現代社会は恵まれている、とよく言われる。しかし、環境に恵まれているからこそ、個人に何らかの欠点があり、恵まれていない状況にある場合、そのギャップの分だけ苦しみは大きい。アトピーは、その典型である。 現代には化粧品がたくさんある。髪形や服装も自由で、ほとんどの人がおしゃれを楽しむことができる。しかし、その裏でルッキズムという容姿差別が猛威を奮っていることは、紛れもない事実である。 ことアトピー患者は、これらの化粧品、ヘアスタイル、ファッションの選択によってごまかすことので
筆者、武道を嗜むこと少々。しかし、巷に流布する武道論に迷うこと多々あり。如何なる武道が良いのか、特に護身術の観点から、考察のために本稿を執筆する。 俊敏 素早いこと、期を逃さぬこと、これは、ほとんどの武道において尊ばれることと見受ける。殴られるより先に動かねば傷つけられてしまうのは、当然の理である。 しかし、武術でのハヤサというのは、100mを10秒以内に走る、という類ではないはず。勿論、逃げ足は速い方が良いが、100m逃げるだけでは十分とはいえないし、逃走経路も直線
僕らはゲリラ音楽団 どこでもいきなりコンサート 10月31日の スクランブルの真ん中で ラッパを吹いたら開演だ どんちゃんどんちゃんどんちゃらちゃん どんちゃんどんちゃんどんちゃらちゃん お化けのふりした人々も 高層ビルも踊り出す どんちゃんどんちゃんどんちゃらちゃん どんちゃんどんちゃんどんちゃらちゃん 夜空にきらめく星たちも 音色にひかれて降ってくる どんちゃんどんちゃんどんちゃらちゃん どんちゃんどんちゃんどんちゃらちゃん アスファルトだって盛り上がる 割れた地面からこ
本作の最新話は非常にショッキングだ。読者感想欄にも長文が並んでいる。ヴィーガニズムは時として反対派の神経を逆撫ですることがある。だが、本作最新話から作者がヴィーガニズムに賛成していると断言することは難しいと私は考える(なお、私自身はヴィーガニズムに対し肯定的立場である)。このことの内省と説明に加えて、本作の展開について考察する。 最新話について、畜産に対する否定的な描写からはヴィーガニズムに肯定的な印象を受けるが、その描写が洗脳の手段であると判明し、一転してアンチヴィーガ
小さな黒い雲が空を横切っている。 ああ、私はあの雲のようだ。 矮小で、汚らしい。 やがてあの雲は消える。 私もやがて死ぬ。 しかし、この空があるかぎり、雲は生まれ続ける。 そのように、私は生まれ変わるのではないか。 それは、私にとってとても恐ろしい。 空を破壊しなければならない。 だが、雲にはそれができない。 雲は空になれるだろうか。 なれたとして、空は雲にならないだろうか。 私は無になれるだろうか。 なれたとして、無は私にならないだろうか。
序文 本稿は、輪廻転生を議論し、その「存在しない(生まれない)ことは不可能」という結論から、反出生主義に反論する。しかし、「他人をどう生むべきか、あるいは決して生むべきでないのか」という倫理学上の問題については、議論しない。あくまでも、人間は存在を回避できないことを論証し、出生および存在それ自体が苦しみではないことを前提として、苦痛を永遠に回避する方法を模索するに留まる。 ただし、筆者は非専門家で学士号さえ持たない非知識人であるため、稚拙な論理であることと、後半
私には妹がいる。幼い頃からピアノを習い、我家でも母の指導の下、オルガンで練習していた。だが、その教育は過激だった。妹がミスをすると母は激しく怒り、怒鳴り散らし、暴力を振るった。何度も手を叩かれ、妹は泣きじゃくっていた。母の剣幕に私は何もできず、自室に逃げ込むしかなかった。妹に何もできなかったことを今でも悔いている。 我家には犬がいた。私と母が家にいた時に死んだ。私はそばにいなかった。犬はその日、朝から体調が悪く、横になったきりで、次第に呼吸が荒くなった。哀れに思った私
無は存在しない。これは自明である。従って、無になることができる者も存在しない。我々は存在を強制される。 死後、無にはなれない。つまり、生まれ変わるということは、転生という現象を証明する背理法によって推論される。つまり、 前提:転生という現象は存在しない →現存するすべての存在には、前世も来世もない。=すべての存在(「有」とする)は、無から生じて、無に還る。→「無⇄有」の図式が成立し、存在は無存在と有存在の循環の中にある。 よって、転生という現象は存在し、前提に矛盾
書くことは、私にとって、読むことよりも重大で、他人の短歌は旧Twitterのタイムラインに流れてくるのを拾う程度で、歌集も数冊は持っているものの、ほとんど目を通さないでいる。往時は専ら、古文体の和歌を詠んでいたが、それでは評価を得られないので、今は結局、現代語で短歌を創っている。尤も、私の和歌が評価されないのは、私が浅学の徒で、古今調と新古今調の違いも未だ諒解していないからなのであるが。 それでも、古典和歌に対する憧憬を捨てた訳ではない。普段から読む歌は古典である。別に現