妄想キッチン

アップルパイができるまで                      

 まず、リンゴを煮ます。アップルパイですからね。煮るのは酸味の強い紅玉です。この黒味がかった紅色の果物はリンゴ組曲の序曲です。後に続く宝石箱をひっくり返したような多彩なリンゴの行進の、先触れ、露払い。まだ夏の残り香が漂うような秋の日に、果物やの店先にふいに現れる宝石。紅玉はそんなリンゴです。それを家に迎え、皮をはぎ、実を切り離してバターと砂糖で煮るのです。溶けたバターと焦げた砂糖の匂いが、バラ科の植物だけに許された清冽な香気と絡み合い、満ちていきます。鍋、部屋、鼻腔、そして記憶の中に。

 「わあ。幸せの匂いだね」。ドアを開けてすぐ、その人は言う。そう。リ ンゴをバターと砂糖で煮ると、幸せの匂いが生まれる。かぐわしく甘く、そ の奥からスパイスとしてのかすかな酸味と苦みが顔をのぞかせる幸せ。記憶のあの部屋にそれは満ちている。
その人は、だけど、最後に会った時にはムーミンのような体躯を持て余し、左右の太ももがけん制し合ってよちよちとアヒルのように歩いていた。そう。幸せは高カロリーなのだ。愛を甘い毒と言った人がいる。よく言ったものだ。

 さて、こうしてフィリングは完成です。ああ、フィリングとはパイの中身のことを言います。Fill、つまり満ちるもの、という意味ですから、アップルパイの中身がすべてを幸せの匂いに満たして窒息させるのは当然のことです。余談ですが、フィリングと横文字で書くとカッコいいですが、つまりは饅頭や餃子でいうところの「餡」ですね。この「餡」という言葉、何かに包まれている中身のことを意味するので「悪だくみ」、という意味でも使われます。「腹に一物」的な語感でしょうか。そう思うと、体の中に詰まっている内臓もフィリング、餡といっていいのでしょう。そう、餡はおいしいのです。隠され満ちているものだからこそ、それを暴きむさぼる喜びは格別なのです。
 
 集まったジープから発せられる光の中で、饗宴はたけなわを迎える。幾多のライオンが黒々とした屍に群がっている。捕食者の動きに操られ、生命の抜け落ちた四肢が宙を掻く。「あれはバッファローです」。運転席でナイトサファリのガイドが言う。ライオンたちが一様にその頭を潜り込ませているのは、バッファローの腹だ。私たちなら真っ先に求めるであろうモモ肉や肩ロースやカルビなどには目もくれない。皆我先に内臓を食らっている。血の匂いよりも食い破られた腸(はらわた)から発する内容物の匂いが、死者の悲鳴になってアフリカの夜に鳴り響く。餡の中の餡。バッファローの腸のフィリングが原初の大気に満ちていく。やがて満ち足りたライオンたちは血と体液に染まる顔を投光器の中にちらりと見せて、闇に消える。放置された肉はハイエナや明日には集まるであろう鳥たちへの下賜物だ。王者は餡しか食さない。フィリングは王様の食べ物だ。

 お次はパイ生地です。これは重要なキャラです。パイ生地がなくてはフィリングはただのジャムの出来損ないです。餡を王者たらしめるのがこのパイ生地です。ああ、でも大腸の中身は腸がなくてもウンk…、おっと。とにかくとても重要であるわけです。
 まずは水で練った小麦粉でバターを包みます。小麦粉という白い粉はとても面白いブツです。粉物はどれも、加える液体の量でフェーズ(相)を変えます。サラサラ粉相、ポロポロだま相、ボヨンボヨン団子相、ドロドロ泥相というのが粉界の一般コースですが、小麦粉はちょっと違います。団子相と泥相の間に、びよーんと伸びる独特の相があるのです。これを私はノビール相と呼んでいます。ぶっちゃけグルテンの作用なのですがね。このノビール相は弾力、粘力、張力、といった様々な力場を内包し、他に類を見ない可塑性を生み出します。
 私思うのですが、天地創造で土をこねて神が人を作る、という発想は小麦文化ならではのものではないでしょうか。米粉ですと団子にはできますが、目鼻、手足、指や爪などの造作は難しい。それでも人間をつくろうとすると、雪だるまにしかなりません。やはり繊細な造作は小麦粉にかなうものはありません。米界の神様が人間を作っていたら、さぞかし串刺し団子きょうだいのような姿だったことでしょう。まあ、それに近い体型の人はけっこういますが。あ、私の腹を見てますね。そうです、私は米界で作られた、ちょっと残念な方の人間なのです。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、この世界には小麦界と米界の人間が共存しています。造作的にはそうですね、米人間の方が劣っていることは認めましょう。

