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浩紀と行人

フリッパント・ヒロキ

 90年代にジャック・デリダ論(『存在論的、郵便的』)を引っさげて登場した東浩紀は1971年生まれである。世代とか時代というものは、想像以上に、人間に作用するものなのかもしれない。1962年生まれの私は、かろうじて知の階層のようなもの、言い換えれば、教養というものの重みを体験することが出来た。けれども東の世代の眼の前に広がっていたのは、すべてがフラット化したのっぺりした空間であった。そこでは教養はすでに過去の遺物であっただろう。私のような人間は「キャラ」という言葉や概念に違和感を覚えてしまうのだが、東にとっては先験的な条件、自然環境のようなものとしてあった。「デリダ論を書いた若き哲学者」という肩書は、「祖父からもらったモーニング」のように東には感じられた。ダサいというよりも、まず先に、「モーニングを着た平成の若者」という新手の犯罪を目撃するイタイケな人々の不快感を想像すると、この優しい心の持ち主はいたたまれない気持ちに苛まれるのだった。

 オレは愛されキャラでいきたいのよ。江頭2:50は彼一人で十分だ。オレの胸の内にある言葉を人々に届けるいい方法はないだろうか。浩紀は思い悩むのであった。ピン芸人としてパフォーマンスをするというのはどうだろう。おニャン子の筋金入りのファンでメンバーの自宅まで押しかけてしまった(不)名誉な過去を持つオレとも親和性の高い世界であるはずだ。芸名は「フリッパント・ヒロキ」というのがいいや。しかしいかんせん、いきなり漫談というのはハードルが高いな。ちょっと自信ない。いいアイデアが思い浮かんだ。オレのぼそぼそ語りをカバーするためにBGMを使うのはどうだろう。BGMに語りをのせるという新しいスタイルだ(なんというグッド・アイデア!オレって天才じゃん)。となると音楽は何を使うか?オレの案では、ホストふうのスーツを着てややうつむき加減に「影ある演出」でいきたいわけだから、アップテンポなラテン系はまずい。自虐ネタがメインになるだろうから、哀愁感に満ちたヨーロッパ系がベストなチョイスだ。池袋の名画座で観た60年代のイタリア映画の主題歌にピッタリのがあったな。ペピーノ・ガリアルディの「ガラスの部屋」だ。
 ♬~Che vou le questa musica stasera(ケ ヴォ― レ クエスタ ムージィカ スタセーラ) Che mi riporta un poco de passato(ケ ミ リポールタ ウン ポコ デル パッサート)♬~

「ヒロキです。
左足の小指の曲がり具合がセクシーね」って言われたことがあります。
ささやかな誇りです。
ヒロキです。
岩井由紀子とのツーショット写真がいまだに捨てられません。
ヒロキです。
カラオケの十八番は異邦人の「嗚呼‼花の応援団」です。
だれも僕の音楽的趣味をわかってくれません。
ヒロキです、ヒロキです、ヒロキです……」

 こう書くと、東浩紀がたいそうチャラくて軽薄な(フリッパントな)人物のように見えてしまうが、東の軽薄さは、高校生になってサイズの合わなくなった中学校の制服を無理やり着込む必死の力みがあって、この力みは東のジャーナリストとしての使命感から生まれるものだ。そしてその使命感は、正義と公正に対する使命感というわけではなく、近代以降に言葉や言説が曝されるある種の力学を自覚したうえでの、正義や公正とは異なる生の領域に対する、こう言ってよければ、彼なりの誠実さを実践するがための使命感なのである。

1930年代の頭でっかち

 正義や公正を従来のように語ることはできない。なぜなら「哲学は終わった」というヘーゲルの認識から東は出発するからである。2000年代に東が現代を語る上で度々用いた「動物」というという言葉は、コジェーヴによるヘーゲル読解に由来する。1947年に出版された『ヘーゲル読解入門』は1930年に行われたコジェーヴの講義をまとめたものであるが、コジェーヴによれば「人間が人間として生きる「歴史」は本質的に一八〇六年のイエナの戦い(ナポレオン戦争)で終わっていたのであり、二〇世紀のふたつの大戦は、現在がすでに「ポスト歴史」(歴史の終わりのあとの時代)に入っていることを確認させるものにすぎなかった」(『観光客の哲学』)。

