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時代劇専門チャンネルの演技者・清岡卓行

青空の青い色は切断の色

 詩を始めとした清岡卓行の作品を特徴づけるのは、まず何よりも、「遠さ」に対する類まれなる感性である。「遠さ」の誘惑に、清岡は、溢れんばかりの欲情とともに反応する。視線は遠方へと向けられ、彼の肉体自身もその自然性に抗うかのように、夢の不可能性へと傾斜する。当然、そうしたふるまいは、自己懲罰を伴うのであり、彼は「いま・ここ」から疎外された自分を自覚し、そのような美学への誇り高き殉教者たらんとする。清岡卓行という誇り高き殉教者が反世俗的なドラマを演じる舞台は、当然のことながら、「青空」である。清岡卓行の最も原型的な詩作品は、二十歳の頃に書かれた一行詩「空」であろう。

わが罪は青 その翼空にかなしむ

「空」

 ウェブの形式上横書きになってしまったが、原著(『円き広場』)では縦書きである。横書きにしてしまうとこの作品の魅力は半減してしまう。二行に行分けせず、屹立する一行詩というスタイルは、世俗の重力に逆らい屹立する孤高の精神というこの作品の主題を、内容と形式の両面から、過不足なく伝える完璧な表現となっている。

 ともあれこの一行の中に、清岡の生のスタイルおよび美学が余すところなく凝縮されている。「わが罪」という冒頭の言葉は、自分の生のスタイルが現世の掟に逆らうものであり、受け入れられないものであることを、はっきりと自覚している。「わが罪」は「空」の「青」と同化し、青空においてのみ、彼の精神は、完璧な自由と充実感を手にすることができる。かなしみを滲ませながらも、自由を希求する翼は静かに、だが力強く羽ばたくことを演じ、透明な運動を実現する。

 そしてまた、「地上」と対立する「青空」という、異なる原理の拮抗という主題を読み取ることも可能だ。かりに地上を経済の原理、青空を宗教の原理だと見立てるならば、資本主義批判としての青空という視点を取ることもできよう。文字通り「青空」と題された作品は、革命的宗教家のつぶやきのようにも見える。

遥かに遠浅のざわめく海の底を
水平線へ向かって歩く自殺者が
しだいに静まる周囲の波の中で
初めて味わう完璧な孤独のように。

追いつめられて真に戦おうとする弱者が
親しい仲間の誰をも信じられず
思いがけない別れの町角で ふと抱く
悲しく冷たいこころの泉のように。

どこまでも澄みきって遠ざかる青。
しかし そこから滲みでる優しさだけが
今日のぼくの夢のない痛みを支えるのだ。

ああ 酷たらしい愛と怒りのうた。
そのしたで繁茂する懐かしく不気味な都会よ。
ぼくは沈黙の前に いつまで覚めている?    

「青空」

 やはりここでも「遠さ」の属性としての「青」が生の根拠に据えられている。冒頭の「遥かに遠浅のざわめく海の底」は、清岡的魂が唯一安息していられる「青空」と同質の空間を表している。また青空の「したで繁茂する懐かしく不気味な都会」に対して微妙だが決定的な距離を作り出している。このような都会(社会)への実存的な違和感を通過することで、はじめて本質的な社会学的考察は可能となる。切れば血の出る学問とはそういうものだ。ただし、清岡の言葉は社会学的考察の言葉へとは向かわない。言いかえれば「大地」との遭遇を志向しない。あくまでも近代的(19世紀的)な芸術の枠組みにこだわり、そこから離脱することを禁じている。

 「『青』は少なくとも、人間の魂の根源的な欲望である超越的なものにかかわる色」である、と規定する小林康夫の名著『青の美術史』は、「青を通して生命の高い理想を見、同時に死を見ていた。それがロマンティック・ブルーにほかならないのです」と、近代の芸術の根底にある精神のかたちを「ロマンティック・ブルー」の一語で言い当てている。そして「彼方」と「高さ」を極限まで希求し発狂したヘルダーリンを、近代ロマン派のプロトタイプとして挙げ、その特徴を次のように述べている。

 我を忘れようとすることほど、我を強固に意識させることはありません。彼方の青を望み、そこに融け入ろうとして、しかしかえって地上の「我」の意識に戻ってきてしまう。そのとき、「我」の意識は「不幸な意識」にほかなりません。不可避の構造としての「不幸な意識」――ヘルダーリンの詩作はある意味ではこの不幸を、狂気に至るまで、そのもっとも高いところへと窮め、突き詰めたと言ってもいいかもしれません。

