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三鷹っ子純情

スポ根の血が流れている『永遠の一手』

 今年の将棋界のトップニュースは、やはり、藤井聡太棋士のタイトル八冠独占であろう。藤井棋士の人間離れした強さは、人工知能を相手にして徹底的に鍛えられたという。とはいえ、ほんの少し前までは、AIの計算速度は人間をはるかに上回り、プロ棋士は相次いでAIに撃沈されていたのである。

 そのような状況を背景にして、2016年『週刊少年チャンピオン』にて『永遠の一手』という将棋マンガが連載された。2020年東京オリンピック開催とほぼ同時期に、史上最強の名人羽内とコンピューター・ソフト「彗星」との対決が行われ、コンューターが勝利、羽内は棋界を去り、将棋界は崩壊の瀬戸際に追い込まれる、という設定で始まる物語である。2025年将棋連盟は新たな打開策を講じ、ソフトメーカーとプロ棋士がチームを組んで、あたかもF1レースのように、チーム戦としての将棋大会への移行を図る。ドライバーとしての棋士とメカニック部門としてのソフトメーカーがタッグを組んで団体戦を行うのである。

 将来ありそうな近未来SFのような設定の物語において、ただ一人そのトレンドに逆らい素手での勝負を挑む反時代的な棋士が登場する。増山一郎という名のその棋士は、周囲の嘲笑を跳ね返し、コンピューターに勝ち続ける。じつは増山の父は将棋の歴史を変えてしまった「彗星」の開発者であった。そして増山の娘翔子が天才中学生プログラマーとしてソフト開発に加わり、父との将棋対決に挑む。かくして親子3代にわたる、昭和のスポ根マンガのような熱いドラマが繰り広げられる。最終的に増田と再び姿を現した羽内による一騎打ちが行われ、観る者を戦慄させずにはおかない死闘を演じ、将棋界は再び生身の棋士どうしの対極という「人間主義」に回帰するのであった。

 原作者は伊藤智義(作画は松島幸太郎)。千葉大学工学部教授でコンピューター研究者でもあると同時に自身で将棋も指す伊藤(自称アマ4段)は、コンピューターに関しては意外にもメディアほど熱くなってはおらず、コンピューターやAIというものはあくまでもツールにすぎず、将棋という貴重な人間文化を科学技術の無節操な力によって解体すべきでない、というスタンスをとっているようだ。『永遠の一手』の展開に見られるごとく、デジタルの価値を認識しつつも、身体の奥深くにアナログなるものを沁みつかせているようで、その作風は懐かしい。その物語感覚は70年代の色調が強く、具体的な作家でいうとちばてつやあたりで止まっている。

 じっさい、V6の岡田准一がMCを務めるFMラジオ番組に伊藤がゲスト出演したことがあって、「子供の頃どんなマンガを読んでいましたか」という岡田の問いに、「アニメの『巨人の星』を観るのが好きでしたね」と答えていた。私と同年生まれである(実を言うと伊藤は私の小学校の時のクラスメートでもある)伊藤のスポ根体質のようなものは、わかるといえばよくわかる。ところで伊藤には『栄光なき天才たち』(作画森田信吾)というヒット作があり、この有名作品もまた、スポ根の匂いが濃厚に漂っていた。

アナクロニズムとしての『栄光なき天才たち』

 1986年に『ヤングジャンプ』誌上で連載が始まった『栄光なき天才たち』は、1話読み切りの一種の「伝記」もののようなマンガであった。数学の歴史の改革者でありながら同時代には黙殺されたガロア、電話技術の開発に成功しながらわずか2時間の差でベルに先を越され歴史から消え去ったグレイなど、不運な人々の秘話にスポットを当てた物語は人気作となり、単行本の売り上げも相当よかったらしい。印税による年収が1400万円を超える年もあったという(『スーパーコンピューターを20万円で創る』参照)。

 私が初めてこのマンガを読んだのは1987年の5月頃である。ノーベル化学賞受賞者であり毒ガスの開発にもコミットしたフリッツ・ハーバーを描いた作品であった。その時の印象は「重いな」というものと同時に「この時代錯誤ぶりは悪くない」という二つの反応であった。前者は私の中の80年代的なものによるものであり、後者は私の中の70年代的なものによるものだった。

