第11話| 草の時 花の時
次の週、ダザイをナツメ先生の家に連れて行った。先生がダザイとコンピュータでいろんな話をしてる間、僕は先生んちの猫と遊んでた。30分で終了。これでダザイはまた一段と頭が良くなって、まちがえることも出来るようになった。
ダザイ、この前やったとこ覚えてる?
ダザイは生まれてからのことを全部覚えてるし、生まれる前のことも覚えてるし、忘れたことも覚えてる。
ん… もうまちがえ始めた? ダザイ、いまどんな気分?
いい気分だ。前より自由な感じがする。
そうか、よしよし。じゃあダザイ、「自己をはこびて万法を修証する」のが、どうして迷いなの?
自分ていうのは、万法を修(おさ)めたり証(あか)したりするツールなんだ。
おっ、そうなんだ。
だから運ばないといけない。
何十キロもあるしね。でも、運んでいって「万法を修証する」のがなんで迷いなのかって問題。
修証してると、今度は逆に、万法がきみを修証する瞬間が訪れる。
…もしかしてナツメ先生、質問とちがうことを答える技もダザイに教えた?
教えてないよ。質問というものは単純じゃないってことを教えてくれたんだ。単純じゃない質問に単純に答えたらだめだろ?
いいよ、複雑に答えて。
仏道という道には、自己から万法に向かう「草」の時と、万法が自己にやって来る「花」の時があるんだ。
たいして複雑じゃなかったな。
「迷い」といわれると迷わないようにしなきゃって思うけど、「草」だったら、草もいいかなって思えるだろ。
ダザイやっぱ、賢くなったかも。
JTI。
なに?「じゃ次行こう」? DAIGO の技まで教わったのか。オッケー、DZI。
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。 迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
「諸仏」って書いてあるけど、仏はお釈迦様だけじゃないの?
じゃない。「仏」の意味は〝覚めた人〟。釈迦族の聖者であるゴータマ・ブッダはその一人だ。
迷いのなかで大いに悟るのが諸仏で、悟りのなかで大いに迷うのが衆生… 「衆生」ってなんだっけ。
衆(おお)くの生きもの。ミジンコとかキノコも当然生きものだけど、ここでは一応、人間たちのことをいってる。
わかった。仏たちは迷いのまっただ中でも悟り、仏じゃないふつうの人たちは悟りのまっただ中でも迷う。そうかと思えば、悟った上に悟る漢… 漢?
「漢」は〝人〟だ。
悟った上になお悟る人もいるし、ずーっと迷いばっかりの人もいる。......ダザイがさっき言った草と花のたとえで言うと、次から次に花を咲かせる木もあれば、ずーっと緑のまま立ってる木もある。
うん。
それはそれでかっこいいよね。
(つづく)
挿し絵|富澤大輔
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