 ナポレオン戦争以降にヘーゲルの眼の前にあったのは欲望の体系としてある市民社会(経済市場)であった。経済原理のみが幅を利かせて、功利主義が唯一の価値観となったような世界において、哲学を司る人間の精神が存在する余地などあるはずがない。人間精神はおのが誇りをかけて歴史を作っていくものだとするヘーゲルの高邁なヴィジョンは19世紀に終焉をむかえたのである。19世紀はドストエフスキーが活躍した時代でもあるが、その時代には精神が生き物のように生々しい輝きを発していた。

 叛逆や懐疑や飢餓を感じてゐない精神とは、その特権を誰かに売り渡して了つた精神に過ぎない。精力的な精神は決して眠りたがらぬ。肉体の機構が環境への順応を強いられてゐる様な正確さで、精神は決して必然性の命令に屈従してはゐない。本能的に危険を避ける肉体は常に平衡を求めてゐる。満腹の後には安眠が来るように出来てゐる。だが、精神は新しい飢餓を挑発しない様な満腹を知らない。満足が与えへられれば必ず何かしら不満を嗅ぎ出す、安定が保たれてゐる処には、必ず釣合ひの破れを見付け出す。単に反復を嫌ふといふ理由から進んで危険に身を曝す。

小林秀雄「『悪霊』について」

 『悪霊』を論じる小林の筆遣いが異様に熱い。頭でっかちここに極まりという感じである。ところで19世紀後半は様々なフィールドで、それまでの古き良き「知」からの切断を図った時代であった。古典的な近代哲学が終わるこの時期においては、写真や映画のような新しい技術が登場し、社会学という新しい学問が生まれたのもこのころである。そしてまた、ほぼ同時期に、フロイトによる精神分析学が誕生した。

 フロイトの精神分析学もまた、古典的な人文知(頭でっかち)のアンチとして登場した。よく知られるように、フロイトは次のように人間を定義し直した。人間は意識のみで存在する透明な存在であるわけではなくて、意識化しえない無意識の動きに影響される時として惑うことのある不透明で危うい生き物である。確固とした個人ではなく複数の動物的な力が蠢く不気味な集合体という人間のイメージを人文学の世界に導入したのである。

 集合体としての人間像をルソーの「一般意志」およびグーグルのネット空間に結びつけて考察したのが『一般意志2.0』(2011年)であった。意識ではなく無意識に基づいた新しい社会空間を構想する試みである。

 意識と無意識、一般意志1.0と一般意志2.0、熟議とデータベース。政治家と官僚の複雑な合意形成に基づき進む旧態依然とした政府1.0と、ユビキタスな情報環境が支える政府2.0。

 つまりは二一世紀の国家は、熟議の限界をデータベースの拡大により補い、データベースの専制を熟議の論理により抑え込む国家となるべきではないか。

 分析医が病者の無意識を丸裸にするように、情報技術はいま国民の無意識を丸裸にしつつある。だからこそわたしたちは、これからはその無意識をこそ統治に活かす手段を編み出さなければならない。 

『一般意志2.0』

正統派知識人の終焉

 東のヴィジョンの根底にあるのは「体でっかち」である。その思考は、自由主義的な経済、グローバリズムを背景として紡がれている。現代のグローバリズムの祖形を、東は1930年代に見いだし、シュミット、コジェーヴ、アーレントの思考を1930年代の状況に対する危機意識のうちに読み取っている。シュミットは、ワイマール期のドイツで高揚していた自由主義的で個人主義的な思潮に強い反発を覚えていた。