  あ、失敗しちゃった、テヘ。彼女は言う。
 しょうがないな。君はせっかちなんだよ。彼が言う。
 失敗作は、小舟に乗せて海に流しちゃおうぜ。
 流したら、この子はどうなるの?葦船なんて、すぐに水漏れしてやばそうだけど。
 うーん。運が良けりゃ沈む前にどっかに着くんでね?知らんけど。
 そっか。それならいっか。ばいばーい。
 さあ、作り直しだ!今度は慎重にいこうぜ。

 バターを包んだら、それをフェイスタオル大にのします。どんなに伸ばしても、ノビール相の小麦の膜は破れません。内側にバターを隠したまま、「ただの小麦の塊です、それが何か?」っていう顔をしています。そいつを今度は小さく折りたたみます。それからまたフェイスタオル大に熨すのです。ノビール相のおかげでどんなにのしても小麦の膜は破れません。びよーんと伸びて、中のバターも一緒にびよーんと伸びます。伸びて折られてまた伸びて、薄い膜になって幾重にも重なっていくのです。
 ゲロしちまえよ、楽になるぜ、と自白を迫る刑事ばりに折っては熨すを繰り返すのですが、どんなに責めても小麦の膜は破れません。最後までバターを守り切るのです。あっぱれなやつです。これがパイ生地です。王者を守るにふさわしい性質を生まれながらにしてその身に宿しているのです。この小麦粉の自己犠牲。熨され折られ薄い膜に身をやつしても、国を失い唯一生き残った姫を守りきる美しき近衛兵のごとく。
 パイ生地の作り方に、バターを細かく刻んで小麦粉を混ぜて伸ばすだけの、お手軽お気楽アメリカ方式というのがありますが、なんであんなおもしろくない方法をやりたがるのか、私には理解しかねます。この自己犠牲のドラマがアメリカ方式にはないのです。あれはだめだわ。パイ生地作りの醍醐味を捨てた邪教だわ。菓子作りにはドラマが必要です。
 まあ、ものすごくめんどくさいときはその方式でやっちゃいますけどね、私も。
 さて。あとは、この忠実なパイ生地で城を作り、その中を王者のフィリングで満たして焼くだけです。
 
これは、秋の初めに出回るりんご
これは、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリング
これは、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリングで満たすためにこねられた小麦粉
これは、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリングで満たすためにこねられた小麦粉で包まれたバター
これは、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリングで満たすためにこねられた小麦粉で包まれたバターと一緒にのされた生地
これは、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリングで満たすためにこねられた小麦粉で包まれたバターと一緒にのされた生地を折ってまたのされた生地
これは、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリングで満たすためにこねられた小麦粉で包まれたバターと一緒にのされた生地を折ってまたのされた生地を折って(以下略)のパイ生地
 これは、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリングで満たすためにこねられた小麦粉で包まれたバターと一緒にのされた生地を折ってまたのされた生地を折って(以下略)のパイ生地の中に、秋の初めに出回るリンゴを砂糖とバターで煮たフィリングを満たして焼いたパイ
 
パイづくりは、思考も重なって層になる不思議で楽しい作業です。アップルパイって、こんな食べ物なのです。
さあ、焼きあがりました。ではいただきましょう。                               (おわり)
 

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