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神々の甘噛み (2) #シロクマ文芸部


 

 ガラスの手袋が落ちている。
 よく見れば、細く透き通るような銀白色の長い長い毛が一本、指先に絡まっている。
 時折、何かを探しているかのように、毛の先端が右へ左へと振れるのである。否、ただ、風が吹いているだけで。
 通りに無造作に横たわる手袋の表面を、雨がこぼれ落ちていく。薄暗いのは、街灯の電球が切れかけているせいだ。役所に連絡してからそろそろ一週間になる。断末魔の喘ぎのように、灯ると見せかけては弱くなり、きえると思わせては光を放つ。不規則な明滅が、ガラスを、雨粒をうつ。
 部屋の片隅では、ハリネズミが眠っている。その背中をそっと撫でてみる。

 犬が現れて手袋を咥えあげる。
 いけない、壊れてしまう。私は管理人室からとびだす。しかしコンクリートの壁に入った大きな亀裂から、じわりじわりと水が這い出してくるのが目に入って、はっとする。
 この古い建物は濡れそぼっているというのに。
 あの犬は、長い毛を風になびかせて颯爽としている。この場に不釣り合いなまでの白さ、輝き、あれは、一体。

「いいこね」
 声のした方を見ると、銀白色の長い髪の女が、犬に向かって微笑んでいるのだった。白い肌に細いあご、切長の目、すらりと伸びた脚、ちょっと人間離れした美しさに畏怖の念を覚える。
 犬が駆け寄り、咥えていた手袋を女に差し出す。
 絡まっていた銀白色の毛を、女は丁寧な手つきで手袋から外すと、犬の首元に加えてやった。犬は喜んで、女の手を甘噛みした。

 女と犬が、こちらへ視線を向けてくる。
 一緒だ。女の髪と、犬の毛。
「ねえ、手袋をはめてくださらないかしら」
 女の美しい白い手が差し出され、長い指が私の頬をなぞり、そのまま下へおりて唇の周りを一周する。脳髄が動きを止めて、唇に指を迎え入れようとするが、ハリネズミのことを思い出して、撫でているといつも、大切なことを教えてくれるあの毛のことを。
「や、やめてくれ」
 

「私は宇宙おいぬ
 犬が語りかけてくる。
「あなたは宇宙じんではありません」
「ああ、私は宇宙人などではない」
「違います。宇宙塵とは宇宙のチリ。宇宙ゴミ」
 女は犬に、行きましょうと促し、最後に振り向いて言った。
「ガラスの靴の持ち主と結婚した王子様がどうなったのか、あなた、ご存じのようね」

 
 部屋へ戻ると、私はハリネズミに話しかける。
 ねえ、きみにまた助けられたよ。きみの背中に、一本だけ逆さまに生えているあの毛が、いつもすんでのところで私を救ってくれる。
 背中をそっと撫でてみる。指先に感ずるわずかなひっかかりが、楔のように私をこの世界に繋ぎ止めてくれるのだ。
 ハリネズミは、雨が止んだのも知らずに眠っている。

<了>


 いつかは、と思っていた続編が書けました。
 小牧さんのお題は、眠っているものを呼び出してくれるようなところがあります。
 そして、ピリカグランプリの「指」ともちょっと繋がって、後夜祭みたいなもの、というところで。


 


 


 


 
 

 


お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。