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非色の色の見ゆるまで_富澤大輔写真作品集『字』より

藤原定家。

 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮

馬を止めて袖に降りかかった雪を払う物かげもない、佐野の渡りの雪の夕暮。だからなに?としか反応しようもないような一首に見える。しかしその設計プロセスを先人の研究によって追ってみると、夕闇に沈みゆく雪景から歌神の姿が現れる。定家は万葉集、長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の以下の歌を「改修」した。

 苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに

佐野/狭野は同じ地名の異表記と思われる。やれやれ、三輪の崎まで来て雨に降られてしまったよ。狭野の渡りには雨宿りさせてもらえそうな家もないしな······というつぶやきだ。万葉集はこのレベルの歌も載せる。これを定家が拾う。まず初句の「苦しくも」が示す一人称を外す。雨を雪に変え、馬を歩ませ、騎乗する人物の身分を「袖」によって示唆する。「家」を「かげ」に抽象化し、助詞「の」の反復するリズムとともに、白い夕暮のなかをゆっくりと馬が遠ざかっていく。

花。平安四百年をかけて、花と紅葉を言葉に写す技は磨かれた。紀友則。

 ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ

「ひさかた」は「光」の枕詞で、語源不詳。「ひさかたの光」全体が「光」の雅語と考えていい。「光ものどかな春の日に、なぜ花は静謐の心もなく散るのだろう」。これを文字通りに花の散るのを残念がる歌と受け取れば、下衆の者と笑われる。散る花の美しさをどうすれば優雅に強調することができるか。友則は、静止した光の中で花を舞わせた。出来栄えに満足して「しづ心」が保てず、花のせいにしてしまう。

宮内卿。新古今集。

 花さそふ比良の山風吹きにけりこぎゆく舟の跡みゆるまで

比良ということは、琵琶湖である。空を覆い尽くさんばかりに花が散ったことを湖上の「舟の跡」に知る。空間的には遠く比良の嶺々から湖水まで、時間的には山風の「さそひ」から舟の跡の「みゆる」まで、スケールの大きさにおいてこれ以上は考えられないであろう花吹雪の痕跡である。

ふたたび、定家。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

繊細さにおいて友則が、絢爛さにおいて宮内卿が、花を極めてしまった。和歌はこれで終了してもよかった。多くの歌詠みはそれを認めることを怖れて、小さな称賛を求めて花紅葉を詠み続けた。ただ定家一人、終了の覚悟があった。花も紅葉もない光景に出てゆくと、そこに手付かずの領域が広がっていた。「苫屋」は漁師が漁具を置いたり、休憩をとったりする小屋だ。和歌に登場することなど苫屋も想像していなかっただろう。このとき美の概念がくるっと方向を変えた。花紅葉の美が極められた果てに佇む浦の苫屋。袖の色は残像となって、雪の夕暮にやがて消えた。

富澤大輔。そのグレイのグラデーションに消えるのは、何の色か。

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富澤大輔『字』/南方書局 2022春・刊

富澤大輔写真展
『字』
2022年3月19日(土) 〜 2022年4月24日(日)
観覧入場料 無料
会場 LIBRIS KOBACO
時間 13:00~18:00
休廊日 火曜水曜
※祝日は休まずオープン

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