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ぽぽぽー


 ぽぽぽー。
 磁力線はその一点を指していた。くたびれた商店街から枯枝をつたうように路地を進む。長いこと補修などなされていない店ばかりだ。
「エドの店」とペイントされた扉を押すと、ベルが錆びついた音をたてる。
 硝子は磨き込まれているし、周囲に高い建物があるわけでもないのに、店内はほの暗い。外壁も店の内側も、くすんだ煉瓦タイルが覆っている。こいつが光を呑み込んでいるのかもしれない。
 メニューには珈琲が数種類だけ。
「夜は食事とかお酒とか?」
「いや。珈琲だけです」
 採算がとれるとは思えない、と顔に出てしまっただろうか。店主は淡々と言った。
「趣味のようなものだから」
 確かに、一杯五百円とは。

 ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 カウンターに五席、 その後ろに四人掛けの席が二つ。
 店主の目の前というのがなんとなく憚られて、私はテーブル席に座った。
 やけに舌に馴染む珈琲だ。しかしそれはここに入った結果なのであって、なぜここに辿り着いてしまったのか、理由を説明してはくれない。
 棚に並べられたカップとソーサーはどれも丹念に磨かれてある。私の前に置かれているカップはなかなかの値打ちものだ。口をつける部分に凝った金模様。青味がかった植物柄も、丁寧に金で縁取られてある。高価な器に淡麗な珈琲。
「これはマイセンですね」
「はい」
「しかもアンティーク」
「よくお分かりで」
 なぜこんな場末の店で、と顔に出てしまっただろうか。店主は淡々と言った。
「道楽のようなものだから」
 私と同い年くらいだろうか。人生はもう折り返しをとっくに過ぎているようだ。

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 私は誰だ。この珈琲が長らく頭の中に立ちこめている霧を晴らしてくれる、そんな予感がする。
 珈琲のおかわりと共に、小皿が置かれた。
「召し上がってください」
 薄暗い店内で白いチーズケーキがくらげのように発光する。咽頭に沁みる微弱な電流のような辛味。
「ゴルゴンゾーラを使われていますか」
「お分かりになりましたね」
 私の好物を知っているなんて、と顔に出てしまっただろうか。店主は淡々と言った。
「おやつの時間だから」
 そういえばさっき鳩時計が三回鳴いた。
 店内を見回して私は愕然とした。
 どこにも時計などない。

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 トイレにあるのかもしれない。左奥へ向かう。棚にはペーバータオル、その下には清潔だけどヒビの入った手洗いボウル。
 ここにはない。
 ムスクの匂いが鼻腔にまとわりついてくる。私の好みのハンドソープがなぜここにある。いや、昔からあるただの市販品だ。
 席へ戻ると冷めた珈琲に口をつける。
「大丈夫ですか」
 私の困惑が顔に出てしまっただろうか。店主は淡々と言った。
「頭が痛いのかとお見受けしました」
 私は両のこめかみを覆って俯いていた。
「ああ、考えごとを」
 指が頭皮をなぞる。穴のような傷が月面のように連なるばかりで、どこにもたどりつけない。いつ、こんな怪我をしたのか。

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、 ぽぽぽー。
 鳩時計はカウンターの向こうだろうか。
 店主がトイレに立った隙に、覗いてみる。カウンターの足元はさっぱりしたものだ。目線を上げると、端に流し、コの字を描いて二口のコンロ。冷蔵庫、棚にカップ、豆を入れたガラス製のキャニスター。
 三杯目の珈琲を頼む。サイフォンをセットしながら店主は独り言のように言う。
「この辺りもすっかり寂れてしまいました」
 ああ、以前はもっと人通りがあった。
 以前は? 私はここを知っているのか。
 私の狼狽を知ってか知らずか、店主は淡々と続けた。
「昔は沢山のお客様で賑わっていたものです」
 私は、その一人だったのだろうか。豆の香りを頭の中に送る。少しずつ、煎りが深くなってきている。

