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【短編小説】 異物

 その青年が私の医院にやって来たのは、12月25日の昼のことだった。
 彼は不自然な姿勢で、よちよちと歩いて診察室に入ってきた。
 私がどうぞ、と椅子を勧めると、いえ、椅子は、と言いよどんだ。丸眼鏡の奥の目が泳ぐ。 
「ちょっとあの、諸事情ありまして、座るのが」
 自宅からここへの電車も、ずっと立ったままでやって来たという。
 よく見れば下半身、それも前でなく後ろの方を、しきりに気にしている。
 痔にしては痛そうではないし、どことなく恥じらっている様子がある。
 
 ははぁ、と私は思った。
 あることを直感したのである。 

 私は泌尿器科・肛門科を営んでいる。
 名前は間宮雄三、55歳。この道30年だ。
 妻はいない。気持ちの半分としては、この仕事と結婚しているような感じだ。

「それで、今日はどのような……」
 私は立ったままの患者に尋ねた。真っ白なカルテの名前欄を見る。
「えぇと。穴尼(あなに)、佐助(さすけ)さん? はじめての来院ですね。21歳。古風なお名前ですが」
「えぇ、あのう、親が、マンガのキャラから、名前を」 
 穴尼佐助は両手で腹と腰を挟んで、ゆるゆるうごめきながら答えた。
「数年前まで連載してた、忍者の」
「ア アナル トですね」
「それですそれです」
 彼は頭を上下に振る。機械的な動きだ。下腹部の違和感に、気持ちのほとんどが奪われているようだった。
 具合が悪いにせよ、気弱な雰囲気が漂う。線も細く、ひょろ長いといった印象の青年だった。

「それで、どうされたんです?」
 彼がどう言うか、どう答えるかはだいたい想像がついたものの、私は聞いた。

 彼はゆっくりと、こう語るのだった。

「えぇと、昨日の夜なんですが、その……お風呂に入って、裸で部屋に戻りましたら」

 ふむ。

「石鹸……か何かで、滑って、それで、尻餅をつきまして」 

 なるほど。

「それでですね、その、部屋にあったモノが、お尻から、入ってしまったんです……」

 やはり。
 思った通りの答えだった。


 私の直感とは、「直腸への異物挿入」である。

 肛門内にある前立腺への刺激によって性的快感を得ようとする人は、存外に多い。
 それ専用のオモチャなどで、危険なく楽しんでいる分には問題ない。
 だがそんな中で、チャレンジングな物品を挿入してしまう人が一定数、いる。
 そしてチャレンジが過ぎた場合、挿入したものが出てこなかったり、途中で折れて体内に残ってしまうことがある。
 そうなると彼ら彼女らは、肛門科のドアを叩くことになる。

 論文や資料には、そのようなケースが数多く記録されている。

 直腸内に入っていたものの例。 
 ピンポン玉、テニスの球、すりこぎ、オモチャの電車、握力強化用ハンドグリップ、ソフビ人形、水晶玉、太鼓を叩くゲームのバチ(1本)、シャンプーとリンス(2本同時)……

 珍しいものとしては、「半液体状の石膏」を流し込んだ事例があった。ドロドロの石膏である。
 これは直腸内でカチカチに固まってしまい、とんでもないことになった。何事にも限度というものはある。
 かく言う私も、これまで4件の「異物挿入」を診た。
 エンピツ、マニキュア、きゅうり、ペットボトルの4つだ。


 そのようなトラブルで、にっちもさっちもいかなくなった人々が病院でどう語るかと言うと、

「風呂場で転んだら」
「部屋にいたら転んで」

 この二つにほぼ集約される。資料からも経験からもそうである。
 医師としてはただ、「こういうことをする時は、気をつけてほしいな」と思っているだけだ。
 ところが本人たちは、それを隠そうとする。あくまで事故だと主張する。
「いやぁ! ちょいと前立腺を刺激してましたらね!」と快活に語る人はいない。


 この穴尼佐助くんも、先の4例や各資料と同じであった。事故だと主張している。
 まぁそれはいい。動機や真相は重要ではない。私は尻に入ったものを取り出せばいいのだ。
 あとは何が挿入っているか、無事に抜けるものなのか。知りたいのはそれだけである。


