集合Sを建築構造体とすれば、Pは力学的な集積点ということになるだろう。で、Sのすべての集積点がSの中にあるとき、Sは「閉集合」と呼ばれる。何が言いたいかというと、ウィトゲンシュタインは集積点を数え上げて、7個の基本命題を得た。数え上げることができるということは、それが思考の内側にあると確信していたからだ。そしてその外側については端的に「語り得ない」ものとした。であれば、『論考』は語り得る閉集合についての書物なのではないか。

一方、正法眼蔵は、公案を集められるだけ集めて、それについての弁論を展開したものだ。驚くのは、明らかな「判決」と思われるものが見当たらない。正法眼蔵が難解とされる最大の原因はここにある。いわば、解答が付いてない、厳選問題集みたいなものなのだ。判決を集積点とみなすなら、集積点が集合の外にある。開区間 (0,1) に対して1は集積点の一つだが、(0,1) の外にある。建築とすれば、何という建築か。外側から支えられる構造体。

そういうテキストに向かうわけなので、今日のは 3/100 だけど、その3は、何なのだろう。見たこともない建築空間に入っていくのでした。

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