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「もしお前が落ちてたら、”受験も運なんだ”って思うしかねぇよ」

高校3年生の3月上旬、受験期の真っ最中のある日の帰り道、私は自転車を漕ぎながら号泣していた。人通りの少ない田舎道で、日の沈んだ時間帯だったことをいいことに、人目もはばからず号泣していた。泣くつもりなんてなかったんだから、自分でも驚いていたし「なんで泣いてんの」と困惑しながら、号泣していた
色々な感情がごちゃ混ぜになるのも、止められないほど涙が溢れ出てくるのも、初めての経験だった。

それは、前期入試の合格発表の前日。私は念願の第一志望を受験することができたが、それはかなりの”挑戦”ではあった。センター本番がうまくいったこと、部活引退以降に成績が伸びてきたことなどを考慮に入れ高校の先生からは渋々GOサインが出たが、秋頃までの志望校別模試ではいつもD判定かE判定だったような志望校だ。厳しいことは自覚していた。

そう、厳しい受験の結果発表を前に、私は、号泣していた

受験後から合格発表まで

受験を終えた手応えは正直「わかんない…」というところだ。合格発表までの期間、できたような気がする日もあれば、突然「全然ダメだ!絶対落ちた!!!」という発作のような焦りに襲われる瞬間もある。冷静に分析しようと試みても、期待とプレッシャーが邪魔をして、冷静になんてなれない

それでも、出願時から、私の受験が厳しいことはわかっていた。だから後期入試にも出願していた。受験から合格発表までの約2週間、そんな宙ぶらりんな状態でも後期に向けた勉強を続けなきゃいけない。卒業した高校に、毎日通っていた。

卒業式を終え、登校の義務もない同級生。私のように後期入試を控えた生徒がパラパラと各教室にいた。先生に添削をお願いしようと職員室に行くと、合格の報告に来た生徒に会い、電話口で「おめでとう!よかった」と対応する先生の声が聞こえた。時々「そうか…残念だなあ…」という落胆の声と、その後について話し合う声も聞こえてきて、私の胸まで締め付けられた。

私の合格発表はかなり遅い方だったから、周りの生徒たちの結果がほとんど出揃っていった。後期に向けて勉強を続けている人なんて、ほとんどいなくなっていた。

合格発表の前日

合格発表の前日も、高校に行き、添削をしてもらいながら、勉強を続けた。色々な先生が、合格発表のことを気にかけ、それぞれの言葉で、合格を祈ったり願ったり、私を安心させたり励ましたりしてくれた。恵まれてるなあ。私は思った。

その日、仲の良かったAちゃんが学校に来た。実はその前の日も来た。受験が終わり暇だと言う彼女は、たぶん、私の話し相手として、来てくれていた。私はもちろん勉強しなきゃいけない。後期だって倍率は高いし、もう後がないし、勉強しなきゃいけない。それはわかってるけど、宙ぶらりんで集中できない、そんなもどかしい時期の私を見越して、来てくれていた。

「あなたのおかげで私も勉強を頑張れた」彼女が言ってくれた。
結果はわからない。もちろん、受かっててほしいけど、受験だからわからない。でも、志望校目指して必死に勉強してきたのをすっと見てきたから、あなたがちゃんと努力してたことは間違いないんだと。
あとはもう、神様にお願いするしかないよねと2人で笑いながら、少しでも徳を積もうと、教室の掃除をした。

その日、別の友達も来た。仲良くしていたクラスメイトの男子2人が、先生たちに合格の報告をしに来た。そこでも、私の合格発表を気にかけてくれながら、色々な話をした。そして、言ってくれた。

「絶対大丈夫だって。
もし、もしお前が落ちてたら、”受験も運なんだ”って思うしかねぇよ」
「誰も、お前の努力が足りなかったとか思わねぇよ、思えねぇ」

帰りの電車で、Aちゃんから「受かってますように、(大学の掲示板に発表を見に行く私に)気をつけてね」という趣旨のLINEがきていた。そして、彼女の一言欄が「神様、お願いします」になっていた。