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 冷蔵庫。
 あと、そこしか調べるところはない。
「お腹は空きませんか」
「お食事は出されないのではないですか」
「ナポリタンくらいなら、お作りできます」
 途端にぐうと腹が鳴る。
 店主は冷蔵庫をのぞくと小さな声であ、と言った。
「ピーマンを切らしているようです。ちょっと買って来ますので、お待ちいただけますか」
 後ろ姿を見送ると、全ての扉をあらためる。
 私は何をしている、いったい、どこの誰が鳩時計を冷蔵庫にしまうというのだ。
 スーパーの袋をぶら下げて戻って来た店主が、手際良くピーマン、タマネギ、ベーコンを刻み、換気扇がうなりをあげる。
 脳天に刺さるような味だ。こんな美味いのを食べたことは今まで…。
 ある。
 汗が吹きだす。水を飲むと、氷が動いた軌跡に沿ってグラスがぐにゃりとした。
 
 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 鳩はどこだ。
 四杯目の珈琲を飲みほした。流石にもう、いらない。酒を頼んでみようか。出してくれるのではないか。そして酒の力を借りて、尋ねてみるのだ。
 鳩を飼っておいでですか、と。
 磁力線が体中に絡みついて、ここから動けない。

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 頭の中に巣をかけて、

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 つがいになって、

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 卵を産んで、

 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 雛が、こちらへ駆けてくる。

「おかえり、ポー」
 店主が私を見下ろしている。
「ポー。随分とご無沙汰だったじゃないか」
 声音は淡々としたままだが、目が据わっている。
 逃げなくては、と顔に出てしまっているだろう。
「あんたはもう動けないよ、ポー」
 手足が鉛のように重くて、喋るのも辛い。
「昔からそうだったよ。好物が目の前にあると我慢できないんだ」
「ど、く」
「そんなやり方では殺さないよ」
 汗が皮膚をぬめらせていく。動悸が激しい。
 店主がハンマーを振りかぶる。よけられない。
「ここを引き払って遠くへ行こうかと、何度思ったかしれないよ。でも犯人は現場に戻るって言うじゃないか。長かったよ、今まで」
 髪の毛を掴まれ、私は声にならない悲鳴をあげる。
 ハンマーが叩き壊したのは壁。大きなワニのようにぽっかりと口を開けたあちらに、姿を見せた寒々しい空間。
「あんたは実に酷いことをしたね」
 なんのことだ、と顔に出てしまっただろうか。店主は表情を変えずに言った。
「覚えていないっていうのかい、ポー」
 私は、何を。
「あんたのその頭の傷は、どこでついたかね」
 引き摺られて、穴の向こうへ投げ込まれる。土埃が舞う。
「ここはあんたが、娘を殺した場所だよ」
 転がったまま立ち上がれずにいる私の目の前のこれは、乾いた鳩の糞か。ついばまれる感覚が甦って、私はとっさに顔をかばった。
「思い出したかい、ポー。鳩にも、心ってものがあるんだ」
 ああそうだ、最後の一羽が特にしつこくて、髪の毛にまとわりついて離れなくて。きっとあの時、私の頭の中に卵を産み落としたのだ。
 そいつが孵化して。
 帰巣本能。
「妻はすっかりおかしくなってしまってね。あとを追うように逝ってしまったよ」
 ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー、ぽぽぽー。
 
 幻だろうか。
 女が私を誘う。あそこならバレないわ。
 昼下がりの鳩小屋で二人の汗が混じり合う。
「おかあさん」
 戸を開けて駆け寄ってくるあどけない少女。
「入っては駄目って、あれほど言ったでしょう」
 少女をぶつ女、執拗に、鈍い音、私は、女を止めようとして、
 少女が動かなくなり、
 鳩が鳩が鳩が鳩が鳩が、女に群がろうと、
 私は女を護ろうと覆い被さって、鳩が鳩が鳩が鳩が鳩が、ああ痛い、
 エドの怒号がして、
 鳩が鳩が鳩が鳩が鳩が、
 全力で走る私。

 マイセンの好きな女だった。
 娘を殺めてしまった女だった。
 置き去りにして済まなかったね。
 帰ってきたよ。

 エド、あんたは勘違いしているんだ。

 あれはあんたの娘ではなくてね。
 私の。
 
 壁が塗り込められて、もう光も射さなくて。
 ぽぽぽー。


<了>

お気持ちありがとうございます。お犬に無添加のオヤツを買ってやります。