『青の美術史』

 なるほど「不幸な意識」は近代の性格を決定的に規定づけている。「神」という超越性が解体した(「神は死んだ」)後に、なお超越性を求めなければならない近代人の宿命は「不幸な意識」と呼ぶしかないからだ。あるいはそれは近代人というよりは、人間本来の宿命といってよいかもしれない。母子密着的な安息空間からの切断によって刻印された欠如こそが人間の生を根本において駆動させているのであるから。かりにそれが近代において顕著な人間の条件として認識されたとすれば、その理由は近代の原理が解体・欠如・再構築というメカニズムに基づいているからである。人間の条件の根源に関わる切断と欠如。青という特殊な色彩に反応することは、人間の条件の根源と向き合うことだ。それは消費活動というよりは、実存的な経験である。谷川俊太郎の青空をテーマにした次の作品も、およそ消費活動とは呼べない。そして「不幸な意識」に彩られている(そもそも「不幸な意識」を隠蔽するものとして消費活動はある)。

空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする
だが雲を通ってきた明るさは
もはや空へは帰つてゆかない

陽は絶えず豪華に捨てている
夜になつても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことができない

窓があふれたものを切り取つている
私は宇宙以外の部屋を欲しない
そのため私は人と不和になる

在ることは空間や時間を傷つけることだ
そして痛みがむしろ私を責める
私が去ると私の健康が戻つてくるだろう 

「六十二のソネット 41」

 冒頭の「空の青さをみつめていると/私に帰るところがあるような気がする」という言葉は、本来いるべきところにいないという「不幸な意識」を表している(「私は宇宙以外の部屋を欲しない/そのため私は人と不和になる」という詩句も同様である)。そして最終行の「私が去ると私の健康が戻つてくるだろう」という言葉は、意識を捨て去れば私と世界は和解するというアイロニカルな認識である。さすがに哲学者谷川徹三の息子だけあって、谷川俊太郎の作品は哲学的な奥行きと強度を有している。日本近現代詩における谷川俊太郎の瞠目すべきオリジナリティは、実存的抒情詩を書いたことにある(谷川もまた一人のソウルシンガーである)。

 ところで谷川には「あの青い空の波の音が聞こえるあたりに/何かとんでもないおとしものを/僕はしてきてしまつたらしい」(「かなしみ」)という有名な作品があるが、90年代にある詩人が予備校の授業でこの作品をとりあげたら、もはやこのような抒情は生徒たちに理解されなかったという。このことは時代の背景を支えている「大文字の他者」が教養人から消費者に変質していることを物語っている。感性の歴史性というものは確かにあるのであり、現在、世界の構成員が消費者に一元化されていることは間違いない事実であろう(東浩紀の言説はそうした認識の上に編み上げられている。『動物化するポストモダン』など)。とはいえ、ときおり、突然変異が登場し、谷川俊太郎的抒情やかなしみと交叉することがある。

 たとえば村田沙耶香の『地球星人』は、「私は宇宙以外の部屋を欲しない/そのため私は人と不和になる」という谷川の詩句を小説化した作品である。しかし村田作品には谷川作品の甘美な抒情はもはや存在せず、「早く洗脳してほしい」という悲痛な叫びに満ちている。「私が去ると私の健康が戻つてくるだろう」という詩句のグロテスクなポストモダン・ヴァージョンである。さらに言えば、『地球星人』に登場する「ポハピピンポボピア星」なる言葉もまた、平成アニメ的であり、平成の「大文字の他者」に媚びを売る姿勢が垣間見え、またそうした媚びによってなんとか生き延びようとする必死さが感受され、この時代における文学の痛ましさを見るような思いがする。村田も谷川同様、一人のソウルシンガーと言えるが、発語を支える「大文字の他者」が、村田と谷川では異なっているのだ。村田は1979年生まれ。谷川は1931年生まれである。そして清岡卓行は1922年生まれである。谷川や清岡は、村田と違って、19世紀的「大文字の他者」をあてにして書くことができた。

19世紀という舞台

 清岡卓行が論じられる時にたびたび取り上げられる詩句がある。第一詩集『氷った焔』に収められた「電話だけの恋人」という作品の次の詩句である。

ああ 十九世紀ふうに
どうか 愛していないと言ってください

「電話だけの恋人」

 『現代詩手帖』で清岡の担当編集者をしていた辻征夫は、この詩句を引いた後、「私は清岡さんが持っているこういう要素をどれだけ愛しているかわからない」(「エレノールの呟き」)と書いている。辻は清岡の作品に「高雅なリリシズムと明晰な批評」を見出している。辻のこの言葉は、小林康夫が近代の「青」に見出す「ロマンティック・ブルー」に重なる。

