心地よさの実感

若干、中毒かもしれない。
依存症ではないと思うのだが。
傾聴である。
いつしか傾聴が心地よくなってしまった。
はて、他者の苦悩を聴くのが心地よい?
ちょっとマズイかな、笑
いや嘘だ。マズくなんかないさ。
聴き手のなかにはシンドいという人は多い。
そりゃそうだ、社会的にうまくいってない人の話を聴くのだもの。
社会人を熟している聴き手にとってはシンドくもなるだろう。
なにをウダウダとツマラぬことに悩んでいるの、ってなもんだ。
それなのに聴き手として話し手の気持ちを汲み話を聴かなければならない、となる。
愚痴もありゃ、弱音もある、泣き言もありゃ、怒りもある。
話し手は素の感情がダダ漏れる(これも聴き手によるが、、^^;)。
そりゃまともに処世できる聴き手にはシンドいだろう。
じれったくもあり、イライラもするかもしれない。
アドバイスもせず、我慢して聴くことが楽なわけがない。
じゃ、聴き手自身も社会的にうまくいってなけりゃ共感して楽か、といえばそれも疑問だ。
その共感は、なんとなく負のスパイラルを感じる。
精神的な共倒れ、傷の舐めあい、ヤバイよヤバイよ。
疎外の確認をしあっても双方によくないだろう。
社会に順応してようが、社会に疎外されていようが、社会的目線であればシンドくなるに違いない。
そして多くは社会的な目線が身についている。
だからシンドいとなる。
たとえば「不倫をやめられない」と話す人がいるとする。
傾聴者じゃなければジャッジしてアドバイスをするだろう。
おそらく「いけないことだし悲惨な結果になるのでやめときなよ」と。
下手したら社会人がアイデンティティである傾聴者も同様にいうかもしれない。
傾聴者としては「やめられないんですね」と共感の言葉が正解。
だけど社会アイデンティティの傾聴者は、どうやってやめさせようか考えながら共感の言葉を言う。
おそらくろくな結果にならない、と言ってしまうかもしれない。
法律的に絶対的に不利であり、生活に支障をきたすから辞めたほうがいい!
モラルにも反していて、世間の目も厳しくなる、から辞めるべきだ!
そのアドバイスは社会人としては正解である。
そんなこと話し手も解っているのに何故「不倫をやめられない」んだ。
イライラする、シンドい、となるだろう。
ところが「感情」に従うならば、「いけない」ことでも「別れなければならない」でもない。
実際に感情が理性(法律・モラル)に勝っているから別れられないのである。
それが実情であり、素なのだ。
ボクのようなアンチ社会人はウキウキと感情に寄り添う。
社会(法律・モラル)なんぞに添えない話し手の「気持ち」が解る。
だから、聴き手としてのボクはシンドくならない。
シンドくならないどころか、その「気持ち」よく解ります、となる。
もちろん、どちらがいいなんてジャッジもしないし、アドバイスもしない。
どうしたらいいかと、何度きかれても、「難しい問題ですねぇ」くらいしか言わない。
純粋な感情にしたがい社会的アイデンティティを崩していくのもよし、
理性的に法律やモラルにしたがい、感情を殺して社会人に戻るのもよし、、
いっそ社会人やめちゃえば楽になれるのに、、、、でも、別の社会的圧力がくるけどね、そこもぶっとばしちゃえぇ、と無責任にはいわない。
いずれにしろ、選択肢は言わずに聴いている。
まあ、そうして聴いていると、話し手はなんとなくの結論にたどりつく。
すると社会人(法律)か素の感情かという二者択一ではないく、中庸という在りかたに気づく。
なんともならないものは仕方ないという受容といってもいいかもしれない。
話す前は追い詰められている、視野も狭くなり二択の判断しかないような思いになるのかもしれない。話していくうちに具体的などちらかを選ぶしかなくても、気持ち的に中庸であればいいのかなぁ、とかなり楽になるようだ。(不倫の中庸ってなんだよぉ、と聞くことなかれ。渦中の人は、自分でたどり着いてください。笑)

もっとも結論がまったくなくても、話しているだけで楽になっているように感じる。
たとえ反社会的な感情でも肯定して聴かれるのだから楽になるし、自らの在るを感じるだろう。
自ら在るを感じれば安心する。
理性でなく反社会的であろうと、素の感情をそのまま聴けるのはボクにとっても心地よいのだ。
というか、ようやく心地よくなってきた。
聴く度に、長年にわたりボクにつきまとってきた社会性が剥がされていく。
自ら剥がすことがなかなか厄介なペルソナが、「ただ聴くことによって」話し手の言葉で剥がされていく。
自らの素が顕になり、自分が確認されていく。
素の自分が在る。
そう感じるのは正直、心地よい。
だから傾聴は楽しいのだ。


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