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土居豊のエッセイ【関西オーケストラ演奏会事情 〜20世紀末から21世紀初頭まで】 第1回 《特集「モーツアルト生誕250年」『モーツアルトのオペラ その制作現場』》(文芸同人誌「関西文学」より転載)

土居豊のエッセイ【関西オーケストラ演奏会事情 〜20世紀末から21世紀初頭まで】
連載開始!


【まえがき】


エッセイ【クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会】という連載を、ノートで公開しています。

https://note.com/doiyutaka/n/n47f9b3d1ac01

これは、当時の筆者自身の演奏会印象メモを元にした演奏会批評です。
その続編として、今回新たに、その後の来日オーケストラ演奏会評や、国内オケの演奏会評、関西を中心とした演奏会事情などをまとめていきます。いずれ、これらの連載を合わせて電子書籍版として一冊にまとめる予定です。

その連載の手始めに、これまでネットで公開していなかった過去の音楽エッセイを順次、公開します。主に20世紀末のもので、現在から振り返るとまだまだ日本が経済的に好調だった時代背景もあり、現在よりも盛んな音楽活動が展開されていたようにも思えます。

これから数回、過去のエッセイを掲載したのち、本連載を始めます。
21世紀が2020年代に入るこのタイミングで、日本での、それも関西という地方都市を中心としたクラシック音楽の様相を記録しておくことは、歴史的に意義があると信じています。

第1回目は、2006年に、大阪の文芸同人誌「関西文学」(現在は休刊)に掲載した、モーツアルトのオペラ制作現場の取材レポートです。

《特集「モーツアルト生誕250年」『モーツアルトのオペラ その制作現場』》(文芸同人誌「関西文学」より転載)


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【ここから本編】


土居豊のエッセイ【関西オーケストラ演奏会事情 〜20世紀末から21世紀初頭まで】
第1回
《特集「モーツアルト生誕250年」『モーツアルトのオペラ その制作現場』》(文芸同人誌「関西文学」より転載)


モーツアルトを聴くうえで、オペラを避けて通れない、というのは、いまや常識である。その音楽の天才性をいかんなく発揮したのが、オペラ作品においてだからである。ついでにいうと、モーツアルトのオペラがもしなかったら、その後のドイツ・ロマン派オペラも、あのような発展はしなかっただろうともいわれる。なんといっても、オペラはイタリアのものだったのだ。ウェーバーもワーグナーも、モーツアルトの『ドン・ジョバンニ』や『魔笛』の直系なのである。
2003年から、大阪音楽大学ザ・カレッジオペラハウスは、サマーオペラシリーズとして、モーツアルトの四大オペラを順次上演している。2003年の『フィガロの結婚』に始まり、『ドン・ジョバンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』、そして今年の『魔笛』でシリーズを締めくくる。演出に気鋭の岩田達宗、指揮は常任の山下一史で、シリーズを通して、共通のコンセプトで製作してきた。
あるきっかけがあって、2005年の『コジ・ファン・トゥッテ』を、歌手の立ち稽古の段階から本番まで、密着取材することができた。
さらに、本番直後の打ち上げにも呼んでもらえた。そこでの見聞は、現代日本のオペラ制作現場の抱える数々の問題に目を開かせてくれただけでなく、なぜ日本人がオペラをやるのか、という素朴な疑問にも、一つの解答を与えてくれた。
さらに、モーツアルトの音楽が持つ魅力とはなにか、考えるきっかけにもなった。
オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』は、いまだに誤解を招いている作品である。タイトルは文字通り「女はみなこういうもの」で、女性の浅はかさを嘲笑する題名と、男女のふざけた恋愛ゲームの内容が、19世紀以来、不評を買ってきた。しかし、音楽的にも内容的にも、モーツアルトのオペラを代表する作品の一つと再認識されてきて、現代では、四大オペラの一角を占めている。
 今回の岩田演出のコンセプトは、「人間の自由」という4回通しのテーマのもとに、この作品では、タイトルを「女」から「人間」に読み替えるという、ドイツの評論家ヒルデスハイマーの解釈に基づく考え方で作品を捉えなおした、斬新な制作である。その意図を強く打ち出して、ステージ上の字幕にも、あえて「女はみんな」ではなく、「人はみんな」というセルフが使われていた。以下に、そのレポートを書く。