 また、大岡信は、引用された清岡の詩句や「こいびとよ/永遠に冷酷なれ」(「祈り」)という詩句に、「絶望的なまでに緻密な演技の実行家」を見出している。「これらの、拒絶への願望は、明らかに倒錯的であり、倒錯的であることによって、清岡の恋愛至上主義を支え、また彼の精神に、いわば必然的な演技を強いているのである」(「清岡卓行」)。

 「恋愛至上主義者」とは言いえて妙で、それはいかにも「十九世紀ふう」の生のスタイルである。『氷った焔』が刊行されたのは1959年であるが、20世紀後半において「十九世紀ふう」たらんとする選択は、大岡の言うように「倒錯的」であり、演技の意志が感じられる。あるいは現世の空間を否定してまでも、劇が上演される仮構空間を擁護しようとする意志が働いているように思う。『『氷った焔』の冒頭を飾る作品「石膏」は、精巧な筆で描かれた芸術恋愛絵画とでも呼べそうな作品である。

氷りつくように白い裸像が
ぼくの夢に吊されていた

その形を刻んだ鑿の跡が
ぼくの夢の風に吹かれていた

悲しみにあふれたぼくの眼に
その顔は見おぼえがあった

ああ
きみに肉体があるとはふしぎだ   

「石膏」

 冒頭の4連である。散文的な人間臭さを排した極度に芸術的な美しい世界が立ち上がっている。清岡的「遠さ」が冒頭の2連から導入されている。「氷りつくように白い裸像」と書かれているように、恋人の生身の肉体は「石膏」という芸術的オブジェに擬せられている。さらに「石膏」という人工物に相即して、「僕の夢」という虚構空間が展開され、次の「吊るされていた」という詩句は、詩の話者が地上から上方彼方を見上げている姿勢をとっていることが暗示される。この話者は「十九世紀ふう」の演劇空間に演技者として、地上から離脱しながら参入しようとしているのだ。「ああ きみに肉体があるとはふしぎだ」という詩句は芝居の台詞以外の何ものでもあるまい。

 思えば、芥川賞受賞作の『アカシヤの大連』もまた、抽象的なドラマのレポートのような作品であった。この作品の一部を私は、高校2年生の春、国語の問題集で読んだのだが、そこに登場する「彼」という人称は衝撃的なほどに新鮮であった。

 彼の二十歳前後は、最も苛烈な戦争期であったが、その頃、戦争の現実を嫌悪したというよりも、現実そのものを拒否しようとする、青春期に特有な生の意志の倒錯を、彼は彼なりにぎりぎりのところまで演じていた。そして、より豊かに生きようとする意志が、その高揚のゆえに現実の時間や空間の形式に耐えられなくなり、逆説的に死に憧れるところまで到りつく道程を、彼は皮肉な自己観察を通じてほとんど知悉していた。

 彼の場合は、十八歳頃からそうした憂悶が始まっていた。それは自分自身をも含めた、生物的なもののいやらしさ一切に反撥する、本能的な苛立ちとでも言えばよかっただろうか?それとも、あらゆる生命に、時間と空間という否応なしの酷らしい条件を課している、この世の奥深い仕組に対する、静かに狂い立つような怒りとでも言えばよかっただろうか?    

『アカシヤの大連』

 これらの文章を読む以前は、このような「彼」を私は知らなかった。ここには演技を観察される「彼」がいる。人情によって曇らされることのない高品質なレンズによって俯瞰された、芸術的感性に恵まれた高雅な知的エリートを演じる「彼」が、アカシヤという抽象的な植民地を背景にして、ヨーロッパの劇場の舞台俳優のように、描かれている。清岡卓行からは、高級演劇の役者のオーラが匂い立っている。

 よく知られるように人々の間で、「清岡卓行」という名前は、伝説的な名前であり、日本の戦後文化において、清岡の存在は、まず、「十九世紀ふう」のドラマの登場人物としてあった。1948年に刊行された原口統三の『二十歳のエチュード』における神話的な名前の持ち主だったのである。原口は旧制第一高等学校の芸術好きの秀才で、清岡は旧制一高の先輩であった。原口は1946年、逗子海岸にて入水自殺を図り、彼の死後、遺著として『二十歳のエチュード』が出版された。『二十歳のエチュード』は、一種の手記のようなものであり、『二十歳の原点』(高野悦子)の先駆けと言える。その内容はと言えば、「十九世紀ふう」のドラマという形容が一番似つかわしいように思える。