 顔を伏せている佐助くんに、私は声をかけた。
「そうなんですか。部屋で転んでしまって」
「はい、そうなんです」
「それは大変ですね。痛みは?」
「いえ。今のところモヤモヤするだけで、痛みはありません」
「それはよかった。で、何が刺さってしまったんです?」
「マンドラゴラです」
「何ですか?」
「マンドラゴラです」
「え?」
「マ・ン・ド、ラ・ゴ」
「いや聞こえてはいるんですが。それは何ですか?」
「怪奇植物です」
「怪奇植物」
「根菜です」
「ゴボウのような?」
「人の形をしています」
「人の形」
「引き抜くと絶叫して、その悲鳴を聞いた者は狂い死ぬと言われています」
「狂い死ぬ」
「そうです」
「普通、根菜は叫びませんが」
「怪奇植物ですから」
「つまり普通ではない」
「はい」
「それがお尻に」
「そうです」
「マンドラゴラが」
「はい」

 私は腕を組んだ。

「つまり、まとめると、まず、あなたのお尻には今、マンドラゴラなるものが刺さっている」
「そうです」
「痛みはなく……中で折れたりもしていない?」
「ええ」
「抜こうと思えば、苦もなく抜ける状態ではある?」 
「おそらく」
「しかしそのマンドラゴラは、抜く際に絶叫を発し、それを聞いた人間は狂死してしまうため、うかつに抜くことはできない」
「はい」
「これを自分で抜くと、狂死してしまう可能性があるため、どうしようかと困り、こちらに来院された、と」
「えぇ、えぇ」
「そういうことでよろしいですか」
「はい、間違いありません」

 私は組んだ腕を解いて、膝の上に乗せた。
 そして聞いた。

「薬物を摂取したことはありますか」
「ないです!」
 佐助くんは顔をしかめて手を振った。
「本当なんです! 本当にマンドラゴラが刺さってるんです!」
 私は黙っていた。黙る他なかった。
「そのマンドラゴラが! モヤモヤしてたまらないんです! 昨日の夜に挿れられてから落ち着かなくて! こればっかりは我慢できなくて!」
「ちょっと待ってください」
 私は手で制した。
「いま、挿れられた、とおっしゃいましたね」
「あっ」
 佐助くんはしまった、という顔をした。
「い、いえ。言い間違いで。その、実は、転んだんじゃなく、あの、自分で挿れたんです。誰かにやられたんじゃなく」
 嘘だ。
 嘘の下手な青年だった。
「これはとても重要なことですから、きちんと聞いてください」
 私はゆっくりと立ち上がった。 
 佐助くんは私より少し背が低い。上から顔を寄せて、言葉の一つ一つに重みを含ませて言った。

「あなたはいま、挿れられたと言いました。お尻にです。抜こうとすれば命の危険もある……とされる、マンドラゴラをです。
 そうなると話は違います。『挿れられた』のだとしたら、これは、率直に言うなら、性的暴行に当たります」
「そ、そうじゃないんです」
「そうでしょうか。その生態が事実かどうかはさておき、危険な根菜を、あなたはお尻に入れられたのですよ。抜きたくても抜けないものを。
 言いかえれば、『抜くと爆発する』と言われて棒を挿入されたようなものです。脅迫です。これは由々しき事態だと私は判断します。これから私は警察に」
「違うんです先生、やめてください通報だなんて!」
 佐助くんは気色ばんだ。顔が青くなったり赤くなったりする。
「ではどういうことなんです。挿れられたとはどういう意味なんです?」
「それは」
 彼は一瞬、口ごもった。しかし意を決したように、こう叫んだ。
「これはそういう……そういうプレイなんです!!」
「プレイ?」


 私の頭の回転が止まった。
 するとその隙を突くように、医院の出入口あたりから声が飛んできた。女の声だった。


「サスケー! サスケェーッ! ここにいるンでしょーッ!」
「すいませんいま診察中です。アッ中に入らないでください!」
 受付の看護師が止めている。しかし止めきれない。女の声がこちらへ近づいてきた。
「あ、あ、あ……」
 佐助くんが震えながら後ずさった。
「ミッチさん……なんでここが……」

「ここかっ!?」
 廊下と診察室を仕切るカーテンが無作法に開けられた。

 女が立っていた。
 私はまず、そのメイクに目を奪われた。
 色白の顔に、藍色のアイラインをきつく入れている。唇に黒い口紅。肌の白さと藍に黒のコントラストが強烈だ。
 尖った鼻の右には、銀色の輪がぶら下がる。
 頭の側面は刈り上げられ、上部も短くツンツンと立てられている。
 黒い革ジャンには鋲が打ち込まれており、ぴったりしたジーンズに漆黒のブーツを履いている。
 ゴシック、パンク、女王、そういう単語が脳内に浮かんで消えた。