 したがって、シュミットは、国家の消滅を企てるグローバリズムは、たとえそれが経済的に利益をもたらそうと、あるいは自国文化の拡大につながろうと、とにかく拒否すべきだと考える。国家が存在しなくなったら、政治は存在しなくなる。政治が存在しなくなったら、人間は人間でなくなってしまう。シュミットは、人間が人間であるために、グローバリズムを拒否するのだ。

『観光客の哲学』

1930年代に、「人間」「歴史」「動物」をめぐる議論の構図を作ったコジェーヴは、戦後の世界を次のように見た。

 戦後のアメリカに生きているのは、誇りを失い、他人の承認も必要とせず、与えられた環境に自足して快楽を求め商品を買っているだけの動物的な消費者の群れでしかない。そこにはもはや「人間」はおらず、歴史もなく、したがって永遠の現在だけがある。それがコジェーヴの見立てである。

『観光客の哲学』

 アーレントもまた、「動物的な消費者の群れ」によって構成される世界に不快の念を覚えずにはいられない。

 彼女は次のように記している。「<労働する動物>の余暇時間は、消費以外には使用されず、時間があまればあまるほど、その食欲は貪欲となり、渇望的になる」。したがって、「苦痛と努力の足枷から完全に「解放された」人類は、世界全体を自由に「消費」するようになり、人類が消費したいと思うすべての物を日々自由に再生産するようになるだろう」が、その「ユートピア」で生まれるのは「幸福」を追求する「大衆文化」だけで、人間の生になにも意味をあたえてくれないだろう。

『観光客の哲学』

 このように、シュミット、コジェーヴ、アーレントは、グローバリズムが解体した世界への郷愁に憑かれた反動的な人文学者として大衆消費社会に立ち現れる。東は彼らに共感を示しつつも、批判的にその限界を指摘する。

 シュミットとコジェーヴとアーレントは同じパラダイムを生きている。彼らはみな、経済合理性だけで駆動された、政治なき、友敵なきのっぺりとした大衆消費社会を批判するためにこそ、古きよき「人間」の定義を復活させようとしている。言い換えれば、彼らはみな、グローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている。
 本書が「観光客」について考えることで乗り越えたいのは、まさにこの無意識の欲望である。二〇世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来として位置づけた。そしてその到来を拒否しようとした。しかし、そのような拒否がグローバリズムが進む二一世紀で通用するわけがない。実際、人文学の影響力は今世紀に入って急速に衰えている。だから、ぼくたちは人文学そのものを変革する必要がある。それが、本書の基礎にある危機意識である。

『観光客の哲学』

 象牙の塔としてある人文学の空間が、東によって引導を渡される。代わって要請されるのが、市場空間に、半ば以上体を浸した「観光客」という特異な存在である。古典を熟読し、古き良き教養を身につけ、良識ある知性によって世界と向き合うという人文学の伝統は破産した。かつてなく資本が激しく移動するグローバリズムの世界に対して、防御的に学問の砦の中に引きこもってばかりはいられない。そのようなライフスタイルが許されていたのは、せいぜい19世紀半ばまでだろう。21世紀の現実を生きる上で身につけざるを得ないのは、「観光客」のような動物性である。「観光客は大衆である。労働者であり消費者である。観光客は私的な存在であり、公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり、訪問先の住民と議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛びまわる」というふうに東が描き出す観光客は、いかがわしくてふまじめだ。「まじめ=頭でっかち」と「ふまじめ=体でっかち」の二項対立を超えようという企図から観光客という概念装置は生まれたようだ。では、その概念装置の背景とはいかなるものであるのだろうか。

帝国と国民国家のはざまで

 21世紀を生きるわれわれが眼にしているのは、東によれば、次のようなものである。それは帝国と国民国家が独自の原理を保持したまま作動し続ける「二層構造の時代」ということだ。帝国はグローバリズムの舞台となる経済中心の、東の言葉で言えば「下半身」、本稿の言葉で言えば「体でっかち」の空間であり、国民国家は意識高い系の政治中心の、東の言葉で言えば「上半身」、本稿の言葉で言えば「頭でっかち」の空間である。これら二つの要素が奇妙奇天烈な共存を果たしているのが21世紀の姿だと東は言う。

