穂音(ほのん)
長夜の長兵衛 二十四節気シリーズに続き、七十二候のシリーズです。 短編の連作です。読み切りですので、どこからでも、お読みいただけます。全部地の文で出来ているこの世界は、一体いつ、どこなのか、どうぞお好きなところへトリップしていただけましたら。
取り上げてくださってありがとう、心にグッときましたありがとう、のおと
うちのお犬についての親バカ的なアレです。 ヘッダー画像は橘鶫さんが描いてくださった白いお犬です。
「見えなくてもいい、いまそこにいる。信じて感じるのだ!」をスローガンに活動するこびと部が運営する図書館です。 こびと部はゆっくりのんびり各自のびのびをモットーに活動しております。
ぬか床に関するこんなことやあんなこと。 「こんな時、どうしてる?」とほかの人に聞いてみたいことや、「聞いて聞いて、大発見!」とぜひとも報告したい発見などなど、熱烈歓迎いたします! 入部希望の方はコメント欄等でお知らせください♪ ヘッダー画像のぬか床は、清世さんが描いてくれた作品です。
ぽぽぽー。 磁力線はその一点を指していた。くたびれた商店街から枯枝をつたうように路地を進む。長いこと補修などなされていない店ばかりだ。 「エドの店」とペイントされた扉を押すと、ベルが錆びついた音をたてる。 硝子は磨き込まれているし、周囲に高い建物があるわけでもないのに、店内はほの暗い。外壁も店の内側も、くすんだ煉瓦タイルが覆っている。こいつが光を呑み込んでいるのかもしれない。 メニューには珈琲が数種類だけ。 「夜は食事とかお酒とか?」 「いや。珈琲だけです」 採算が
目刺 細く尖った芽が水面を穿つように、あちこち姿をあらわしている。 葦の角に出会うと、身が引き締まるような思いがいたす、と銀兵衛。天まで伸びよと聞こえてくるようで、己もかくありたいと心持ちを新たにするのだ。 そうか。実のところ、儂は恐ろしいような気がする、と長兵衛はこたえる。 恐ろしいとな。 うむ、あまりに真っすぐで、尖って、触れたなら切られそうで。もちっと長うなって、風にしなり始めると安堵いたす。揺れて、倒れて、また起きて、それくらいの按配がよいのう。 面白い
躑躅の衣 丁寧に衣を広げ衣紋掛けに吊るすと、蘇芳の色目が金兵衛の心の奥を掴んでくる。ややあって、裏の萌黄が、そのまた奥を射る。三歩ほど下がって、もう三歩、五歩、終いには次の間から眺めた。 うむ。 おのずと口の端があがる。 譲り受けた折には、なかなかな傷み具合であったが、よう、ここまで。さすがは源兵衛、反物屋の隠居。染め物の腕は道楽どころではないわ。 まこと良質な織りの衣であったゆえ、つい熱が入ったと仰せでございました。洗い張りも仕立て屋も、同じ思いであったようだと
花筏 吉野の山桜は、夢かうつつかわからぬほどの見事さと聞きおよびます。行者さんの御神木だけのことはあると。 久兵衛は猪口を盆に置く。 相手のことは知らぬ。たまさか蕎麦屋で同じときを過ごしている。 ご覧になったことがおありとは、羨ましい限りですな。 久兵衛の頬は、ほんのりと赤らんでいる。 これも何かのご縁、勘定は儂が。さあ。 鼻歌まじりに久兵衛は歩く。 随分と散ったのう。源兵衛川に幾つも、花筏が浮かんでいる。 その間をひょこ、ひょこと歩いているものがある
駘蕩 辻にて長兵衛は一旦立ち止まる。左へ行けばお社さん、右なら畑へ至る道、まっすぐ進めば峠。 ほわりほわりとした気の流れを辿りながら歩いていると、峠へ向かう一本道から少しく脇へそれていく。なだらかな斜面にみつばつつじの群生するのを見つけ、傍に大の字になってみた。 桜が白に思えるほど、濃い花びら。小さな三揃いの葉は新しい春の色をしている。その向こうに、すっかり霞の晴れてきりりと締まった青が透けて見える。切れ切れに雲がわたっていく。 風が土の匂いをそよがせて。寝転んだま
海猫渡る 鳥居をくぐると、すぐのところに宮司さんが待っておられた。 金兵衛さん。初雷をききまして、お越しになる頃合いと思うておりました。 金兵衛は深々と礼をする。はい、今年もよろしゅうにお頼み申します。 振り返ると後ろに控えていた一番弟子の銀兵衛と長兵衛に告げた。いっとき、ここで待っていてくれぬか。 ありがたきこと。 祝詞が終わっても金兵衛は頭を垂れたままだ。 脳裏に浮かぶは海原を舞う海鳥。あのかたが、海猫にゆかりの深いあのお方があったからこそ、儂は今でもこ