告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。

 僕は不純なもの、徹底性のないものをすべて唾棄した。ところですべての「イズム」は「イズム」自体に忠実ではない。すなわちどこかできっと妥協しているのだ。
 僕が最も憎悪したのは、「唯物論」「現実主義者」そのものに対してではなく、世に現われた唯物論と現実主義者の曖昧さ、不透明さに対してである。信仰のない「イズム」など僕には用はない。

 「ランボオこそは君、ぴんからきりまで男の中の男ですよ」
 この清岡さんの言葉が胸を刺した。
 そして、それ以来、僕の誠実さの唯一の尺度となった。

『二十歳のエチュード』

 清岡の名前も言及されているが、平成において、こうした言葉を読むと、いささかたじろがずにはいられない。いくらなんでも、芝居がくさすぎて、とても擁護できそうもない。強引に擁護しようとするならば、「これは時代劇なのだ。時代劇の言葉なのだ」と言うしかあるまい。「ランボオこそは君、ぴんからきりまで男の中の男ですよ」という清岡の台詞も時代劇のそれである。こうした言葉に納得するのは時代劇ファンであろう。ある種の文学の言葉は、「時代劇」というエクスキューズを伴うことで、散文的環境に馴染むものかもしれない。乱暴に言ってしまえば、純文学というジャンルは、いまや「時代劇専門チャンネル」と化している。べつだん時代劇は劣っていると主張しているわけではない。むしろくみ取るべきは時代劇の有効活用である。

 原口が「僕は最後まで芸術家である」という言葉を口にしえたのは、原口が、自分は19世紀の世界を生きている、と確信しえたからであった。彼は、言うなれば、旧制高校の世界に保護されていた。言葉の流通圏内が知的エリートの世界に限定されていた。言葉は、その生の条件として空間から逃れるわけにはいかない。たとえば日本語の背景には日本という空間が存在するように。

 『二十歳のエチュード』でも言及されているが、カントが日本で読まれたのは旧制高校においてであった(ただし、原口はカントを「俗悪なほど深刻である」と否定している)。どういういきさつであるのか定かではないのだが、2000年代あたりから、テレビなどでも「理念」という言葉が流通するようになった。理念という言葉はカントに由来する。理念=カント=詩が有効化するには、それにふさわしい空間が必要なはずだ。今現在有効なのはむしろ現実=ヘーゲル=散文であろう。ヘーゲルにふさわしい場は、じつは視聴率に振り回されるテレビや市場である。民放において時代劇は壊滅状態である(これはあくまで比喩である)。

 理念=カント=詩が成立する空間とはいったいいかなるものであるのか?それは未来において実現する、と逃げ口上をうって、時間を緊急避難場所として暫定的に措定しておくか?人が「未来の子供たち」「未来の他者」と口にして、なんらかの(政治的)メッセージを発する時、人は時間という非=場所を、現在という場所への対抗手段として活用している。非=場所は無いよりはましである。

 詩や純文学や時代劇専門チャンネルは、非=場所への感性を活性化し、過去を蘇らせ、未来に希望を託し、現在を撃つチャンスをうかがっている。ようするに多数派が現在を独占してしまっているので、少数派は過去と未来にしか行き場がないのだが、現在という空間を変容させるには現在とは異なる世界への感性がぜひとも必要だ。視聴率の取れない時代劇専門チャンネルにも五分の魂!

 大連という中国の場所が出てきたので、中国がらみで、昭和歌謡の大傑作「蘇州夜曲」を。昭和歌謡の立役者、服部良一の屈指の名作。この曲はいろいろな歌手に取り上げられているが、ここはSandii・ヴァージョンで。テクノミュージックの流れからのアレンジである。

 清岡卓行、原口統三とくればフランス文学。いささかシニカルな言い方をすると、「おフランス」、「お文学」の世界である(最近の私は「お文学的なもの」を相対化したいという意識が働いている。むろん擁護すべきものは擁護するが)。フランス系の音楽から、まずはモーリス・ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。サティの「ジムノペディ」という案もあったが、今回はこちらで。

 次いでシャンソンからフランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」。山田太一のドラマ『沿線地図』の主題歌として使われていた。山田太一の音楽の嗜好性と私のそれは似ているところがあると思っている。

 ラストは、変化球気味にオリジナル・ラブの「ディープ・フレンチ・キス」。いわゆる渋谷系。おしゃれすぎて若干の抵抗感があるが(私はそれよりも以前の中央線文化圏のほうが馴染んでいる)、やはり名曲であることは間違いない。


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