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リモートワークとマグカップ

コロナ禍において、フルリモート生活になった友人知人、編集さん達に何度か聞かれた事がある。「先生方はどうやってストレスを溜めない生活を送っているんですか?」と。なんでも皆さん、話し相手がいないので、病みそうになるのだとか。

私を含め周りの同業多種の顔を浮かべると、元々インドア派で一人で作業をするのが苦ではない先生方や、私のように定期的に外に出て憂さ晴らししている先生方の顔が浮かぶ。

それでも作家業というのは孤独な作業である。一人で黙々とPCに向き合っている時間がほとんどだ。

色々考えてみたが、私の場合、マグカップだった。

マグカップは毎日使う。常に使う。今は珈琲絶ちをして、作業中は白湯を飲んでいるが、それでも毎日使うのだ。

なので私は、マグカップの値段だけは妥協しないようにしている。常にほしい物、良いと思った物を買っている。お気に入りのマグカップをキーボードの隣に置いて、お気に入りの豆の匂いや茶葉の香り(今は白湯だけど)につつまれながらする執筆作業とは、実に優雅な時間である(※〆切前は別として)

それと+して、主婦になってから私は皿や鍋にお金を使うようになった。独身時代は食器類に全く興味がなく、100均やコンビニのくじや某パン祭のプレートを使いまわしていた女だったのだが、ある日、唐突に目覚めたのだ。

というのも独身時代に比べて、料理をする頻度が高くなったからだろう。毎日料理を作って、お皿に盛り付けて、お皿を洗っていると、柄やブランド、ジャンルが不揃いの食器に違和感を感じるようになった。違和感はすぐにストレスに変化した。

夕飯のレシピを検索していると、嫌でも趣味の良い食器に盛り付けられたプロ顔負けの料理ブログが目に入る。その直後に、我が家の統一性のない食器に適当に盛り付けられた夕飯を見ると、とてもげんなりした。

和食なら和食器に盛り付けたいし、なんなら小鉢も欲しい。薬味用の小皿もあった方が素敵じゃない? パスタならパスタ専用皿の方が映えるし、それなら付け合わせのサラダやスープのお皿もお揃いで揃えたい。せっかくならチーズをのせるカッティングボードもほしいし、カトラリーやランチョマットも併せたい。

元々コレクター気質があり、凝り性の私がその辺りを収集しはじめるまで、さほど時間はかからなかった。

一通り揃えれば満足すると思いきや、そうでもなかった。ブランド、ノンブランド問わず常に新作は出てくる。良い食器はポコポコ出てくる。沼だ。ここは沼の底なのだという事に気付いた。

そして、どんなお気に入りの食器でもいつか必ず飽きが来るのだ。

それから私は、なるべく柄物ではない、白地の食器にしか手を出さないようになった。理由は長らく飽きが来ないからだ。柄物や色付きの食器はかなり早い段階で飽きが来る。飽きが来るとその存在が目につく度、ストレスを感じるようになる。そして、家事という繰り返しても繰り返しても延々と続く、終わらない作業のストレスを加速させる。

そしてふと、昔、私の誕生日に必ずマグカップをくれる友達がいた事を思い出した。その子がくれるマグカップは、一か月も経たずに必ず割れてしまう。いつも母が割ってしまうのだ。「ごめんねえ、手が滑って」という母の顏はいつも笑顔で、しかも妙に清々しい笑顔で、幼心に「わざと割ったんだろうな…」という事には気付いていた。何故なら他のお皿やカップは数年に一度しか割れないからだ。母が故意的に割っているのは間違いなかった。その頃、私と母の仲は険悪だったので、私に対する嫌がらせだと思っていたが、食器を洗って貰っている手前、何も言えなかった。そのカップを使った時は、なるべく自分で洗うようにしても駄目だった。帰宅後、悪びれもしない表情の母に「ごめん、割れちゃった☆」と言われ、今年も駄目だったか…と肩を落とした。「割れてしまった」と正直に告げると、翌年もマグカップを買って誕生日をお祝いしてくれる友人にも申し訳なかった。

しかし、なんでこんな事をするんだろう…? という疑問は常にあった。

その理由が主婦になって分かった。あの子のくれたマグカップが、母にとっては食器棚に置いてあるのも許せないくらいストレスだったのだろう。

その子はいわゆる原宿系のファッションをこよなく愛する子で、レインボー柄の靴下を穿いたり、遊牧民のようなターバンを頭に巻いたり、友人の私からしても良く分からないファッションをしていた。当然、その子のくれるマグカップも良く分からない柄なのだ。サイケ系とでもいうのか。それでも私は数少ない友人がくれた誕生日プレゼントを嬉しく思い使っていたのだが、シンプルイズベストをこよなく愛する母にとって、彼女のくれたマグカップはとてもストレスの溜まる存在だったというのは想像に難くない。

そのマグカップは、割っても割っても毎年やってくるのだ。母にとっては、さぞかしストレスだっただろう。

恐らく娘に対して「気付けよ」「もう貰ってくんな」というメッセージも暗に含まれていたのだと思う。

今の私には母の気持ちが分かるのだ(彼女の事を許せるかどうかは別として)

というのも、私も食器に凝りだすようになってから、夫が独身時代から使っていた食器や、娘が幼稚園の行事で貰ってきたプラスチックの食器にストレスを感じはじめるようになったからだ。ブランドや柄を揃え、統一感を出した食器棚で悪目立ちしているそれらに感じる感情は、決して綺麗な物ではない。

でも、私は、母と同じになりたくない。その一心で、今日もそれらを可能な限り見ないようにしてやり過ごす(あまり開けない棚にしまうとか、自分からは極力その皿に盛りつけないとか、可能な限り裸眼で過ごすなど、やりようはあるのだ)

最近思うのは、私は同居なんてしたらストレスで発狂しているタイプの嫁なんだろうなって事。キッチンとは主婦にとって聖域である。そこに義両親の物があったら? お気に入りの物で埋め尽くした食器棚を浸食されていったら? 想像するだけでキツイものがある。義両親に良い感情を持ってたら別なのかな。分からないや。私なら義両親に好意的な感情を持っていても嫌いになってしまいそうだ。キッチン関連は、愛する家族ですらしんどいものがある。二世帯住宅をするにあたって、キッチン風呂別住宅がマストという理由がここに来て分かった。

私が外で働く職業に就いていて、あまり家にいない人間だったらまた違ったのかもしれない。現に、家にはほぼ寝に帰っているような独身時代はそうだった。だが、自宅勤務で24時間家にいると、それらに触れる時間が必然的に長くなる。勿論、家具やソファー、クッション、カーテン、PCやプリンターなども。

タイトルに戻るが、コロナ禍において。そして物書きを続けるにあたって。お気に入りの物に囲まれながら執筆するのが、私なりの楽しく毎日を過ごすコツなのである。おわり。



サポしていただけると執筆のお供がワンランク上のインスタント珈琲になって、私が喜びます。