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おじいちゃんが 海外の面白さを教えてくれた🌎

母方の祖父・・・おじいちゃんは、明治生まれ。
建築家。広島出身だけど、江戸っ子の祖母の夫(養子)になった。

1923年9月1日に、関東大震災で 東京が焼け野原になった後、
「大震災、火事で燃えてしまった 今までの木造平屋家屋は、
 今後(当時)東京、近郊の人口が増えていくと、現実的ではない。

 西欧(当時の英国、独)へ行って、鉄筋の入った
 頑丈な建物、それも平屋ではなく 多層階住宅の勉強してきてくれないか?」 

 おじいちゃんは、当時の厚生省(現 厚労省)、建築部門に勤めていた。
当時は旅客機(飛行機✈)が まだ使えず(→ 信じられないけど ^^;)
日本円も海外と渡り合えるような通貨じゃなかったそうで、

「金貨✨」を持って、「船」で ドイツ、英国 どちらが先かわからないけれど、とにかく 夏目漱石とか 森鴎外の小説に出てくるような「洋行」をして、合わせて5年近く ヨーロッパで勉強したらしい。


おじいちゃんの ひざの上で・・・

母方のおじいちゃんと 犬が大好きだった おばあちゃん。膝の上にいる どらみ

さすがに0歳~2歳くらいまで、自分がどこにいたか? という記憶はないんだけれど、

生まれた直後は小さな都内の賃貸アパートで暮らし、その後、祖父母の家(母の実家)で 私が1歳の誕生日迎える頃まで 一緒に暮らしていたらしい。

都内に小さな建売住宅を入手した 私の両親が、祖父母の家を離れて暮らし始めても、幼いころは、父方、母方のおじいちゃん、おばあちゃんの家に行って、いとこたちと遊んだり・・・。

他のいとこたちがいなくて、私だけの時、おじいちゃんが、自分の書斎に入れてくれ、椅子に座り、私を膝の上に乗せて、当時珍しかった「TIME」や「LIFE」といった英語の雑誌を広げ、写真を見せてくれた。

イタリアという国は・・・

当時、まったく知らなかった 世界地図や地球儀(3歳頃)、
雑誌の中の地図や 国別特集など カラー写真も出ていて
モノクロが当たり前だった時、それだけでも 幼心、 ときめいた。

イタリアの出ている地図を指さしながら、

「ほら、この国は イタリア、っていうんだけど、

 形が なんとなく 長靴に似ているでしょ?

この国は、革の靴や 革のカバン・・・とても良いものを作るんだよ。」

そんな話を聞き、まだ東京でも 数が少なかった「車」についても、

いろいろな外国の車を教えてくれ、新しもの好きの父が運転していた

今からみたら めちゃショボイけど、国産車に乗りながら、窓の外をみて
 外国車をみつけると あれは〇〇・・・と ウキウキ。

私が海外の魅力にとりつかれたのは、まちがいなく このおじいちゃんの影響なのだ。


本人が望んでいるなら
行かせてやりなさい・・・

学校では、幼稚園から始めた 私のピアノも、そう目立たなかった。
女子校で、ピアノやバレエ、お習字など 習い事をしている友人が多く、
ピアノ、私より上手な友達も たくさんいて、
そんなに目立つ子どもではなく・・・口数少ない、と書くと 誰も信じてくれないだろうな~(笑)

10歳(小4)の秋、小学校で ある「紙」が配られた。
私立小で、毎年 応募→選抜試験→ 派遣先へ5年生か6年生(夏休み7月、8月の時点で 11歳、というのが最大の応募条件)が約1か月 海外の同い年の子どもたちと過ごす、寝起きを共にする C.I.S.V. (国際 子ども夏の村)の応募用紙だった。(注:CISVは第二次大戦後、USAの女性心理学者が提唱して始まった、子どもの時から世界の同世代と寝食共にし、成長しながら
平和な世界を目指してほしい、という意図で運営している世界規模の組織)

