純粋さ、こだわるところは?

真っ白なキャンバスに墨で描く。

描かれたキャンバスから元の白地を見つける。

どちらに創造する純粋さがある?

真っ白なキャンバスに墨で鮮やかに描く行為には、実はひとつとして同じものはない。その程度は無限である。例えば1つの線、それは純粋なるものである。

多色で彩られたキャンバスに部分的に見える元の白。新たに塗り重なれる前の姿を顕そうという行為。キャンバスは塗られる為にあるからこそ、そこに純粋さがある。

だからなんだ、という話なのだが。。

もし創作の場面において純粋さ、に価値があると仮定すると、それは哲学的な話になる。純粋ではないものにも価値はあって、純粋なものを優先させて価値と捉えることは、説明が必要だと思うので。

純粋なものを価値あるものとして認める人が二人、三人と現れたとき、価値あるものはやがて、価値に対する欲望を生む。欲望、というのは価値を認めているからで、分かりやすく言えば価値をそうでないものより優先して生み出す心の傾向といえる。

価値に基づいて創造することは、つまり行動に組み込まれることである。その場合、行動において枷をかけるあらゆる価値のないものには蓋をしようと作為的に振る舞うことになる。価値を認めるとはそういうことだ。同じように描く1つの線も、やがて価値のあるものとして定められた記号になる。

しかし、これは純粋なものだろうか。

純粋で理性的な判断と自分で認めた、という疑いの無さが、却って行動における理性を欠いた状態へと誘導され、真っ白だったキャンバスのうえには、いつの間にか多くの純粋でないものが混ざりあっているのだ。

真っ白だったキャンバスの価値はこうして失われていく。では、真っ白なキャンバスに書かれた最初の線はどうなるのか。

価値の傾向性に気づくこととは、つまり欲望によって価値を認めていることを、認めるということ。その傾向性に気付く機会が減れば、純粋で理性的な判断として認めた価値の対象は変わっていく。自らの欲望によって。

これは、より多色で黒ずんだキャンバスにおいて自らの筆跡を辿ることは難しいし、やはり真っ白なキャンバスに墨で鮮やかに描くことと大差ないものではないか、という議論に続いていく。欲望によって元の純粋さとは別の新しい価値を生み出したところで、純粋さ、を求める理路は絶たれてしまう。

ここでもう一度、純粋さは

真っ白なキャンバスに墨で描く大胆さなのか

多色に塗られる前の純白のキャンバスを用意することか

どちらを辿り現れるのかを考える。

こうしてみると、純粋さを巡り不純なものに抗うことは理性的ではないことがわかる。

真っ暗なキャンバスに筆を足してみることと、真っ白なキャンバスに筆を始めることとは、同じではない。

だが、純粋なものと疑わない理性に対して、警告として密かに純粋さを心で問うことは、大切だと思っておこう。理性偏重の現代だからこそ、大切にしまっておこう。

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