高校世界史復習 トルキスタン パート4 靖康の変
・宋は、藩鎖や武断主義の風潮を抑え込むために、皇帝を中心とする中央集権的な体制の構築に努めた
→ここで言う中央集権的により…辺境の軍を削減し、中央の禁軍の強化を目指したので辺境民族の圧迫を受けた。
また、官僚を出した家は官戸と呼ばれ、税制などで優遇された。また、この製作には勉強する金と時間のある形勢戸(新興地主)が多く参加し、儒学や詩文の修養を積んだ知識人(士大夫)となった。
・宋は、茶の専売制で両税法による税収を補った。
両税法とは…持っている土地は資産に応じて徴税する中国の徴税制度
→しかし軍の経費や、澶淵の盟のせいで、税制が切迫
→神宗皇帝の信任を得た王安石は新法という財政再建策を行った。
・新法の内容
①青苗法…貧農への金銭や穀物などの低利貸し出し
②均輸法…物流の円滑化と物価安定策
③市易法…中小商人への低利貸し出し
④保甲法…民法及び治安維持のための農村組織
⑤募役法…力役の代わりに免役銭を出させる。希望者は雇用する
・司馬光を中心とする旧法党が新法に反発し、新法党と長く抗争
司馬光は『資治通鑑』を書いた
・なぜ司馬光を始め、多くの官僚が新方に反抗したのか?
A.新方が地主や大商人を抑えて政府の収入増加を図るものだったため。
・12世紀に遼を滅ぼした金は宋とも対立
→1126年 華北一帯を制圧して、上皇の徽宗や皇帝の欽宗を捕らえ宋を滅ぼす。=靖康の変
徽宗→芸術の才はあるが政治が下手。金が来る直前に皇帝を引退し、すべての責任を欽宗に押し付けた。
欽宗→来そうに責任を押し付けられた上に、金に捕まる
・欽宗の弟の高宗は、中国の南側である江南に逃れて帝位につき、臨安を都に南宋を建てた。
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