 言い換えれば、ぼくたちが生きるこの二一世紀の世界においては、国家と市民社会、政治と経済、思考と欲望は、ナショナリズムとグローバリズムという異質なふたつの原理に導かれ、統合されることなく、それぞれ異なった秩序をつくりあげてしまっているのだ。ぼくの考えでは、それが大澤を悩ませた問題の正体である。グローバリズムはナショナリズムを破壊したのではない。それを乗りこえたのでもない。ましてやその内部でナショナリズムを生みだしたのでもない。それは、単純に、既存のナショナリズムの体制を温存したまま、それに覆い被せるように、まったく異質な別の秩序を張りめぐらせてしまったのである。

『観光客の哲学』

 政治(国家)のレベルでは分裂し、経済(帝国)のレベルではつながっている状況を、「愛を確認しないまま、肉体関係だけをさきに結んでしまったよう」だと東はなぞらえているが、そもそも経済というものは本来的に無節操なものである。消費活動の局面で文化的嗜みが反映されないわけではないが、人間は動物の一種であるという自然の摂理はまずは肯定しておくべきものである。

 ところで、東の論においては、帝国が体でっかちであり、国民国家が頭でっかちに対応しているが、柄谷行人の場合は、それがまったく逆になっている。柄谷の近年の論においては帝国が頭でっかちで国民国家が体でっかちとなっているのである。国民国家が膨張し帝国主義化しようとする衝動を、理念としてある帝国の原理によって抑え込むというプログラムが構想されているのである。

 柄谷行人の論考においては、国民国家に基づく哲学と帝国に基づく哲学の対立があって、前者はホッブズやヘーゲルであり、後者はライプニッツやカントである。

 ホッブズはすでに出現していた近代の主権国家を肯定し、それ以外にはありえない、と考えていた。ヘーゲルも同様です。別の観点からいえば、彼らはヨーロッパに生まれた世界=経済を自明として受け入れ、それ以外の道を考えなかった。が、カントは別のかたちで「平和状態」がありうると考えたのです。それは近代国家が出現する前提そのものへの疑いをもっていたからです

『帝国の構造』

 近代国家を前提とした出発した場合は、アメリカのような覇権を握った一国によって世界の安定を図るという、世界の一極化にしか行きつかない。「ヘーゲルがいったのは、平和状態は事実上「ヘゲモニー国家」によって得られる、ということです。これはホッブズの考えを追求して出てくるものです」。このようなホッブズ=ヘーゲルの世界観は、現在の私たちの多くが持っている世界観でもある。資本主義を前提した場合は、必ずこうならざるを得ない。政治家からニュースのコメンテーターまで、近代国家と資本主義の原理を前提とし、その枠組み内で意見の調整を図る。それに対して柄谷行人が特異で貴重だと思えるのは、彼だけはその枠組みを疑い、転倒しようと本気で試みるからである。

 柄谷がヘーゲルの近代国家に対して持ち出すのは、帝国に由来するライプニッツ=カントの哲学である。柄谷の言う「帝国」は、じつは、「国連」や「憲法9条」と重なるものである。つけ加えておくと、カントやライプニッツの思想はアウグスティヌスの思想とも通じ合っている。彼らは近代国家=資本主義=等価交換の原理を斥け、帝国=共産主義=贈与の原理を訴える。ただ気をつけなければならないのは、帝国は帝国主義へと転化する危険性がある。

 もちろん、カントの提案は何の影響力ももたなかった。まもなく皇帝となったナポレオンによって世界戦争が起こりました。彼にとって、それは革命の防衛のためであり、また、イギリスのヘゲモニーに対抗してヨーロッパ連合を結成するためでしたが、実際のところ、それは征服戦争でしかなかった。ナポレオンの帝国は「帝国主義」でしかなかったのです。それは結果的に、ヨーロッパ各地にナショナリズムを喚起し、多数の国民国家を創り出したわけです。ナポレオンの企ては、ヨーロッパ連合どころか、諸国間の戦争状態を新たに創り出した。