 そもそも「天才」という19世紀的な語彙に私はのけぞってしまった。80年代においてそれは一種のNGワードというものであり、気恥ずかしさを覚えずにこの言葉を使うことはほぼ不可能といってよかった。さらにはなんの言い訳もなく「物語」が語られていることと「意味」が肯定されていることを目の当たりにして、場違いな真剣さの時ならぬ登場に対応する術を奪われたようなむずがゆさを禁じえなかった。80年代の抑圧から解放されたようなこの愚鈍なふるまいはいったいなんなのか・・・・・・。

 80年代・・・・・それは「反物語」であり「反意味」の時代であった。80年代のそのような文化的所作の根底にあったのは、「初発の欲望」の運動に鈍感で、なおかつそのことに居直って、人生や情熱や闘争や目的や意味の萌芽を流産させて心痛まない運動音痴的文化人のシニシズムであった。手っ取り早く言えばスポ根の才能を欠落させた相対的に頭脳が優秀なだけの皮肉家のせこいプライドであった。80年代の批評による80年代の文化の肖像画は次のようなものであった。

 それに対して、村上の「僕」は、無意味なものに根拠なく熱中してみせることによって、意味や目的をもって何かに熱中している者への優越性を確保するといった姿勢に存する、超越的な自己意識である。
 くりかえしていうが、これは国木田独歩以後の「近代文学」にあったものであり、その反復である。いいかえれば、「闘争」を放棄し且つそのことを絶対的な勝利に変えてしまう詐術の再現である。村上春樹は「内面」や「風景」を否定したかのように見える。しかし、実は彼がもたらしたのは、新たな次元での「内面」や「風景」なのであり、その独我論的世界が今日の若い作家たちにとって自明のベースになったのである。

柄谷行人「村上春樹の「風景」」1989年

 村上春樹と高橋源一郎――システム化した物語への最も先鋭な自己意識のあり方を実践するこの二人の表現に共通するのは、システムの意思を先取りすることだけが自由の証である、という考え方である。この二人にあっては、自己はもう無前提な「中心」ではない。彼らはいつも、自分が不可視のシステムの関数にすぎないのではないかという疑念に晒されている。だから彼らは、システム化した物語から身を振りほどくために、まず、いま・ここにある自己を括弧に入れなければならない。彼らは、自ら仮死を装うことで物語から意味を抜き取り、逆に物語を死へ追い込もうとするのである。その意味で、彼らの装う仮死は、彼らの自由への倒錯した身振りだと言えよう。

井口時男「核戦争という物語」1985年

 「自ら仮死を装うこと」で「自由」や自らの「優越性」を確保する、といったせせこましくも面倒くさい振る舞いが80年代の文化的所作だったのである。『栄光なき天才たち』の原作者は、そのようなつまらない約束事を端から無視し80年代の抑圧から爽快に解放されているかのようだった。そんな豪胆かつ無知なふるまいを自分と同世代の人間ができるとは夢にも思わなかった。当時の私は、『栄光なき天才たち』の原作者を、自分よりも少なくとも10歳は年上の人間だと思い込んでいた。「伊藤智義」という名前も見ていたとは思うのだが、わりかし平凡な名前であり、かつてのクラスメートのことに思い至ることなどなく、あえて確信犯的に反時代的なポーズをとる全共闘くずれの人間ではなかろうか、と勝手に推測していたのである。

 マンガ作品としての『栄光なき天才たち』は、素朴といえば素朴であった。先にも言ったように、それは「伝記もの」というスタイルをとっており、物語を動かすというよりは、情報の物語化に力が注がれている。であるがゆえに、作品の多くの部分がナレーションや解説によって占められている。ノリとしては「日本の歴史」を解説する学習マンガのようであり、言葉によって支えられる非マンガ的な作品となっている。言い換えれば、大友克洋や松本大洋の作品のように、「絵」それ自体によって世界観が語られるという、マンガの醍醐味を欠いている作品なのである。それがこの作品の唯一の欠点である。マンガ文法への野心的な反抗といった果敢な試みの不在を腐すことも可能だが、80年代における「意味の不在」といった当時の負の側面を、オウム真理教とは違ったやり方でカバーしようとしたことを評価したい。ちなみに「意味殺し」に加担した村上春樹は、地下鉄サリン事件に、真底、恐怖感と深い後悔の念を覚え、90年代に転向することになる。

 ところで「伊藤智義」という人物が自分の知る人間だと思い至ったのは、たまたま、自分の通っていた小学校をネット検索していた過程においてだった。昭和40年代私は三鷹市立第4小学校に通っていた。

