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現世主義の否定による反出生主義への反論

  


序文

 本稿は、輪廻転生を議論し、その「存在しない(生まれない)ことは不可能」という結論から、反出生主義に反論する。しかし、「他人をどう生むべきか、あるいは決して生むべきでないのか」という倫理学上の問題については、議論しない。あくまでも、人間は存在を回避できないことを論証し、出生および存在それ自体が苦しみではないことを前提として、苦痛を永遠に回避する方法を模索するに留まる。
 ただし、筆者は非専門家で学士号さえ持たない非知識人であるため、稚拙な論理であることと、後半においてオカルト的な要素が混入することを予めお詫びする。余興として酒の肴にでもなれば幸いである。

反出生主義は現世主義

 現世主義とは、前世や来世の存在を否定し、輪廻転生を認めない立場である。反出生主義は、苦しみの原因が出生にあるとして、生まれることを悪とする立場である。このことは、生まれていない者は存在しない、ということを言外に意味している。ある存在は出生しない限りにおいて存在しないので、反出生主義は現世主義である。本論はこの前提に関して疑問を呈する。

現世主義に対する反論

 前世や来世について、私はあると考えている。苦痛や快楽を経験する主体(以下「人間」)が存在する状態を「有」、存在しない状態を「無」と表記すると、輪廻転生について考えられるパターンは以下の様になる。
  A. 無→有→無  ・・・現世主義
  B. 有→有→有  ・・・非現世主義(いわゆる転生論)
  C. 有→有→無  ・・・前世肯定と来世否定
  D. 無→有→有  ・・・前世否定と来世肯定
 A.は現世主義の立場である。人間は出生によって無から発生し、死によって無に帰る。現世主義者は、死後に「永遠の無」が待っていると考えているが、無が永遠であることは自明ではない。従って、次のような図式が成立する可能性がある。
  A'. 無→有→無→有→・・・
 A'.のように、人間は一生を終えると一旦は無になるが、また新たな生を得ることになる。つまり再び出生する。この無という状態について、苦痛や快楽を経験しないにせよ、時間を経験することができるとしたところで、その時間が永遠であることも自明ではない。よって、本論ではこの時間を無視する。すると「無」という状態も存在しないので、A'.およびC.とD.は結果的にB.と同じ図式になる。

輪廻転生とその問題

 いわゆる転生論である非現世主義が真理だと仮定して、そこにおける人間がどのような状態にあるかというと、現実の人間を観察すると、彼らが前世の記憶を保持していないことが分かる。筆者もそうである。このことは、人間が出生と死を節目に新しい人格を所持しなおすことを意味している。これは反出生主義にとって忌まわしいことである。現世の苦しみが終わったところで、来世の苦しみが始まるからだ。
 なお、前世の行動が来世に影響をあたえるという因果論について、ここでは検証しないし、それについての学会の定説も筆者は知らない。だが、仮にこの因果があるとしても、その内容が分からないから、来世の利益になる行動が何なのかわからないので、ここではこの因果論を棄却する。つまり、来世の人間の状態はランダムだ。
 これは誰にとっても非常に都合が悪い。現世でどんなに幸福でも、来世では、例えば紛争地帯に身体障害と知的障害の両方を持って暴力的な毒親のいる極貧家庭に生まれて死ぬまで生き地獄かもしれない。それどころか、来世ではあの愚劣で非倫理的な出生主義者として育つかもしれない。
 輪廻転生を反証できないかぎり、反出生主義者は、来世を回避する行動を取らねばならない。だが、来世の回避とは「無」になることではない。A'の図式に陥るからだ。よって、「有」の状態において、来世を回避する他ない。どうやって?