うちの学校でも、応募して、派遣先から戻った先輩が 1年おきくらいに
二学期が始まったばかりの全校朝礼の時、先生に紹介されて
海外生活の「帰国報告」を 皆の前で スタンドマイク使ってしている姿を見ていた。
(中には、日本チームに決まり、日本のどこかで、海外のチームを迎える側に・・という場合もある。派遣先は 協会が決めるので、自分で選べないシステム。どうしてもいやならば、棄権して、試験時の補欠メンバーが打診される。)

紙が配られて、CISV の応募用紙、とわかると

なぜか 心の中で「外国へ行きたい!」と 声がした。

家に帰って、ランドセルの中から「紙」を取り出し、
その応募用紙を見ながら、
私は 外国行ってみたい・・・両親に 正直な気持ちを伝えた。

時は 1967年。日本は いわゆる「高度経済成長時代」のただ中だった。

父も 戦後、焼け野原の東京の一角で、大学研究室の仲間、先輩たちと始めた会社が少しずつ大きくなり、新たな知見を求めて、1か月単位の長い
海外出張も すでに何回か経験していた。

父は 行かせてやりたいと思ってくれたようだが・・・

母は 経済面を心配していた。

もし 応募→選考(面接、心理士による試験)を通過すると
派遣代表児童の一員になる。
誇らしい一面、
現地での滞在費用は すべて協会もちだが、
日本から渡航先までの費用、前後に許されている10日間以内の小旅行、その他、男女各2名+リーダー(英語堪能な大人)で誂えるチームの制服、日本チームとして 現地で着る浴衣や着物(絹ではないが)など・・かなり費用がかさみそう。 

母の心配は ごもっとも。 しかも 当時は まだ 1USドル=360円 という 固定為替レートの時代で、国外持ち出し額も 制限があった。

子どもが 海外に行く、というのは、 とてつもなく贅沢なことに思えただろうし、実際 その通りだったと思う。

そんな時、母の父(おじいちゃん)が、思わぬ言葉を発してくれた。

もし 選抜試験に通って、本人が行きたいというなら、

行かせてやりなさい。経済的なことは心配しないで。

11歳の夏に海外で 同い年の世界各国の子どもたちと
1か月過ごす。 それは貴重な経験だよ。 

在りし日の祖父と どらみ 可愛がってもらっていたな。感謝


おじいちゃんの「愛」が 背中を押してくれた

応募→選考試験は 10歳(4年生)の晩秋から12月初めだった。
いわゆる 入試のような試験ではなく、共同生活できるかどうか?
積極的に他の子どもたちとかかわれるか? そんな観点で
心理士さんたちが 用意した「課題」は・・・

まったく予想していなかったけれど、1グループ5~6名、男女混合で振り分けられ、その初めまして・・の仲間たちと その場で出された「お題」に沿った 「即興劇」を作って 演じるというもの。

台本も 決められた台詞もない。 

私たちのグループは たしか「家族でピクニック」 みたいなお題だったと思うけれど、

男女バランスもさまざまで、架空の行先決めたり、配役、
即興のせりふ・・・・何もかも 与えられた20分くらいの時間で
準備 → 先生たちの前で 何とか劇っぽいものを したけれど、
今となっては はっきり覚えていない。 

で、即興劇の後は、グループ面接。3人ずつ 面接官のいる部屋で

自己紹介から・・好きな食べ物を聞かれて、ほかの男子、女子が

「お肉」 と答えていたので、(内心、違うことを言おう・・だけ決めて → 単純な子どもの発想 笑)

「魚が好きです」と答えたのは 覚えている。

で・・・結論 → なんだか 通過しちゃって

1968年 夏、スウェーデンチームに配属、派遣が決まっちゃった! びっくり!

1968年 7月~8月半ば Sweden Halmstad にて、CISV 国際こども夏の村に参加(11歳)



おじいちゃん、ありがとう!