えなりかずきの顔とスニフの佇まいを持つ少年

 父親の仕事の関係から私は3つの小学校に通ったが、最初に通ったのが三鷹市立第4小学校だった。宮崎駿の「三鷹の森ジブリ美術館」の近くにある小学校と言うとわかりやすいかもしれない。私が伊藤智義とクラスメートだったのは1972年5月から9月まで(この年の10月に私は栃木県の小学校に転校することになる)の短い期間である。「5月から」と変則的なのは、4月の時点では3クラス編制であったのが、5月に何かの事情で4クラス編制へと移行し、私と伊藤は4年4組の生徒となった。

 3年生までは別のクラスにいたので、私と伊藤は親しい間柄ではなく、言葉を交わしたこともなかった。伊藤と話らしい話をしたのは教室前の廊下であった。年次途中のクラス替えがあったので、自分がどのクラスの生徒なのかわかるように、それぞれの教室の廊下側の壁に生徒の名前が紙に書かれて張り出されていた。詳しい状況は覚えていないのだが、その時私と伊藤は、二人並んで張り出されていた紙を眺めていた。伊藤は私の左に立っていたように思う。4年4組の名簿では、私が1番で、伊藤は2番であった。しばらくして伊藤は私に顔を向けると、「石和君の名前の「義」の字と僕の名前の「義」の字は同じだね」と語りかけたのである。確かに伊藤の言う通り「義」の字が並んでいたのだが、それよりも何より、3年生まで一緒に過ごしてきた仲間との会話ではこういう言葉はあまり聞かなかったなあ、と私はかなりびっくりしていた。「なんだかえらく大人じゃ~ん」というのがその時の印象であった。

 伊藤は独特の雰囲気を持った少年であった。本稿のタイトル「三鷹っ子純情」はマンガ家長谷川法世の代表作『博多っ子純情』(私の高校時代のバイブルである)のもじりなのだが、今回本稿を書くにあたり映画化された『博多っ子純情』のDVD(これは名作である。またマンガをモチーフに作られた博多出身のバンドであるチューリップの「博多っ子純情」という曲もシングル化はされていないが隠れた名作である)を観て気づいたことがある。まず、私が三鷹時代に馴染んでいた風景と『博多っ子純情』の風景の感触が似ていたこと。そして映画の中の主人公がえなりかずきを介して伊藤智義と連続線上の関係にあることに気づいたのである。

 映画で主人公郷六平を演じるのは当時16歳の光石研。これが絶品で、パロディすれすれの絵に描いたようなマヌケ面が昭和の穢れなき田舎少年を見事に造形している。えなりかずきをIQ20ほどレベルダウンすると出来上がる感じ。この一種聖性を帯びたマヌケさは70年代までが寿命であり、80年代以降を生きるえなりかずき本人はどう頑張ろうが歴史的構造によってたんなるいじられキャラに甘んじるほかない。そしてえなりかずきを光石研とは逆方向にIQ20ほどレベルアップすると伊藤智義の顔が出来上がるような気がする。こうして「えなりかずきトライアングル」とでも呼ぶべき相関図が形成されるわけだが、光石研的博多の風景と伊藤智義的三鷹の風景の相性の良さが確認される。だから伊藤は『栄光なき天才たち』を書けたとも言える。博多=三鷹の風景の磁場が80年代的村上春樹の風景に逆らうことを可能にしたのだ。この三鷹の風景問題についてはまたあとで述べることとして、とにかく伊藤の顔はえなりかずきに似ていたのである。しかもえなりに比べて少なく見積もってもIQが20は高いのである。えなりが成城大学の卒業に対して伊藤は東京大学を卒業している。東京大学卒の学歴を持つえなりかずきを人は想像することができるだろうか。なかなか不気味である。一見マヌケに見えるがじつはただ者ではない、伊藤はそのような雰囲気をまとった少年だったのである。

 最初の会話でひと味違う印象を私に与えた伊藤とは、出席番号が1番と2番という関係もあって、私は伊藤と親しい付き合いを始めるようになったが、やたらとダジャレを繰り出すその特異な能力によって伊藤は私を魅了した。当時の私は人間の価値観を、スポーツができるか面白いやつか、という2点だけに置いていた。伊藤はこの2点をクリアし、しかも2つめのポイントは他の追随を許さなかった。3年生までのクラスメートには面白いやつはもちろんいたが、それはドリフターズの真似をするといった類のものであったのに対し、伊藤は会話のはしばしにダジャレを挟み込んでくるのである。具体的なものはさすがに覚えていないのだが、とにかく非凡な印象があった。

