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『アレクセイと泉』ーー坂本龍一の転回 Ⅰ

 坂本龍一が亡くなった。しばらく呆然としたが、徐々にその影響力を改めて思い返し始めた。坂本の音楽や思想とは何だったのか?その膨大な作品は「世界のサカモト」という形容が邪魔して何が本当によい作品なのか分からなくなっている。世評を振り切って「良い物もある 悪い物もある」(スネークマンショー、YMO『X∞Multiplies』1980年所収)の精神で自分なりに坂本の音楽にを再度見極めてみたい。

 今回、取り上げるのは本橋成一監督『アレクセイと泉』2001年だ。当時、坂本がこのような地味な映画に音楽を提供し、驚いた記憶がある。だが年譜を見てみると、この時期は氏にとって転機だったと思う。

 この映画は、チェルノブイリ原発以降、老人だけになったベラルーシの村の四季と日々の生活を1人村に残った小児麻痺の青年の目から綴った。この村にも国家の介入や戦争、原発といった近代が押し寄せてきたはずだが、それらは脇に置かれ、焦点はあくまでも数百年続いてきただろう村の自給自足的な暮らしにある。映画の冒頭に事故のことが不安げに紹介され、村に接近していく。

 だが現れるのは春になればジャガイモや小麦を飢え、秋になれば収穫する村の景色と農民たちだ。農作業の間、かごを編んで街で売り、季節の節目ごとにお祭りをする。お祭りはキリスト教のはずだが、水によるお清めなど日本的な感じがする。村の中心にあるのが、放射線が検出されない村の湧き水だ。これが村の暮らしを維持している。これはまるで映画『風の谷のナウシカ』1982年の汚染が広がる腐海の底にある清浄な場所のようだ。

 人類は日本だろうとロシアだろうと、ここ数世紀自然や人間を組織的に利用し改造しようとしてきた。それは「共産主義とはソヴェイト政府、プラス、全国土の電化である。」(レーニン)、「三国峠を切り崩せば新潟に雪は降らない!」(田中角栄)といった言葉によく現れている。映画でもソビエト時代からの年金、トラクター、電気が散見されるが、こうした近代的な装置は農民の暮らしの平穏化に貢献しただろう。

 しかし、一方で近代は戦争や農業集団化の動員、原発の受け入れなど農民の暮らしを根本から破壊するとんでもない側面をもっている。後進国であればあるほど国家中枢による近代化は、善意の指令としてやってくる。開発は、無理やり開かせるという暴力性がある。それでも農民の頑固で変わらない暮らしは続く、この映画の魅力はその頑固さが感得できることだ。
 (Ⅱにつづく)

 
 

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