「いた! 何してんの!」
 女は佐助くんを指さしながら、ズカズカと診察室に入ってきた。 
「まさか、アレ抜いてもらおうとしてンじゃないよね?」
「いや、その」

「すいません。よろしいですか」 
 私はできるだけ、穏やかに切り出した。
「ハイ? 何スか?」
 女は私をねめつけた。値踏みをしている視線だった。
 私はそれをはねのける口調で尋ねた。
「あなたが、彼に『挿れた』人ですね。マンドラゴラを」
「そうですけど、それが?」
「お話を聞きたいのです。ちょっと座ってもらえますか? 佐助くん、後ろにドーナツ型のクッションがありますから、それを使って座ってください」
「いやいいッスよ。これ、二人の問題ッスから」 
「だからこそ、聞くのです」 
 私は二人を交互に見つめた。
「これからの二人に関わる、大事な話なんです」





 私はまず、二人の関係から聞くことにした。
 ミッチさんの本名は満子(みつこ)。
 二人は恋人同士で、ミッチさんはサディスト、佐助くんはマゾヒストであった。

 二年前、あるバンドのライブで知り合い意気投合、ミッチさんが四歳年上だったこともあり、彼女が引っぱり佐助くんが引っぱられる、といったカップルだった。 
 音楽の趣味とスイーツ好きな点以外は全てが正反対な二人だったものの、それゆえにパズルのピースのようにピッタリとハマった。 
 それは「夜」も、そうであったと言う。

「カラダの相性がマジでよくて、なんかもう、毎晩が幸せ? ね?」
「言わないでよ……恥ずかしいよ」

 付き合って半年後のある晩。
 上になっていたミッチさんが興奮のあまり、佐助くんの肩に噛みついたことがきっかけだった。
「あっ、ゴメン!」と謝ったミッチさんの内部で、佐助くん自身がより一層、大きく膨らんだ。
 佐助くんの中に、甘い快感が熱く沸き出た。
「……もっと……」
「えっ。サスケ、どうしたん?」 
「ミッチさん……。もっと……痛くしてくれない?」
 潤んだ目でそう言った。
 ミッチさんの腰の下から電撃が背骨を伝わり、頭の後ろではじけた。
 それは、双方の「目覚め」であった。


 SとMに開眼した二人は、多種多様、様々なプレイに挑戦した。 
 目隠し、拘束、バラ鞭、荒縄、洗濯バサミ、吊るし上げ……
 それと平行して、佐助くんが以前から興味を持っていたという、前立腺の開発にも着手した。
 綿棒から指1本になり、1本が2本、2本が3本、ローターが入れられ、ディルドが使われるようになった。
「幸せを越えて、毎日が天国でしたよ!」
「そうだね……」
 

 プレイは過激さを増し、佐助くんの学生生活にまで影響が及ぶようになった。
「秋……コートの下を……全裸で通学して講義を受けろ、って言われて……」
「でもあれ、よくなかった?」
「うん……」


 異変が起きたのは、三ヶ月前だった。
 佐助くんがミッチさんのつけた、重さ5キロの貞操帯を、無断で外してしまった。
「なんで外したの?」
 ミッチさんは怒った。佐助くんはモゴモゴと弁解するだけだった。


「で、腹が立っちゃって、お仕置きをしようと思ったんです。で、ネットを探してたら……あったんです」
 それはSMグッズのサイトではなく、海外のオカルト通販サイトにあった。
 そのページには、動画が添付されていた。 

「ナイジェリアにて、マンドラゴラを引き抜いた瞬間! 衝撃の映像!(無音加工済)」

 と題されたその動画には、マンドラゴラを引き抜いた途端、農夫が耳を押さえ、白眼を剥いて昏倒する様が映し出されていた。

 これだ、と彼女は考えたそうだ。
 貞操帯を勝手に外すような奴には、「栓」をしてやろう。
 一度挿入《いれ》たら抜けないのではなく、抜きたくても抜けない、そんな栓を。

「薬効多数の本物 一本まるごとお届け」と書かれたそれを4万円で購入した。
 そして、昨晩のこと。
 ミッチさんは優しく声をかけ、佐助くんに前立腺への入口を公開させた。
 丁寧にほぐして警戒心を解いたあと、隠しておいたマンドラゴラを佐助くんの尻に突き入れた。
「うわっ! な、なんですかッ!?」と動揺する佐助くんに、ミッチさんはすかさず動画を見せた。農夫が悶死する動画だ。
「貞操帯を勝手に外すようなアンタにお仕置き! それを抜いたら絶叫が響いて、死んじゃうんだから!」
「そ、そんな……」
「抜きたくても抜けない! ほらっ、どうだぁ!」
「そんな…………」
 佐助くんはそれきり、黙ってしまったという。


