大森靖子に共鳴する子供


「大森靖子の楽曲に共感できない子供にすることが子育ての成功だ」という呟きを見かけた。

それ以来、ふとした時にそのテーマについて考えている。





先に断っておくと、わたしはばちばちに「大森靖子に救われた女」である。


いつだって愛されたいのに1人でいたくて、でも寂しくて苦しくてわかって欲しくて、そういう矛盾しているようでいて全部全部ほんとうの気持ちを、自分ですら整理できない気持ちを、言葉にして寄り添ってくれるのがわたしにとっての大森靖子だった。

多くの大森靖子ファンがそうであるように、彼女を神様のように思っていた時期もある。






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ただまぁ、大森靖子に共感できない人を成功と呼ぶ気持ちも、正直すごいわかる。


前述の通り、苦しさに寄り添う、生きるのがしんどい人達を先導している大森靖子に共感する人達って、まぁまぁな確率で亡くなってしまうから。



Xのプロフ欄に「大森靖子」の名前が入っていて、亡くなった子を何人も知っている。



大森靖子の書く言葉の中に救いを求めている人達は、苦しい状況下にいることが多い。



そうでないことを、成功とするのはまぁ、そうよなあ。
子育ての成功という言葉自体しっくりこない(何をもって成功とするん?と思う)けど、子供を育てるという行為の中で「子供が亡くなる」というのは明確に失敗なのだろうとは思うから。

(別に自殺が悪だとか言いたいわけじゃない。生死の選択はその人個人に委ねられるべき権利だけど、"育てる"という観点から考えるとって話です。)



ただ、「大森靖子に全然共感できない」を大声で言う人もまた、子育ての成功例とは思えないのが正直なところである。



ここでわたしは別に、大森靖子を知っているから心優しくて傷つきやすい。逆に…とか、そういうのを言いたいんじゃない。
思ってないし。


苦しさを知っているから人に寄り添える(優しい)という言説は、人間を舐めすぎている。



自分自身が経験したことしかわからないという前提は、想像力を無視している。
わたしたちは経験したことの無い戦争の映画で涙を流すし、紛争に心を痛める。




相手の立場に立って想像しようという意思があれば、相手を思いやることができる。




大森靖子に限った話では無いけど、「共感できなさ」をさも自分の美点のように見せつけてくる人、想像力の無さをドヤ顔で見せつけてるって自覚がないから腹立たしい。


それ、全然君の恥部なのに。
一生気づかないまま晒し続けて、誰かを傷つけているのも構わずのうのうと生きていくんだろうな。
それを強さと勘違いしてあなただけが幸せな人生を送ることでしょう。良かったね。

という殺意マシマシのちくちく言葉を投げかけそうになってしまう。



(わたしはスマブラのキャラクターになったら「最後の切り札:ちくちく言葉」と書かれるくらい皮肉型なのだが、わたしが合わないタイプの人は大概皮肉に気づかない。
食い合わせが悪すぎる。)


ちょっと話がそれたが、そんな想像力の無い人たちを世に増やすことは社会から見た時の成功では無いような気はね、するのでね。



大森靖子を聞いて「あぁ、○○ちゃんもこんな気持ちだったのかもな」って、他の誰かに思いをはせられる人が、結局一番の成功例なんじゃないかな、が現時点でのわたしの考えです。


想像力を持つことは色んな感情を貰ってしまうことだから、苦しくなる場面も増えるだろうけど。


それでも誰かを慮ろうとする優しい人たちが傷つけられないことをいつだって望んでいる。
全部知っていてなお、優しくい続けようとする人たちのご飯は、毎日美味しくあって欲しい。


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