それを見た瞬間だった。私の頭の中には、その日学校で先生・友人から掛けてもらったたくさんの言葉が、目まぐるしく浮かんできた。

私の近くで、私の姿勢を見てた友人が、私の努力を認めてくれたんだ。
志望校に見合う努力をしてきたと、認めてくれたんだ。
だとしたら、それでもう十分なんじゃないか。
私は、すごくすごく、幸せな気持ちになった。

ごちゃ混ぜの感情

ここまでの過程を、たくさんの周りの人が認めてくれた。嬉しい
みんな、”きっと大丈夫”と、期待して応援してくれた。応えたい
でも期待に応えられなかったらどうしよう。怖い
これだけやってきたんだから大丈夫。安心
いやそうは言っても手応えも微妙だ。緊張

本当にもう、思考は行ったり来たりを繰り返しながら、あらゆる感情がわきあがってくる。そのうちの何が、号泣の直接的な原因かはわからないけど、とにかくもう、涙が止まらなかった。

わけのわからない感情の中で、1つの奇妙な考えを自分の中に発見した。
もちろん受かりたい、でも、もしダメでも、もう満足かもしれない
高校3年間をかけて受験勉強に取り組んできて合格発表を前にする受験生が思うことじゃない。意味わかんない。
でも、周りから努力を認められることには、そう思えるだけの力があった。

受験を通して学んだこと

気になる結果ですが…見事に落ちてます。私。なんとなく落ちる予感がしてたからこそ、みんなの言葉が心に響いたのかもしれない、とも思う。

もちろん、実際に落ちたらやっぱり悔しかったし、反省すべき点も浮かんでくるし、結果に満足なんてできない。
だけど、「全然ダメだ」とか「全て無駄だったんだ」とか、虚無感には襲われなかった。どこか達成感があった。(後期で第二志望に合格できたことも多少は影響してると思うけど)

そして、冷静に受験のことを振り返ることができた。
その中で出した私の結論。

「努力は、広い意味では、必ず報われる」

それまで、「努力は必ず報われる」は、勉強には当てはまると思っていた。スポーツや芸術などの分野では、そんなことないとわかっていた。努力が必ず結果に繋がるわけないと、わかっていた。才能の大きさを実感しやすいから。努力したって私はオリンピックに出れない。
そんなことわかった上で、楽しいから取り組むし、人と比べて結果は出なくても、自分の中での成長を目標にしてきた。

一方で、勉強は1番努力が結果に繋がりやすい分野だった。だから、努力すれば必ず志望校には合格できると思っていたし、もっと言えば、「合格しなきゃ(どんなに努力したって)意味がない」とまで思っていた。スポーツでは「努力した過程に価値がある」と思えていたのに、受験では、それは甘えだと感じていた。

でも、今回でわかった。受験だって、必ずしも結果に繋がるわけではない。努力の質と量なんて他人と比べられないけど、もし比べられたら、確かに私よりも努力してない合格者だってきっといる。
幼い私には理不尽にも思えたけど、それが現実。受け入れるしかない。

でも、努力の”報われ方”を広げて考えてみればどうだろう。
私は、志望校に合格するための過程で、「適切な目標を立てる力」「目標と現実のギャップを調べ、それを埋めるための計画を立てる力」「弱い心に負けずに実行する工夫」「時間のない中で効率を上げる工夫」などなど、試行錯誤の末に様々なものを得てきた。
これは、受験の結果がどうであれ、失われるものではない。確実に、私の能力になっている。努力は、報われている

こんな風に考えられるようになったのも、私の努力を認めてくれたみんながいたからだ。みんなの言葉があったから、前を向けたし、清々しい気持ちで後ろを振り返ることができた。


君(たち)のことばに救われた。今でも鮮明に覚えてるよ。
本当にありがとう。
(もしこれを読んでて私のことだとわかったら、連絡ちょうだいね!笑)

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