 以上の話をしたのは主にミッチさんで、佐助くんは指先で服の前を揉みながら、ごくたまに補足をするだけであった。
 元気がないのは、尻の異物感のせいだけではないようだった。
 一方のミッチさんも最初は気宇壮大に語っていたものの、マンドラゴラを購入したあたりから少しずつ気勢が弱まり、昨晩無理に突っ込んだあたりに至っては、黒く太い眉を下げて、しょんぼりした顔つきになった。

「……今日はアタシ、仕事が早く終わったんで帰ったら、彼がいなくって……共用のパソコンの履歴を見たら、ここが調べてあったもんで、来たんですけど……」
 そう言ったあとは、何も言わなくなった。隣のサスケくんの真似をするように、革ジャンの裾をいじっている。
 改めて語ってみて、大変なことをしでかしたのだと気づいたようだ。

 
 こういうことは本来、カウンセラーの仕事であろう。だが乗りかかった船である。
 私はゆっくりと、こう切り出した。

「……プロレスラーに、神取忍という人がいます」

「へ?」
「何ですか?」
 2人は同時に顔を上げて、私に目を当てた。
 私は続けた。

「彼女の言葉に、こういうものがあります。
『プロレスは、セックスのようなものだ』 
 どういうことか、わかりますか」

 いや……とカップルは首をかしげる。

「プロレスというのは、相手の出す技をある程度、受けなければなりません。
 殴る、蹴る、投げる、飛ぶ……総合格闘技以上に多彩な技が、プロレスにはあります。
 スポーツ・エンタテイメントといえど技を受ければ痛く、きついものです。
 しかし技をかけるのも受けるのも、相手への一定の信頼関係がなければなりません。
 痛くてもケガはさせない技を出すこと、それを受けきる技量が、双方に必要なのです。
 そしてその大前提として必要なのが、『私たちはプロレスをするのだ』という、合意です」

 佐助くんはまだ首をかしげているが、ミッチさんはわかりかけてきたようだった。神妙な表情で頷いている。

「セックスを、広い意味の性行為と言いかえてみましょう。SMも性行為です。つまり心がけとしては、プロレスとかなり近しい」
 ここで佐助くんはあぁ、と嘆息した。私は二人の目を交互に見つめながら、噛んで含めるように言葉をつむぐ。

「性行為全般──当然SMにも、双方の同意と、信頼と、技量、それにルールが必要なんです。わかりますか。
 それらがなくては、きちんとしたプレイはできません。SとMは、対等でないと同時に、対等な関係なのです」

「……アタシが、間違ってたんですね」
 ミッチさんが目を伏せて言った。
「性欲に流されて、サスケの気持ちも考えずに」
「いえ、ミッチさんだけが悪いんじゃありません。僕もダメでした」
 佐助くんが顔を上げた。アンタは悪くないよ! と隣で言うのを無視して続ける。 
「痛いのや苦しいのは好きですけど、でも大学生活までに食い込んできたり、つらくなるほどなのは……嫌でした。それをちゃんと伝えるべきなのに、Mの立場に甘えて、我慢してしまったんです」 
「サスケ……」
「ミッチさん、ごめんね」
「ううん! アタシの方こそごめん! Sの立場に酔って、アンタの気持ちも考えないで」
「いいよ、大丈夫。わかってくれれば」
「本当に?」
「うん。だって僕…………」

 ここまで熱烈に話して、佐助くんはふと、私の方を見た。それにつられてミッチさんも私を見た。
 それから二人して気恥ずかしそうに、エヘヘと笑った。

 若い二人の関係が修復されてよかったと、私は安心した。
 私は立ち上がった。
「さて、今度は私が働く番ですね」
 デスクの脇にある使い捨てのゴム手袋を2枚引き抜く。
「穴尼《あなに》さん、ズボンと下着を脱いで、そこのベッドに横になってください。
 あおむけになって膝を開いて、いまお座りのクッションを腰の下に敷いてください。
 ミッチさん、受付にいる看護師と患者さんに、伝えていただけますか。
『少し危険な施術をするから、万一のこともあるので、外に出ているように』と。あなたも外に出てください」
 そこで私は一息入れた。
「今から私が、マンドラゴラを抜きます」