『帝国の構造』

 現実的には、ヘーゲルの哲学がカントの哲学に勝利したかに見える。国民国家の枠組みは維持され、資本と国家の結託は続く。お互いに依存し合うことで、それぞれの体制の維持が図られる。「もちろん、資本の終わりは、人間の生産や交換の終わりを意味しません。資本主義的でない生産や交換は可能であるからです。しかし、国家にとって、これは致命的です。資本の弱体化は、国家の弱体化であるから。それゆえ、国家は、何としてでも、資本的蓄積の存続を図るだろう。今後に、世界市場における資本の競争は、死に物狂いのものになります。それは、たんに南北間の対立だけでなく、資本主義諸国の間の対立となる。そして、それが戦争に帰結することは確実です」。

倒錯者の哲学=体でっかちパート2

 体でっかちの時代は永遠続くかのようだ。けれども体でっかちの暴力を、毒を以て毒を制すように、体でっかちに内包された力そのものによって制することが出来る、と柄谷は言う。柄谷は、その力を、フロイトが見出した「快感原則の彼岸」を志向する心的メカニズムのうちに見出す。ざっくり言うと、フロイトが見出した無意識、すなわち体でっかちには2つのメカニズムがあるという。これを、便宜上、体でっかちパート1、体でっかちパート2と呼んでおこう。体でっかちパート1は外へと向かうエネルギーで単細胞的な攻撃欲動である。体でっかちパート2は、このパート1が屈折を蒙り、自らに向かうことで超自我が形成されて、その結果、自律的にふるまうことのできる、いわば「頭でっかち」へと進化を成し遂げたような体でっかち=無意識である。動物から精神へと変成する不思議なメカニズムである。それはマゾヒズムの体制に似ている。あえて言えば、柄谷の方法は、東浩紀が唱えるのが「観光客の哲学」であるのなら、「倒錯者の哲学」である。自然状態としてある「体でっかち」に反自然的な「体でっかち」が対抗するのである。簡単に言えば自然と文化の戦いの構図である。この戦いの勝算はいかほどのものか。なかなか分が悪かろう。分の悪い戦いを細々と持続してゆくしかあるまい。

 一方の東は、「観光客」に徹することで、動物から精神へというコースを斥ける。アーレントのように、政治的なものと経済的なものを分割したうえで、政治的な空間および活動を守ろうとするふるまいを自らに禁じている。観光客は、知的選民の高尚さを断念している。東的観光客=マルチチュードは、政治的なものと経済的なものを分割しない運動を選択する。そのぶんポピュラリティがある。東はサブカルチャーという自らの出自に忠実である。理念を頭ごなしに持ち出したりはしない。柄谷と多くのものを共有しながらも(例えば、「帝国」や「国民国家」、フロイト、カント、ヘーゲルなど)、その方向は逆向きになっている。ルソーに対する評価は正反対であるし、柄谷が「快感原則の彼岸」を選ぶのに対し、東は「快感原則」を選ぶだろう。柄谷が反時代的であるのに対し、東は同時代への感性に恵まれている。

 このふたりを比べると、私は年齢は東に近いのだが、文化的な感覚は柄谷に近い。観光客よりは倒錯者。であるがゆえに、「より良く美しき生きたい」という倒錯的な願望を捨てきれず、内ポケットに大事にしまっている次第である。

 とはいえ文化がこのままでいいと思っているわけではない。芸人フリッパント・ヒロキにはこれからも大いに活躍してもらいたい。いや、願わくば、薹が立ったアイドル・コンビ「ヒロキ&コージン」が起死回生の逆転ホームランを打つ光景を倒錯的に期待している。

