『すずめの戸締り』雑感

金曜ロードショーの録画を観た。新海誠作品で一番好きだった。
すでに素晴らしい批評がたくさんあるだろうけど、それらに目を通す前に素朴な雑感を書いておこう。

常世への扉を閉める

常世は死者がいるべき場所である。今を生きる人がそこにとらわれたり、そこを見つめ続けてはいけない。気持ちを留めてはいけない。心が常世から出られなくなってしまう。

だが、そこに意識を囚われてしまう人もいる。本作では、震災をトラウマとして抱えた人々が該当する。廃墟となった場所に想いが集まると、そこの扉を通じて現実世界が常世と繋がってしまい、また次の死を招き寄せる。

だからすずめと草太は、戸締りを続ける。戸締りには作法がある。祈りの言葉を捧げながら、そこで生きていた人々の日常に想いを馳せながら締め、鍵をかけるのだ。つまり、失った痛みを繰り返し思い出すのではなく、そこにあったかけがえのない日常に意識を向けた状態で、そろそろ安定をさせましょうということなのだと思う。

新海誠作品として

物語としても結構面白くて、彼の作品の中では一番好きになれた。

新海誠作品と言えば「運命の相手への想い」がとにかく重要で、それと背景美術だろうか。近年の3作品では「自然災害」(隕石、天候、地震)がさらにキーファクターとして登場しつつ、運命の相手を救うことと災害に対峙することがリンクする構図となっている。

で、天気の子では、それが思いっきりセカイ系になっていた。運命の相手を救うか、それとも運命の相手に犠牲になってもらい、多くの人を救うか。

天気の子では、運命のヒトが選ばれ、東京は水没した。それでも二人は、自分たちが選んだ世界を強く生きていく覚悟を決めるというエンディングだった。

この運命のヒトかセカイかという2択は様々な作品で扱われ、恋愛ドラマの盛り上がりに一役買ってきたともいえる。だが、そもそもの構図に無理がある感じで、自分の好きなパターンではなかったというのが正直なところだ。

本作でも表層上は、運命のヒトをとるか、世界を救うことをとるかという構図が再来する。草太を要石のままにしておけば世界は安定するが、運命のヒトである草太を救いたい。

だが本作では、草太個人が犠牲になるでもなく、世界が犠牲になるでもない。むしろ世界のために犠牲になろうとする草太を主人公が救うという構図になっている。自分からすると、地に足のついた好みの着地だった。

(要石だったダイジンが、すずめのペットになること?を望んでその役割を降りたのだが、結局要石にもどるという流れについては、もう少し描写が欲しかったところではある。

地に足をつけるというテーマ


「地に足をつける」ということにもテーマがあったんじゃないか。

『秒速5センチメートル』が象徴的で、主人公は初恋の女性への思いを引きずることで日々にフワフワと生き続けた。まあその作品では、主人公が最後に初恋の女性への想いをふっきるのだけど。

それが『君の名は』と『天気の子』では運命の相手への強い想いで動く主人公が描かれ、主人公の友人や街の人々は人格の実在性を感じられないモブキャラとなっていた。「秒速5センチメートルにあった救いの要素が、商業的な成功を収めようとするなかで消えてしまった」と言うような思いがあった。

その観点でみると、すずめの戸締りでは、まぁ運命の相手との物語ではあるんだけど、地に足をつけるということは常に意識されているように見えた。震災の当事者の人たちが過ごしていた、それぞれにとって切実に大切だった何気ない日常と言うものを想い、それを悼み、引き受けて解放していく作品であるっていうことからも外せない要素だったろう。

だからこそ雀の日常だけをとれば、運命の相手と出会って一気にドラマチックなものになってしまうんだけど、それをとりまく人々はみんな地に足をつけて生きている。みかんを運ぶ旅館の娘、子育てしながら働くスナックのママ、チャラく見えて教員を目指している青年。

人々がそれぞれの人生を生きている質感と言うものはかなり重視して描かれていたのだろう。

宮崎駿作品の影響

なお、本作には色々とジブリの影響が見て取れた。

魔女の宅急便
一番露骨なのは「ルージュの伝言」を流すシーンだろう。「黒猫もいるし」って言いながらかけるシーンは「ジブリの影響とかリスペクトがあるし、それを隠すはありませんよ」ということだと思う。

もののけ姫
ミミズの描写には祟り神のCGを思い出す部分もあった。ミミズに要石を刺すシーンはシシガミに首を返すシーンを思い出させ、ミミズが消えた後の世界が植物で緑色になっていくのはデイダラボッチが消えた後のようだった。その後には「会いに行くよ」と言う約束も交わされる。
まあ構成要素は似ているものの、サンとアシタカの場合は人間と自然の何とも言えない距離感を示していたと思うので、すずめと草太の約束とはニュアンスが違うのだが。

だから完コピと言う批判をしたいわけではない。きっと、新海誠は宮崎駿作品の影響を受けながら成長していて、その影響からは自由になれないと言うことに自覚的だからこそ、むしろ作品に明示的にとり入れたんだろうなと思う。

とにかく、震災に限らず、人生のなかで大きな喪失があったとしても、地に足をつけて前を向いて生きるしかない。震災以降、震災の匂いがする作品で試行錯誤してきた新海誠の集大成として、本作は納得のいく、地に足のついたものだった。

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