おじいちゃんは、私の派遣が決まったことを知り、
本当に 心から喜んでくれた。

68年 年が明けるとすぐ、男女2人ずつ、+ 私たちには女性リーダーがついて、スウェーデンチーム(ハルムスタッド)の顔合わせから、

現地の「日本のゆうべ」で披露する、かんたんな日本の歌を

みんなと一緒に歌うには?

浴衣を着て 「花笠音頭」を全員で輪になって踊る練習、

女子ふたりは、別途 「さくらさくら🌸」を

扇を持って 踊ることになり、月に1~2度は、母の知り合い、
日本舞踊の先生宅へうかがって 日舞のお稽古。


日本の🌸桜は 昔も今も大人気。近年、写真(レフ📸)は私が凝っている趣味のひとつ



子どもだけど フォーク、ナイフ、スプーンの使い方、
レストランで テーブルマナーの練習も。

はじめてのことが続いたけれど、学校外での こういう活動は
私には楽しく、帰りが遅くなったりしても 苦にならなかった。
(母は 父や妹、犬も飼っていたから、とても大変だったと思うけれど)

その夏、日本の学校が 夏休みに入る1週間前、私は

C.I.S.V. (国際こども夏の村) その年の派遣児童、スウェーデンチームの一員として 羽田空港にいた。


学校から推薦もいただいて選抜試験に臨んだので、

学校代表でもあり、

担任、教頭先生も 羽田空港(成田は まだない ^^;) まで

来てくださり、夜便、JALの DC8(ジャンボジェットも まだない^^;) で、暗闇の中、給油で立ち寄る アラスカ、アンカレッジ空港めざして初めての飛行機、初めての海外へ飛び立った。

当時も(今と全く状況異なるが)旧ソ連上空は飛行できず、アラスカで給油後は、「北極経由」で 一路 デンマーク コペンハーゲンへ。

アラスカは飛行機から 降りたけれど、空港外へは出ていないので、最初に 外国の地に 降り立ったのは、コペンハーゲンだった。



以後、ヘルシンキ(リーダー友人の家)ーコペンハーゲン戻りー列車ごと乗れるフェリーも使い、スウェーデン南西部にある Halmstad へ。



ここで スウェーデン、デンマーク、フランス、英国、ベルギー、オランダ、オーストリア、メキシコ、コスタ・リカ、日本の10チームと、リーダー、11歳の子どもたちの つなぎ役、17歳のジュニア・カウンセラーという英語のできるお兄さん、お姉さんが フィンランド、USA,スウェーデン、デンマークから参加。現地で開催側のスウェーデンスタッフたちにも見守られ、

4週間、各国語が飛び交う中、英語の挨拶もままならず、身振り手振りで
何とか 意思疎通を図れることも たっぷり経験した。
現地メディアの取材も何度か入り、夏の別荘に滞在中の 当時のスウェーデン国王にも ご挨拶に全員で赴いたり・・・


食べたことのないもの、針葉樹林の森を抜けて 名もない湖で ちゃぷちゃぷ泳いだり、どこにでもある 木の香りのサウナ(私には熱すぎた^^;)、

すべてが初めての経験。

日本と比べて 信じられない税率の高い 食べ物や文房具。(ゆりかごから墓場まで・・・の 北欧独自の高税率。旅行者にはキツイ^^;)


珍しかったのだろう。工作の時間に作った「被れるお面作り」で面白いと言われ・・新聞社の取材でスウェーデン、オーストリア、デンマーク友人と紙面に掲載された。



ことばが 通じなくても、心は通じた・・・コスタ・リカ はじめ、デンマーク友人は、来日して 東京で再会を果たしたり・・・

スウェーデンの1か月の後 訪れた、チューリッヒ、パリ、ロンドン・・・
リーダーや チームメンバーと一緒の 約40日間は、
本当に 私にとって かけがえのない経験の連続だった。

今思えば、大人たちに「守られていた」40日間だった。

そして、この経験が 12年後、 ひとりでハンガリーに向かう・・・

その布石になったことは まがいもない。(続く)

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