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配慮と我儘

私はゲームが好きで、ずっと昔からゲームをしていました。
世代的にもファミコン世代の少し下、スーファミ世代くらいでしょうか。
今日はそんなゲームに関することで、特に銃を撃って対戦するのが前提のゲームの話になりますが、少し面白い出来事があったので、紹介しながら思った事とかを書ければ良いと思っています。

誰もが気軽に楽しめる対戦ゲームをやりたい

問題です。「誰もが」は、誰を指していますか?
答えは簡単で、「私」ですね。日本語では表現が凄く曖昧で難しいので、英語で考えると楽です。
I wanna play the enjoyable game for anyone.
元ネタは私の知人の発言ですけど、つい衝動的にそのゲームがつまらないものだと感じたのでしょう。
ただ私は、ちょっと彼の発言には賛同できないなあと思ったので、その思いを書いていきます。

対戦ゲームのユニバーサルデザイン化

私が真面目に対戦ゲームに没頭していたころ、それはそれはとても狭いコミュニティの中だけで行われていました。
e-Sports黎明期の頃は、ゲームにおける「競技性」が重視されすぎていて、ゲーマーは、選手というより職人みたいな感じだったと記憶しています。
勿論中に居たら楽しいのは事実です。だからこそ、今でもその時代を彩った所謂レジェンド達は、未だにe-Sportsの今を支え続けています。

ところが採用されているタイトルは、大きく変わりました。
1つの大きな流れで言うと、Counter-Strike 1.6からCounter-Strike Global Offensiveに代わり、最近の日本国内では、Varolantというゲームが流行っています。
各ゲームの特徴を凄くざっくり説明すると
・Counter-Strike 1.6 : 弾を真っすぐ飛ばすことすら難しいゲーム
・Counter-Strike Global Offensive : 1.6よりは弾が当てやすくなったゲーム
・Varolant : 弾が当たらなくても、キャラクターが個別に持つスキルというシステムでチームに貢献出来るゲーム
真面目にやってる人にこういうと怒られてしまいそうですけど、大体こんな感じって思っておけば良いです。

対戦ゲームは、対戦する人が居なくなれば事実上の終焉です。それはゲームを提供する側もプレイヤー側も望んでいません。
そこで開発側は、競技性を担保しながらも、新規や初心者の方がいかにゲームを楽しめるか。もっと言えば、ゲームから離脱しないかという工夫をしてきました。加えて、競技的に楽しみ続けるトップ選手達も、自分達の未来の対戦相手や、e-Sportsという文化を引き継いでくれる後輩達に対して、その変更を受け入れ、より多くの人が楽しめるゲームとコミュニティを作りあげてきました。こうして多くの人に受け入れられる良いゲームが、作られてきたように思っています。
私はこの流れを、ある種の「配慮」とか「ユニバーサルデザイン」に近いものだと考えています。

どこまで行っても「誰もが」は、事実上不可能

ユニバーサルデザインという言葉は、文化・言語・国籍や年齢・性別・能力などの違いにかかわらず、出来るだけ多くの人が利用できることを目指した設計という意味らしいです。
例えば、UD教科書体というフォントがあります。私はこのフォントをとても見易くて、良いものだと思っていますが、それは地球上にいる全ての人にとって良いフォントなのかどうかは分かりませんし、見辛い・分かりにくいと主張する権利は誰にでもあります
ですが、既にそうやって多くの人が良いと認めているものに対して反対の意見を述べることは、自分がマイノリティであるということも自覚しなければいけないと考えています。

誰もが等しく勝てるゲームになるまで「配慮」してしまっては、対戦ゲームである意味がなくなってしまいます。それこそジャンケンか、ダイスを振って目が大きい方が勝ちみたいなゲームでもやっていれば良いのではないでしょうか。
態々デジタルな対戦ゲームに、それを求めるのは少し違う気がしています。

合理的配慮とは

最近は少しずつ一般化されているのかもしれませんが、法律で全ての人が受けることが出来る権利になっています。
実際は障害者雇用の際に、企業が応募者に対して、何を配慮として必要としているのか聞かせてください。面倒なら落とします。みたいな感じで使われています。

良くある配慮として、注意散漫で指示を聞き逃しやすいので、メモを取る時間を用意して頂けると~~みたいなやつがあります。
正直こんな配慮を貰うくらいなら、仕事の指示は文面か、口頭指示の際上司から要点を箇条書きにしたメモを同時に渡して頂けると~~みたいに言った方がマシですし、仕事上の抜け漏れも減ります。一見合理的に見えます。
前者は入ってから上司をイラつかせ、後者は入れる段階で上司が面倒だな、って思ったら不採用で終わりです。

要するに、人が居なくなったら終わりな対戦ゲーム業界と違って、応募がたくさんある企業や、人口が一方的に増え続ける社会であれば、「配慮」というか、「ユニバーサルデザイン化」を受け入れる必要はないのです。
ところが現状社会に加わる新しい人口は減り、昔と違って個を尊重しようという雰囲気だけは漂う社会になってきました。
その流れが加速し、今後仮に社会全体で人口の10%ほどが手帳を持ったとしても、例えば1000人社員が居る会社で、そういったメモに関する配慮が欲しいという人が1人しか居なければ、会社というコミュニティの中では0.1%でしかありません。
10%の人の生産性が、9割の人の1%の配慮で20%上がるのであれば、全体の総和は101.1%となりプラスになりますが、0.1%の人がいくら頑張ったところで残り99.9%の人の失った分の生産性を取り戻すことは不可能でしょう。
つまり、マイノリティすぎる人に対して渋々受け入れるような配慮は、合理的ではないと言う事です。

配慮か我儘か

結局は表裏一体なもので、合理性があれば配慮で、無ければ我儘なのかな、と思っています。
配慮して欲しいのであれば、どれだけ合理性があるのかを説明する必要があると感じているし、それが出来ないから人生が上手く行かなかったのかもしれません。

ただ、もし最期に1つだけ配慮を受けられるのであれば、安楽死制度というものを体験してみたい気持ちはあります。
これに関する合理性は、また後日書ければ良いと考えています。

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