〈演出家・岩田達宗は語る〉
《4回シリーズの通しテーマは「人間の自由」です。テーマの象徴として、4回共通で巨大な羽根を使います。
『コジ・ファン・トゥッテ』の難しさは、スコアの圧倒的な情報量の多さで、オケも難しい。まともな『コジ…』を観たことがありません。歌手がいかにステージで自由になれるか、それまでの稽古と、キャリアの差が出ますが、当日、笑って観ていられたら成功。しまった、と思うことになったら失敗。アバウトさの中で、キャストが自由になれるようにします。糸で縛り付けずにゆるめておいて、自然な盛り上がりを狙います。結果からいうと、今回の『コジ…』は大成功でした。
セットはシンプルなものほど、きちんと組むのに高い技術がいります。しかし、セットや衣装の費用は大したことはない。もっともお金がかかるのは人件費。スタッフやオーケストラ、コーラスです。日本では、GP(直前リハーサル)はオケのためにやるようなもの。ほとんどのオケがオペラを知らないのです。オペラには必ずPA(音響機材)が必要で、様々な機材の出す音を、いかに無音状態にするかの技術が難しい。むしろ全面的にPAに頼るほうが簡単です。照明は、影を消す技術です。ステージの天井が開いていない状態ではそれが難しいから、天井に反響版を組めないので、ステージ奥での歌にはマイクが不可欠です。
日本のオペラで、演出と指揮者が事前に打ち合わせたりはほとんどなく、全て現場の仕事です。歌手とは稽古が長いから頻繁にコンタクトをとれます。ドイツでも、レパートリーシステムで、分業化がすすんでいるので、事前に話し合いはありません。イギリスでは、指揮者と演出家をプロダクションが抱えるので、話し合いの機会が多いです。演出家で、スコアが読めない人は、ほとんどコンセプトの提示のみ、あとは助手がやる。自分はスコアを読み、原語の歌詞を読み、イメージを作っていくタイプです。
もともと芝居の演出出身だが、オペラの演出は、芝居と違って、いろいろハードルが高い。だからやる、ということです。客席後方でお客の反応をみて、たとえ初日がだめでも、次うまくいくように、あいまいにしておきます。》

〈指揮者・山下一史は語る〉
《モーツアルトはアンサンブルが大事です。今回は、オケと歌手がうまく噛み合って、最高の出来でした。天からなにかが降りてきたような感覚を感じました。ずっと稽古をともにして、同じ釜の飯を食ってきた仲間としか実現できないことをやりとげたという感じです。今日(註・2日目の公演)は序曲からがっちりはまって、歌とオケが噛み合って、すごいことになっていった。客席の反応がよくて、ますます相乗効果が出ました。ここのオケは、歌がのってくると、さらに力を出せるところがいい。
『コジ…』は無理に笑わそうとしても駄目で、真面目に取り組んでこそ自然に笑いが生じる作品です。貴族の宮廷で、恋愛が仮面劇だったような時代に、こんな深い作品を書いたモーツアルトのすごさを実感しました。
オペラはお互いに信頼関係がないとできない大人同士の仕事です。このステージを成功させるためにそれぞれがなにをするべきか、考えて行動しています。このオペラハウスでの仕事は、自分のキャリアのうえで大きな意味を持ってます。オケともはじめからしっくりいっていた。ここの常連がもっと増えたら、オペラが普通に楽しめるようになっていくと思います。このオペラハウスは、人の善意でようやくまわっている。今の人材が一人欠けてもだめです。日本で唯一、ちゃんとオペラハウスとしてまわっている貴重さを、世間はわかっていないと思います。。スタッフもはした金で、オペラが好きだから打ち込んでいるんです。時間的制約の大きさ。予算の差。箱のサイズ。問題はたくさんありますが。
指揮者は人間関係の仕事で、それは普通の職場と同じ。でも、何度かミスしておっこちたら、やはりそこを去ることにもなります。他に候補はいくらでもいる、シビアな世界です。『コジ…』をやるのは初めてだけど、ミスしても回りにサポートしてもらえるか、見捨てられるか、人間関係で決まるんです。私はカラヤンの弟子です。オペラでのカラヤンのやり方は、ふわっと自由な空間をつくって、歌手に自由にやらせていました。よく、アクセルとブレーキだけのような指揮者がいますが、それではがんじがらめになる。演出の過剰はあっても、そこは折り合いをつけます。大切なのは音楽そのもので、演出家でも歌手でも指揮者でもない。歌手のアドリブも、行き過ぎると音楽を損ないます。音楽のあるべき姿をつくるために指揮者はコントロールするのです。

〈スタッフたちの語ること、その姿〉

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/