存在しても苦しまない方法

 出生は存在の基礎にあるのだから、反出生主義は反存在主義とも言い換えられる。存在は苦しみだ。だが、以上に述べたとおり、輪廻転生が起きることは否定できず、存在を回避することは必ずしもできない。
 そこで、存在が苦しみの本質であるとする反出生主義を棄却する。そうしなければ逃げ道がない。存在したままで苦しまない方法を模索する必要がある。つまり、苦しみの原因を存在以外に求めるのだ。無論このことは「存在は快楽である」ことを意味しない。しかし、この態度は次のことを意味する。
 ──出生それ自体は悪ではない
 苦しみの原因が存在でない以上、善ではないにしろ、出生は悪ではない。反出生主義者としては苦々しい結論をまずは受け入れなければならない。ただし、アンチ反出生主義者や出生主義者が口にする場合とでは、理論的な重みに違いがあるという理由で精神的優位を保つことができる。
 さて、どうすれば存在しても苦しまずにいられるのだろう。議論する前に抑えておかなければならないことは、その解決策が輪廻転生によって損なわれないことだ。例え持続的な極楽ハッピー状態を手に入れたとしても、転生の際に人格がリセットされて無知蒙昧の人間になっては元の木阿弥である。転生は回避できないから、転生しても持続する人格を手に入れなければならない。それか、不老不死だ。  

駄弁

  ──以下駄弁

不老不死は安全か?

 不老不死は創作の中で度々題材となり、精神的退廃などの問題点が指摘されているが、それとて無限の時間の中で解決でいる可能性がある・・・「無限の時間」だと?
 宇宙はいずれ消滅するではないか。それとも、宇宙が消滅しても肉体を保つことができるというのか。それなら問題ないが、直感的には受け入れがたい。
 というわけで、物質宇宙が消滅しても問題ない思念体になることを提案する。この時点で唯物論者は、消滅後の宇宙でも持続可能な肉体の開発に戻るか、さもなければ唯物論を棄却すべきだ。

幽体離脱?

 もはやオカルトの世界に足を突っ込んでしまうが、肉体を離れた状態で存在することも可能性に賭けるとしよう。その中でも幽体離脱は最もポピュラーな方法ではないか。
 この他に、宗敎の知識を動員すれば、天国だとか、涅槃だとか、陽神だとかが考えられる。天国といえば、キリスト教だが、この地獄のような地上の世界を創り出した張本人がキリスト教の神であるから、頼りになるとは思えない。
 涅槃といえば仏教だ(本来は仏教以前の土着信仰に起源があるといわれている)。そもそも転生論の本家である。修行によって煩悩を滅することで涅槃に入ることができ、二度と転生しないらしい。だが、調べた限りだと、どうして煩悩を滅すると転生しないのか、ということについて納得できる説明を得られなかった。曰く、執着がないから、というが、ただの感情論ではないか。

仙道のすすめ

 陽神とは、あまり知られていない言葉だと思う。中国の道教と関わりが深い仙道における用語だ。道教とは、不老不死の仙人の存在を信じる宗教である。また、その世界観は「気」と呼ばれるエネルギーを万物の基礎とする。仙道とは、気の修練によって仙人になる修行の方法のことを指す。不老不死といっても、必ずしも肉体を持つわけではない。仙人の身体は陽神によって形成される。
 陽神とは、100%気によって作られた身体である。仙道の修行者は、身体に内在する気を増幅・強化して陽神を作り上げる。やがて陽神と一体化することで、不老不死となる。陽神は肉体の死後も不滅なのだ。
 要するに仙人というのは、宇宙を構成する最も微少な「気」によって作られた肉体を持っているので、物理的に傷つくことがない。砂山を斬りつけても砂山であるのと同じだ。「ニットのセーターに安全ピン通したみたいなもんだよ」(by五条悟)。精神面については、時間さえあればどうとでもなる問題だ。

まとめ

 以上の理由から、苦しみから逃れるために私は自らの出生に関する限り、反出生主義および反存在主義を棄却し、仙道を仰ぐことにする。布教活動をするつもりはないので、読者諸氏は好きな宗教を選んでもよいし、選ばなくてもよい。だが、反出生主義者の同朋においては、輪廻転生の問題について真剣に議論すべきことを忠告する。本稿で稚拙ながらも論証した以上、輪廻転生を全面的に否定するなら、私の理論に反論する必要がある。
 なお、倫理的問題としての出生の是非については議論を保留する。いつ・どこで・だれが・どのように子を産むべきか、私は答えを持たない。その意味では反出生主義をこれからも他人に押しつけ続けるだろう。

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