花時 久兵衛の手にある黒塗りの横笛を、お天道様が撫でていく。うららかな日和に、川べりをゆく足取りも軽くなる。 ひとつふたつ、いやみっつ。 開いたの。目を細めて桜を見上げ、そこに腰を下ろした。 おのずと半眼になる。吹くのでなく、笛と共に息をする。己が鳴らすのではない、ただ、笛に委ねていくのみ。 音に包まれると次々と花が開き、みるみる満開となる。水鏡は桜色を映し、水紋はすべるように流れて、彼方まで久兵衛を連れてゆく。 家へ戻り、丁寧に笛をみがいていると幼馴染の金兵
一気に咲き出しました 来週から四月なんですね 毎日とぶように過ぎていきます。ちょっとのんびりしたいなあ
白木蓮 ときに木肌に触れながら、源兵衛はその周りをぐるり、と一周する。身を屈め、大きな白い花びらをいくつか拾い上げた。 反物屋を隠居して、ここに落ち着いてから随分とたつ。道楽の染め物を始めるにあたり、川べりという場所ももちろんだが、庵の側にある大きな白木蓮に惹かれてやって来たというのも、ある。 こんもりとはち切れんばかりであった蕾が、日に日にその白を惜しげもなく広げたと思えば。散ったばかりの花びらのへりはもう茶色く、土に還る支度をしている。 それもまた美しい、と源兵
彼岸西風 橋の真ん中で、婆さまがじっと川を見つめておられる。どうなされたのであろうか。 長兵衛は足を早め向かおうとするが、腰にくくりつけていた手拭いがふらり、落ちてしもうた。身をかがめ、拾おうとすると思いがけぬ風に攫われ。 おっと、焦ってはならぬ、ここいらを踏み荒らさぬように。 二度ほどつかまえ損ね、三度目にようやっと追い付く。手拭いを軽くはたいてくくりなおし、婆さまのところへ辿り着く。 長兵衛さん、蝶々のようでしたわ。穏やかに澄んだ目で、婆さまはほっほっ、
ベランダの水仙に、一斉に蕾が。今まで、年に一、二輪しか咲かなかったのだけれど、何年もずっと蓄えてきて、今年なんだろうと思うとじーんとします。 ジャスミンの新芽も、ちょっと黄色みを帯びた緑で心をくすぐってくる。これ、昨年初めて花が咲いてウンナンオウバイだったと判明。学名 Jasminum mesnyi。どうりで香らないわけです。 春になったら着たいなあと思っていた新しいトップスを、ついにおろす日がやってきた。数十年ぶりに淡いイエローのシャツなんかを取り入れたりして。暖か
草雛 両手に抱えたものを揺らさぬよう気を配りながら、長兵衛は安兵衛の屋敷へ着いた。 まあ、長兵衛さん、なんといい枝ぶり。 お内儀は顔もとを緩ませて、薄紅の桃の、花びらのひらいたのやら、まあるい蕾やらを交互に眺め、枝先の緑を人さしゆびの先で撫ぜた。 おお、長兵衛。いつもかたじけないことだ。ささ、あがれあがれ。 安兵衛も後ろから手招きする。菓子屋の大旦那、気儘な隠居の昼下がりである。 名物の豆大福と茶をいただいておると、庭石の上に緑色をした饅頭のようなものが二つ、置
蟇目鏑 お社さんで蔵の掃除を手伝っておると、見慣れぬ矢が仕舞われてある。矢尻に大きな繭のようなものがついて、繭には小窓があけられている。はて、と長兵衛は首を傾げた。 宮司さんが教えてくださる。蟇目鏑といいますもので。 鏑矢とは、初めて近くで見ました。蛙のような声で飛ぶのでござりましょうか。 宮司さんははっはっ、と心底愉快そうに笑われた。いやいや見た目が似ておる、ということでしてな。穴が四つあるのを四目と申しまして、まことに心があらわれるような音がしますぞ。いずれ
堅香子 おい、銅十郎。 坊は背を向けたままでものを言わぬ。銀兵衛は近づくことはせず、もう一度呼んでみた。 銅十郎よ。 坊の背はぐっと丸められ、両の拳は固く握りしめたままで。 木を。それだけ言うと、ひくひくと肩を上下させた。ぽたりと地面にこぼれるものがある。足元で赤茶色の犬が鼻を鳴らす。 兄いに倣って、木を。でもうまく切れなんで、兄いに斧を取り上げられてしもうて。あとは全部兄いが。 まだ、頭一つ小さい後ろ姿へ銀兵衛は語りかける。 のう、銅十郎よ、斧を使うに
出張翌日。お休みをとったのです ひゃっほう!
佐保姫 畑の果てに並ぶ山々は、すぐそこにあるようでいて遠く、丘のようでいて高い。このような薄曇りの日には、黒がかった緑のいでたちでこんもりと固まっている。 中腹には桜が三本ほどあるが、花が咲かぬことにはどこやら見分けがつかぬ。川べりに並ぶものとはまた趣が異なって、遠くにある幻のようである。 風がはやい。 山のてっぺんがあらわれたり、消えたりする。 ふうわり白い衣が、山々を遊ぶ。ひらりひらりと裾、ゆらりゆらりと袖がひるがえってはあちらで枝に触れ、こちらで土を撫ぜて。