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マンボ

—ねぇ、知ってる?
 自分が生まれた時間に配信を始めると、未来の自分がやって来て、願いを叶えてくれる配信アプリがあるんだって。

 都内の大学に通う七瀬さんが、こんな噂話をアルバイト先の友人から聞いたのは2021年8月のことだった。七瀬さんも、はじめは眉唾物だとその話を笑い飛ばしていたそうだ。

 コロナ禍の最中に始まった東京での一人暮らし。春には、憧れの街での新しい生活に心を躍らせていた七瀬さんだったが、入学式が中止されたばかりか、相次いで大学での講義までもが自粛されたせいで、七瀬さんを待っていたのは自宅とアルバイトの職場を往復する毎日だった。理想と現実とのギャップを嘆き、真夜中に涙が溢れることも珍しくなかったという。

 そんな七瀬さんが迎えた19回目の誕生日の午前2時30分。熱帯夜のせいで寝付けずにいた七瀬さんがスマートフォンを手に取ると、見慣れないアイコンが目に飛び込んできた。「まさかね」と思いながらも、好奇心に駆り立てられるままに七瀬さんはそのアプリを起動してしまった。画面の構成には見覚えがあった。というのも、大学に入学してしばらく経った頃、会話が恋しくなった七瀬さんには配信アプリを利用していた時期があったからだそうだ。

 スマホの画面を眺めていると、暗い記憶が七瀬さんの脳裏に蘇ってきた。七瀬さんは、はじめこそ、アプリを通じた会話を楽しむことができていたそうだが、突然、リスナーのうちの一人がネットストーカーまがいの行動をするようになってしまったという。その人物は、他のSNSでも接触を試みてくるようになり、遂には、七瀬さんが配信中に何の気なしに話した、普段利用しているコンビニの様子からその店舗を特定し、七瀬さんに会いにくることを宣言してきたという。身の危険を感じた七瀬さんは、すぐに配信アプリの利用を中止したそうだ。

 そのことが思い出されたため、七瀬さんは起動したアプリを終了しようとしたが、その瞬間、通知音がスピーカーから鳴り、画面に「新しいリスナーが入室しました」と表示された。そのリスナーの名前を見るなり、七瀬さんの心臓がドクンと一際大きな脈を打った。

 —Mambo
 マンボは七瀬さんが小さい頃から可愛がっていたポメラニアンだった。七瀬さんが上京する前夜にマンボは静かに息を引き取った。ちゃんとお別れができてよかった。そう自分に言い聞かせながら、七瀬さんはマンボが眠る故郷を離れたのだった。

「こんばんは」

 画面にメッセージが表示された。何の変哲もない夜の挨拶も、その夜だけは特別な意味を持っているように七瀬さんには思われた。

"未来の自分がやって来て、願いを叶えてくれる"

 友人の言葉が七瀬さんの頭の中で反響する。

「お誕生日おめでとう」

 日付を跨いでも、誰からの祝いの言葉も届かないことを悲しんでいた七瀬さんの心を静かな衝撃が襲った。

「あなたは未来の私なの?」

 ひどく間抜けな質問だったが、これ以外の言葉が七瀬さんの口からは出てこなかった。

 「そう。私は未来のあなた」

 不思議なことに、たったこれだけで、七瀬さんは画面の向こう側にいるのが未来の自分であることに確信を持つことができたそうだ。

 「この状況を理解しているのなら話は早いわね。さぁ、あなたの願いを教えて」

 テキストが、少し大人びた口調で話す自分の声に変換されて、七瀬さんの耳に優しく流れ込んできた。すると、幾筋もの涙が七瀬さんの頬を伝いはじめた。

 七瀬さんは、この数カ月間の出来事に思いを巡らせた。マンボとの別れ。未だ一度として踏み入れることが叶わない憧れのキャンパス。一人で食べる味気ない食事。私の大学生活はこんなものじゃなかったはずなのに。

 「お父さんと、お母さんに会いたい…」

 涙に濡れた声を七瀬さんは絞り出した。

 「寂しいんだね」

 そうメッセージが表示されてからしばらくの間、沈黙の時間が流れた。一体どれほどの時間が経過したのかについて、泣き声を抑えることに必死だった七瀬さんは覚えていないという。

 「お父さんとお母さんは、マンボと一緒に楽しく暮らしてる。だから、あなたは、安心してあなたの道を進みなさい」

 1年前、交通事故で他界した両親の笑顔と、二人のそばを無邪気に走り回るマンボの姿が思い出された七瀬さんは、声を上げて泣くことをもうためらわなかった。

 泣き疲れたままに眠ってしまった七瀬さんは、翌朝、乾いた涙で頬が強張るのを感じながら目覚めた。スマートフォンを確認すると、あのアイコンは既に画面から消えてしまっていたそうだ。

 その日、大学から、キャンパス内での講義の段階的な再開が通知され、ようやく七瀬さんの大学生活は本当の意味で始まった。

 最後の連絡以来、七瀬さんからのダイレクトメールは途絶えている。背伸びをしながら壁掛けのデジタル時計を確認すると、私の生まれた時刻が訪れようとしていた。

おしまい

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