「……先生!」 
 ミッチさんが立ち上がった。真剣な目をしていた。
「アタシに、マンドラゴラを、抜かせてください!」





「元はと言えばアタシの責任です」
「一般の人を巻き込むわけにはいかない」
 押し問答の末、轟音の流れるヘッドホンをした彼女がマンドラゴラを抜き、耳栓に加えて手で耳をふさいだ私が万一に備えて、部屋の隅で待機する形となった。佐助くんも私と同様に、耳栓に加えて手でふさぐ。
 耳栓は私の仮眠用の私物で、ヘッドホンはミッチさんの私物だ。

 無論、マンドラゴラなるものの伝承を信じているわけではない。
 抜くと悲鳴を上げる植物、その声を聞くと狂死してしまうという、おそろしい根菜。
 そんなものがこの世に存在しているわけがない。

 だが、しかし……

 医学に携わる者としては、回避できるリスクは回避しておかねばならなかった。そのためのヘッドホン、耳栓、看護師と患者の退避である。
 それなのにミッチさんにマンドラゴラを抜かせることにしたのは、彼女に心を打たれたからであった。
「贖罪というのは、自己犠牲とは違いますよ」
 そう説き伏せる私に、彼女は首を横に振った。小さな声で、こう言う。
「アタシ、サスケが……サスケくんが、これで死んじゃったら、もう生きていけません」
 それからもっと小さな声になって、囁いた。
「SとかMとか以前に、アタシ、彼のこと、本当に好きなんです」
 彼女は私の目を見つめた。まっすぐな目だった。若い時代にしか持てない、熱く、混じり気のない、純粋な瞳だった。
「わかりました」
 私はそう答えた。


 下半身を裸にして、股を広げ、耳をふさいで、佐助くんは診察台に横になっている。
 私が確認したところ、マンドラゴラは葉の部分から下がすっぽりと直腸内に埋まっている。葉を引っ張ってみたが、全体を引き抜くのに十分な強度は有していそうだ。
 ミッチさんはヘッドホンを装着し、スマホで轟音の音楽を再生してから、使い捨てのゴム手袋を装着した。
 私はスマホで、大病院への救急連絡がタップひとつでできるように準備をした。
 もしマンドラゴラの絶叫で狂死しても、絶対にこの連絡だけはしなければならない。そう自分に言い聞かせた。


「躊躇なく、できるだけ、まっすぐ抜いてください」
 ヘッドホンをずらしたミッチさんにアドバイスしてから、診察室の隅へ行く。
 姿が同時に視認できるよう、正面や背後でなく、二人を横から捉える位置を確保した。
 耳栓をして、さらに手で蓋をする。
 私は佐助くんとミッチさんに向かって、大きく頷いた。


 診察台の脇で中腰になったミッチさんが、マンドラゴラの葉を掴む。
 離れていても手が震えているのがわかった。肩も大きく揺れる。息が荒い。ひどく緊張している。

 その彼女の二の腕に、そっと触れるものがあった。
 伸ばされた、佐助くんの手だった。

 二人は見つめあった。
 耳が聞こえないから、言葉は交わさない。
 しかし二人の視線の絡み合いは、幾千の言葉よりも雄弁であった。

 ミッチさんの手の震えが止まった。
 彼女の口が動くのを、私は見た。


「あいしてる」


 佐助くんは頷いて、聞こえぬ声でこう返事した。


「ぼくも」


 二人は、同時に目を閉じた。
 ミッチさんの肩と腕に力が入るのがわかった。
 その瞬間一気に、悪魔の根が、穴から引き抜かれたのを、私は見た。


 そして──



「これ、先生にあげます」
 ミッチさんはマンドラゴラを私に渡そうとした。
「いりません」
 私は断った。
「それよりも、洗って部屋に飾っておいた方がいいでしょう。今回の教訓として」


 マンドラゴラは、悲鳴を上げなかった。
「ぎゃあっ」と声がしたので心臓が縮んだものの、それは抜いた弾みで転んだミッチさんの叫びだった。 
 彼女の手には、マンドラゴラと呼ばれる根菜が握られていた。話の通り、胴に手足がついている、人のような形だった。

