がんになって分かったこと@ハートネットTV

ある夜、酒を呑みながらなんとなくボーと観ていて、ちょっとまてよ、しっかり観るべきだったかなぁと再放送の予定を調べて録画して観直したのがNHKのハートネットTVってのの「がんになって分かったこと〜写真家 幡野広志 35歳〜」である。

ガンでの余命宣告をうけて死と真正面から対峙し思索のプロセスが映し出される。
まあ、ガンへの対峙と死生への思索は本人の課題だろうからとやかく言うこともないし、どうやら当該の幡野さんもとやかく言うな、と言っているように見えた。他者がとやかく言ってきたり、当該の意志が無視されることに物申すという感じ。

とはいえ、完全に本人だけの問題かといえばそうではなく、親しい他者は関わりをもってくるし、そも人間は一人ではないのだ。
そんななか、特に余命宣告をうけて弱っちゃっている本人になって(はじめて)気づいた他者からの言葉について言及していたので、メモしておきたい。

たとえば、こうしてテレビに出ているのを観て、「家で静かにすごしたほうがいいのではないか?」と言ってくる他者には、弱者をコントロールしているように感じるし、「1分1秒でも長生きしてほしい」とか「同じタイミングで複数の他者から同じ「お守り」が届く」ことなんかは、自分が悲しみたくないための利己的態度にみえる、と言う。
「今度の抗がん剤は効くといいですね」っていう何気ない一言にも当人は違和感を覚える。効かなかったときのショックは自分だけが感じるのであって、軽々しいと感じるのか?。
また、「死んじゃだめだよ」という正論も確かに正論なのだが、たまんないようなぁ、と感じる。(ある意味当然で、自分の意志や努力でなんとかなるなら死なずに生きる、、と感じるだろう)
これらは自らが当該になって他者から言われて、こう感じたという事実で言葉をかける側の意志や気持ちとの差異は問題にしない。

当該になれば嫌でも考えざる得ないのだろうが、当該になってしまい、本音を発信してくれる。発信の対象であろうボクはちゃんと受け止めて考えようと思う。安易な励ましや気遣いの言葉、何気ない希望の言葉がどう受け止められるかを。
もちろん、同じ立場にある全ての当該の意見ではないかもしれない。
励ましや希望の言葉で力をもらう当該もいるかもしれない。本音はちがっていても、励ましを善意にうけとめ自分を抑え込む人がいるかもしれない。このTVの当該は、言葉をもらうことはありという前提で、敢えてその奥にある本音を伝えようとしたのではないか。
ただ思索のプロセスであり、死ぬまでのプロセス(変化)のなかで、「今」の本音なのかもしれない。ただ、今、彼がこう感じていることは事実であり、それを聴く聴かないもボクの態度の事実である。

傾聴者としては「安易な言葉がけ」の違和感、「正論にはちがいないが」のやるせなさのさらに奥にあるものを受け止めたい、と思う。
やはり「ただ聴くこと」なのだよな、と、またしても感じたわけだ。
伝えることを怠らなかった幡野さんには感謝。


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