 伊藤のもう一つの特徴は背が高いことであった。おそらく学年で一番背が高かった。私も子供のころは背の高い方で、3年生まではたいていはクラスで1番だったが(中学生の頃はバスケットボール部に所属していて小型チームだったこともあって、ポジションはセンターだった)、伊藤は私よりも5センチメートルくらいは高かった。同級生から見おろされるという体験はその時が初めてだった。ただし威圧感というものは全くなかった。むしろひょろりとしていてソフトな印象だった。トーベヤンソン原作『ムーミン』に登場するスニフというキャラクターのような雰囲気があった。

 伊藤というと思い出されるのが、当時クラスメートたちで作っていた野球チームのことである。三鷹という所は早実のスター荒木大輔が所属した「調布リトル」があって、野球熱の高い地域である。私が4年生の頃、各クラスの男子が野球チームを作って交流試合を繰り広げていた。私たち4年4組も「キングタイガース」というチームを作っていた。チーム名の名づけ親はキャッチャーを守っていた富沢という酒屋のボンだった(家に遊びに行ったら階段が2つもある2階建てでびっくりした)。阪神タイガースのファンの富沢にうまく誘導されてたいそうな名前のチームと相成ったが、そのチームで私がショートを、伊藤がサードを守っていたのである。

 おそらく6月くらいだったと思うが、ある日曜日にわがキングタイガースはとなりの3組のチームと試合をすることになった。前日の土曜のホームルームで富沢か上野(ピッチャー)のどちらかが「明日は僕たちは野球の試合をしますので女子の皆さん応援に来てください」と告知して、大半の女子たちをシラケさせていた。そのころの4組は男子と女子の仲がひどく悪かった。ところが当日は奇特な女子もいるもので、3人ほど応援に駆けつけてくれたのである。その中の一人にラーメン屋の娘がいて(名前は戸張さんだったと思う)、土曜の夜に父親にクラスの男子たちが野球の試合をすると言ったら「勝ったら店の料理をタダで食わせる」と酔っ払った勢いか何かで娘に言ったらしく、そのことを試合前に私たちに伝え、私たちのモチベーションを大いに盛り上げてくれた。試合の結果は私たちの圧勝となり、店の都合も考えずに私たちは戸張さんの店に押し掛けたのである。その店は私たち9人が入ると満杯になるような小さな店であったが、彼女の父親と母親は私たちをこころよく迎えてくれて全員に焼きそばをご馳走してくれた。いかにもな「昭和の風景」と言えるが、そのようなささやかだが手ごたえある風景の感触が私をしっかりと支えてくれているのだと、実感する。三鷹の風景について語ろう。

三鷹について私が知っている二、三の事柄

 国土交通省の定義によれば、故郷とは「生まれてから15歳までの間、一番長く過ごした場所」ということらしい。0歳から10歳までの10年間を三鷹で過ごした私の場合は、この定義に照らし合わせるなら、三鷹が故郷となるし、個人的な実感としても肯ける。ちなみに「生まれてから15歳までの間」私は、三鷹、宇都宮、自由が丘、横浜で生活した。

 三鷹についてわずか10年の個人史に基づいて語るのは困難だが、ここはもう偏見に陥るかもしれないが、自分の個人的な体感に頼るしかない。小学校6年生の時(この時は自由が丘に住んでいた)、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読んだことがあって、描かれた世界の雰囲気に三鷹を感じたことがあった。『君たちはどう生きるか』の実際の世界は、昭和10年代の東京の中産階級を舞台にしている。「古き良き」という言葉が似合いそうな匂いがするのだが、「野暮ったい上品さ」という表現が三鷹にはしっくりするように思う。そのことについてひとつの例証をあげよう。私は中学校は目黒区立第11中学校に通い、先にも述べたようにバスケットボール部員だったが、練習試合で目黒区立第1中学校へ行ったことがある。その中学校は井の頭線の「駒場東大前」の近くにあり、そのあたりの雰囲気がやはり三鷹っぽかったのである。目黒1中は男子は髪形を刈り上げにしなければならないという規則があって、「野暮ったい上品さ」という風景の形成に一役買っていたことは間違いない。