 私は彼女に駆け寄った。腰をしたたかに打ちつけたように見えたからだ。
「大丈夫ですか」
 ミッチさんは呆然と、手の中のマンドラゴラを見つめてから、呟いた。
「抜けた……」
 私は佐助くんに近寄り、あなたは? 大丈夫ですか? と尋ねた。
 彼もまた、恋人の手の中のマンドラゴラを見つめていた。
「抜けた……」

 わぁっ、とミッチさんが立ち上がって、佐助くんに強く抱きついた。 
「サスケ! サスケくんっ! よかった! よかったァ!」
 佐助くんの腕は彼女を包むように優しく巻かれた。
「よかった……ミッチさんが無事で……」
「ごめんね! 今までのこと! 本当にごめんね!」
「大丈夫。本当によかった……よかった……」


 マンドラゴラが何故叫ばなかったのか、それはわからない。
 伝承自体が嘘だったのかもしれない。
 買ったこれがニセモノだったのかもしれない。
 地面から抜くときだけ、絶叫するのかもしれない。
 あるいは、もしかすると──
 私はマンドラゴラの顔の部分に目をやった。
 目、鼻、口がある。今にも動き出しそうな雰囲気すら漂う。
 だがその表情は穏やかで、仏様のようだった。
 ──二人の、愛の力。
 そんな言葉が、頭をよぎったりした。


 念のため、塗り薬を渡した。 
「半日 挿入ったままだったわけですから、かぶれるかもしれません。一週間は様子を見てください」 
「はい、わかりました」
「違う意味で『疼く』ことがあるかもしれませんが、念のためしばらく、控えてください」
「ハイッ! 控えます!」
 ミッチさんの返事の生真面目さに、佐助くんと私は思わず顔を見合わせた。それから3人で笑った。

「それと、これはちょっとしたアドバイスなんですが──キーワードを決めておくといいと思います」
「キーワード?」
「なんスか、それ……?」
「この単語を言ったら、プレイを止める。そういうキーワードです。Mの人が本当にダメな時に使うんです。
 プレイの途中では絶対に使わないような単語がいい。たとえば、『タイタニック』とか『スターウォーズ』とか……」
「なんで映画なんスか?」
「まぁ、たとえばですよ。そういうルールを導入して、やってみてください」
 そこまで言うと、にわかに佐助くんが立ち上がった。
「あのっ、本当にありがとうございました」
 私に向かってお辞儀をした。
 ミッチさんも慌てて立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げた。
「僕たちこれから、お互いに尊重しながら、仲良くやっていきたいと思います」
「マンドラゴラのことだけじゃなく、アタシたちの仲まで取り持ってくれて……先生には感謝してもしきれません」
「いえ、大したことはしてません」
 私は穏やかに答えた。
 ミッチさんはふと、頭を上げる。
「でも先生、どうしてアタシたちに、ここまで親身になってくださったんですか?」
「それはね、私が、」
 私は思わず口に出そうになった言葉を飲み込んだ。
「……医者だからですよ」





 その日マンションに帰ったのは、夜の10時過ぎだった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
 エプロンをした結女(ゆめ)が出迎えてくれた。
 私は結婚はしていない。しかし恋人はいる。15年来の恋人であり、かつ──
 彼女は言った。
「ご飯にする? お風呂にする? それとも、ア・ナ・ル?」 
 私は靴を脱ぎながら答える。
「ごめん、今日は疲れたから、最後のはナシにしてくれる?」
「……ふぅん、最後のは、ナシ? マゾ先生?」
 彼女は私の名前──間宮雄三──を縮めて「マゾ先生」と呼ぶ。 
 彼女は私の肩を掴んだ。すごい力で締めつけてくる。
 王川結女(おうかわゆめ)。
 頭と尻尾の漢字を取り、「女王様」ならぬ「王女様」と、私が呼ぶにふさわしい力と貫禄だ。
「最後のは、ナシなんだ? それはつまり、」
「……『マトリックス』」
 私は言った。途端に彼女は手を離してくれた。
「よっぽど大変だったんだね。お疲れ様」
「うん、生死に関わるような案件があってね」
「えぇっ?」彼女は目を剥いた。「泌尿器や肛門科で、そんなことがあるの?」
「そう。守秘義務があるから、詳しくは話せないけど──」

 そこで私は言葉を切った。

「恋人同士の間にあった、“異物”を、取り除いてあげたんだ」



 
 
【おわり】

※※※※※※※※※※※※

???これはなんですか???

 本作、カクヨムで開催された年末の奇祭、 #第一回きつねマンドラゴラ小説賞 応募作です。テーマは当然ながら、#マンドラゴラ でした。

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