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『博奕打ち いのち札』を見た、QBハウスにも行った

QBハウスで髪を切った。特になんの感想もないが、なんの感想も持ちたくないためにQBハウスで髪を切っているので問題ない。
前回はイレブンカットという11分以内に散髪を終えることを売りとしたよく分からない店で切ったのだが、その際美容師のおばさんに「おまかせで」と言ったら「そんなの困ります」と言われて予想外の返答に黙ってしまい、なぜかおばさんも黙ったまま動かず、本当に1分ぐらい無言のまま見つめ合う時間があった。最終的にこちらが折れて「全体で1cm切ってください」と頼むと鏡に張り付いたキッチンタイマーを押してカウントダウンを始め、驚異的なスピードで散髪、終了時はなんと4分余らせていた。何をそんなに急いでいるのか知らないが、短いのに料金は変わらないので損した気分になり、もっとおばさんと無言の時間を過ごして時間を奪えばよかったと後悔した。もうイレブンカットには行かない。余計なことを考えたくないなら、QBハウスがいい。

じゃあ余計じゃないことはというと、最近はもっぱらミニストップの蜜いもソフトと若山富三郎のことばかり考えている。
俺は最近になって若山富三郎にお熱で、『子連れ狼』とか『極悪坊主』はムチムチおじさんだなぁぐらいにしか感じなかったんだけど、『博奕打ち』を見ていたら出てくるだけで安心感というか、強くて包容力もあるし、よく見たら巨大タヌキみたいで可愛いし、て感じでメロメロになってしまった。それで、主演の鶴田浩二より若山富三郎目当てでちまちまと見ていた、博奕打ちシリーズ10作目にして最終作(外伝を除いて)をようやく見た。

若山富三郎
蜜いもソフト

ちなみに『博奕打ち』シリーズは物語上の繋がりが全くないためどこから見ても問題ないのだが、『いのち札』はオープニングクレジットからして前作までと明らかに違う。オープニング後も鶴田浩二と大楠道代の恋愛が物語の起点になる。この逢引きの場面は任侠映画とは思えないメロドラマのようだ。荒れた海が空のように画面上部に位置し、何か異様な迫力と美しさがある。冒頭なのにクライマックスみたいにエモーショナルな背景は終わりや死を暗示し、どのような形でも今後2人は結ばれることはないであろうことがビンビンに伝わる。
この映画は何においても常に終焉を感じさせる。兄弟分である鶴田浩二と若山富三郎も、画面を真っ二つに割るような中心の墓標で左右に決裂される。何かによって盃は交わされるためでなく、割られるために登場する。約束は破られる。結ばれないために再会する。

『博奕打ち』シリーズは基本的に、任侠や仁義によってがんじがらめになり破滅するドラマを描いてきた。任侠のかっこよさだけでなく批判的な目線がある。しかし、毎度のこと敵は仁義から外れた人間で、主人公は筋を通そうとするがゆえ衝突が起こる。批判的でありながら、結局仁義を重んじる方が正義という二律背反が起こっている。つまりすでに始まりながら終わっているのであり、始まった時点で終わることが運命づけられているのだった。4作目の『博奕打ち 総長賭博』が出色の出来なのはその矛盾した苦しみが他の作品より全面に出ており、このジレンマはもはや全員死んで破滅するしかないという自棄が美学まで昇華していた。
本作では恋愛が仁義の足枷になっており、主人公らが思うように仁義を通せないという事態が起こる。鶴田浩二と兄弟分の若山富三郎のすれ違いは、男女の恋愛と男どうしの友情の相入れなさのようでもある。物語が進むにつれて状況はどんどん窮屈になっていき、最後はもちろん殴り込みwith破滅なのだが、本作は超越した破滅を見せる。

大楠道代が敵の桜田一家に囲まれている中、若山富三郎が殺されたのを知った鶴田浩二が単身敵討ちに向かう。大楠道代は救出できるものの、敵の数も多く、このとき鶴田浩二は下っ端連中に刺され、もはや助からないであろうことが分かる。しかし満身創痍でラスボスの内田朝雄をなんとかぶち殺す。本作が異様なのはこの後ラスト数分である。内田朝雄の首から真っ赤の血が噴き出した後、画面が血の赤一色に染まり、観念世界のような別次元に突然ワープ。もはや2人が結ばれることも堅気になることも生きることも諦めたような、悲しみと怒りを内包した世界に突入する。このとき映画は任侠映画であることも諦め、シリーズの終了、ジャンルの終了すらも勝手に告げる。幸せになれたかも、なんてマルチバースを提示しない諦めの美学、アメリカンニューシネマはどん詰まりの現実を映しただけだけど、自らの死と後悔を彩るのが映画だよ。美しかった。

ちなみにシリーズ全作見た中でイチオシ富三郎は、『いかさま賭博』の眼鏡姿のインテリ富三郎です。よろしくね。

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