 もうひとつ例を挙げる。中央線で三鷹から駅4つ離れた阿佐ヶ谷育ちの三善理沙子に『中央線なヒト』という、中央線を鋭く分析したなかなかの名著がある。そのなかで「中央線には、ここから通うのが便利な学習院、雙葉、女子美大付属など」の隠れお嬢がいるとの記述があるが、私の叔母がまさにそうであり、その弟の私の父親も実は学習院である。学習院という学校は皇族の方々を見てもわかるように「野暮ったい上品さ」がスクールカラーであろう。ハイカラな青学に比べれば、どんくさく、東急文化とはそりが合わない。中央線と東急は不俱戴天の間柄である。

 私の父も野暮天もいいところで、それでは上品かというとそこは怪しいところがある。父は学習院ではバスケットボール部所属で、卒業後は実業団の選手になったという学習院出身者としては変わった経歴を持つ(ちなみに1年後輩に三井銀行でバスケットの選手だった実吉(純影)さんがいて、こちらは長身イケメンという今でいうアイドル選手だった。母親などは「実吉さんは背が高くてとてもカッコよかった」と目が♡マークであった)。この体育会系ガサツさは、ある意味、三鷹のもうひとつの側面をあらわしているようだ。

 三善理沙子が言うように、中央線は「西の下町」という顔を持つのであり、三鷹もまた不良性を愛する気風があった。野球熱が高いところなども、そのような気風と通じ合っている。作家や詩人や出版関係者が住む文化の香りがすると同時に体育会系の硬派の美学も重んじる風土があったのである。伊藤智義が『巨人の星』のファンであったように、私たち三鷹っ子男子たちは、例外なく、梶原一騎の洗礼を受けている。

 『巨人の星』の影響を受けて野球チームを結成し、『タイガーマスク』の放映が始まれば教室はプロレスリングと化し、『柔道一直線』の影響で一条直也に憧れて柔道場へと通い始め、目が大きくぽっちゃりめの女の子には吉沢京子たれと無理強いし、ピアノを習っている男子生徒には「結城真吾になりきって足でピアノを弾けよ。オレたちのワンダフルな風景づくりに協力しろよ!」とみかじめ料を要求するヤクザのように振舞い、しぼりたてのオレンジのような妖しすぎるほどに美しい夕陽に心震わせながら、『夕焼け番長』のテーマソングを口ずさんでいたのだった。それが三鷹の風景の基本パターンであった。

 伊藤の『栄光なき天才たち』はこのような風景の庇護を受けて生まれた、そんな気がする。『栄光なき天才たち』が世に出る1年くらい前には、東京23区文化人たちが次のような放言をしていた。出席者は朝井泉(泉麻人)、平井圭介、豊田浩の3人。東京23区がやたらとえばり散らしていた1985年に刊行された『個人的意見』(新潮社)というコラム雑誌上のことである。

平井 でも結局、23区だけが東京だと思うよ。いや、23区じゃないな、16区ぐらいか。北の縁と南の蒲田、それから墨田区から向こうというのはやっぱりカットだからね。
豊田 環八から内側だよね。吉祥寺は飛び地でさ。
――それじゃ、カットする区をあげていただけますか。
朝井 江戸川区はカットだろうな。
平井 北区もいらないね。
豊田 江戸川区は茨城県に入れちゃおうよ。何となく低地だし。
朝井 いや、千葉だよ。
平井 足立区を茨城県にあげようよ。
朝井 大田区は蒲田のみ鶴見にやっちゃおう。鶴見は横浜かな。
平井 川崎市に譲渡しよう。板橋区はエトロフ島と交換するとか(笑)
朝井 北区は?
平井 川口にあげる。キューポラのある町のさ。荒川は大阪に・・・・・
豊田 釜ヶ崎にあげよう((笑)
朝井 西成区だ。墨田区はどうする?
平井 持っててもいいんじゃない。

 万事がこんな調子である。三鷹が「野暮ったい上品さ」だとすれば、80年代の東京23区は「おしゃれな下品さ」といったところか。さすがに村上春樹はこのような下品さを共有してはいなかった。その理由は、村上春樹が小説家になる前に国分寺という中央線に位置する駅前でジャズ喫茶を経営していたからであろう。私はそう確信する。村上は三鷹の風景と通じ合うなにがしかと素肌で触れ合っていたのだ。思想や文学において、決定的な役割を果たすのは結局のところ風景の力である。村上春樹が国分寺ではなく、三鷹で生活していたなら、ノーベル文学賞は確実に取れていたはずである。

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