 さて、どうやってこのコンビを売り出すかという案件について、某月某日都内某場所において会合が開かれた。参加者はヒロキとコージン、そしてアドヴァイザーとして、私の三人である。まず口火を切ったのはコージン。

 やっぱり、僕らの世代にとっての偉大なコンビというのはぴんから兄弟なんだよね。My favorite songは「女の道」。心に染み入ってくる名曲だよね。それに、大学院生のころ、僕は宮史郎とそっくりの髪型をしていたんだ。周囲より10年早いウルフカットで、新宿ではちょっとは名が売れていたよ。ブイブイいわせていたものさ。半世紀早いトー横の帝王といったところかな。連日連夜ティーンエイジャーからの誘いが引きも切らずで、腰がもうもたないというくらいにパンパンに張っちゃって、20代にして鍼灸通いをするはめになっちゃったものね。青春って激しい季節だよね。僕がメイン・ヴォーカルを担当するから、ヒロくんはギターの伴奏よろしくね。

 いやいやコーちゃん、ギターを任せてもらえるのは名誉なことで、非常にありがたいんですが、じつは僕は楽器のほうがからっきしダメで、小学校の時習うハーモニカも縦笛もまったくものにならず、なにか自分にもできそうな楽器はないかなーと探して、タンバリンに思いあたったんですが、あの楽器、ロックバンドの楽器ができない女性ヴォーカルが、それなりに見映えよく演出できるんでちゃらちゃら叩いていることに気づき、やっぱり自分の美学に合わないなって、そのプランは放棄することにし、次いでカスタネット案も浮上しつつも、これも楽器できない奴がすかしてごまかしてるみたいでいやで、こうなったらトライアングルを直立不動の姿勢で打ち響かせようとも考えましたが、密教の儀式みたいでこれまた断念したんですよね。やっぱり僕も歌いたい。じつは僕、おニャン子クラブの追っかけやる前は、ビューティ・ペアが好きだったんですよね。マキ上田を激推ししてました。「かけめぐる青春」を振り付け込みで完コピしたい。彼女たちの振り付け出来ますから。サイドステップもボックスステップもOKです。特にボックスステップは半年かけてパーフェクトなものに磨き上げた入魂の出来です。もうビューティー・ペアに瓜二つですよ。渋谷のダンス好きの女の子に披露したら、ストリートの匂いはあまりしないけど、旧ソ連の組み体操みたいな剛直な感じがフレッシュねって、褒められました。コーちゃんとデュエットできたら本望だな。

 「ヒロくん」と「コーちゃん」って何なのよ。この二人が「あなたから私へ。私からあなたへ」って歌ってるところを想像したらコワいよ。プチ・ホラーだよ。しかしそれにしてもジャッキー佐藤じゃなくて、マキ上田推しなんてなかなかエグイな。そもそも「女の道」も「かけめぐる青春」も北海道・岩内のスナックぐらいでしか聴けないだろう。ボックスステップ習得するのに半年もかかるかあ?3分ありゃ十分だろ。物書きは運動音痴だという通説を地で行ってんだろ。「旧ソ連の組み体操」とはよく言ったもんだ。ブレイキンがオリンピック種目になる時代だぜ。ビューティーペアのレベルじゃBTSどころか韓国のアマチュアや日本のキッズ・ダンサーにも対抗できないだろ。せめてダウンや足交差アクションぐらい入れてほしいよ。
          ↑
      以上心の中のモノローグ(off)

(ここはon)私としましては、アイドル・コンビのコンセプトに沿って、(今や死語でしょうが)ジャニーズの方向でスウィート胸キュン路線を提案したいと思います。ハミルトン、ジョー・フランク&レイノルズの「フォーリン・イン・ラヴ」なんかどうでしょう?3人組になってしまいますが、私も臨時に参入ということで。私も楽器がダメなので、エアギターで参ります。いっそのこと楽器はエア、口パクで、という取り計らいにいたしましょうか。


(この動画はなぜか女性が1名参入している)なお、本稿の大部は2017年に書かれたものです。


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