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ゲド戦記

先日ゲド戦記を観賞。2006年、日本製作。115分。

前評判から期待していた難解さは感じられず、話の伝えたいことはストンと入ってきた気がしてびっくり。面白いと思った点は、西洋の価値観で語られるキャラクター心理の考察と表情の多彩さ。ホームドラマみたいな内容をおとぎ話にしていて意外性もあり。
しかし、やはりお決まりの生と死のテーマ。

ラストの決闘で、主人公のアレンは悪の魔法使いを倒すのだが、「生と死、光と闇、両方を見ていない、だからお前は"感謝"をしていない」といったセリフが入る。これは2時間の枠の中では、かなりわかりづらいセリフだと思うので考察してみたい。


ところでこの主人公は弱気だ。前述の「生と死」を受け入れたところで、両方に力があり、恐怖があるのを自覚している。いつも不安なのは嫌だ、という主人公。 気弱な青年キャラクターはジブリには多いが、今回扱うテーマはかなり重い気がする。


観終わってから、この映画が海外の映画評論家から酷評だったことを受け、原作小説との違いが気になった。世界の均衡が崩れた、というのがこの映画の持つダークサイドであり、主人公の内面の闘いの対象でもある。この設定が、原作とは少し異なっているというのは聞いていた。映画のなかで明言されていないが、この違和感を感じるのは、製作者はやはり日本人に向けて作っていて、主人公のは放つ"感謝"が島国の我々が持つ独特の感情を表した言葉だからではないか。

この映画の問題提起は、モノに限らず、ヒトですらその評価や価値基準が広い世界に否が応でも晒される今、その広い世界の基準を日常生活に受け入れたら世界はどうなるか、という話ではないだろうか。


例を挙げてみよう。われわれがどれだけ西洋社会に参画しようとも、日本人にとって日常の光と闇は変わりようがない。愛すべき日本語を母国語とする我々に、日常で発せられるセリフは、そうそう変わらないのだ。台風が来ますね、とか、台風が往ったね、のように、今まで通り感情を込めて話す、日常は変わることがない。


一転、新しい基準は知らない他者によって次々と作り替えられていく。それも、どうやら誰もが納得出来る素晴らしいカタチに飾られていくもの、のようなのだ。われわれ日本人が西洋の価値基準に出会う場面が多くなってきたのは、何十年も前から、である気がする。それなのに我々は、その度にそれに挑戦し、悩み、時には受け入れ、時には排斥してきた。


この物語では、その葛藤というか、押し寄せる変化を極めて個人的な問題と捉えている。
友人、家族、先輩、あなたと日常を共にする人間たちは今、この、どんどん基準を高めていく作業に夢中なのである。知らず知らずのうちに、高い基準こそがこの世界の均衡だと信じる人たちが、世界中で競ってその真偽を問うているのだ。こんな時代に、いま日本人も参加者として、またひとつのアイデンティティーとして、少しづつ名乗り出はじめた。

どうやら勝敗があり、勝利にも、敗北にも不確定要素のある世界など嫌だ。次に迫る恐怖はなんだろうと想像する先に、世界の均衡は、あっという間に誰かに奪われてしまうではないか。基準に囚われてしまえば、生と死の最も身近な友人や、家族の延長線上にはない、どこか別の世界へ自分の内面が乖離していく孤独がある。新しい光は無限に見えているが、闇もまた生まれていく。両方を見ているうちに光にも闇にも埋れてしまう。 「こんなはずではなかった、」と、何度か声に出してなかなか進展しないネガティブな主人公たち。

やがて友人や家族といった人間関係は変わることなく存在している、そのことを大前提にして、前へと進もうと決断する主人公。つまり、現実に起きていることに不安でいる、基準には振り回されないようにする、そうする他ないと開き直るのだ。 
そうでなければ、孤独で耐えられず闇に加担してしまうか、光の塵の一部となるか。不安とはその両側面の真ん中。中途半端極まりない存在。常に何かしなければいけないが、基準には及ばない。そのくせ、ヘマはする。ヘマをすればすべて自分の責任である。立て直すには、むろん勇気がその都度必要である。そう決断するたびに、自分の無力さを永遠に感じるだろう。
それ以外には、自分自身が恐怖になるか、恐怖など無いと嘘をつくか。悪の魔法使いが選んだのは、後者であった。

葛藤するアレンに対し、悪の魔法使いは無限の命を求め、なおかつ周りの他者への同調を求める。喜んで悪の魔法使いに仕え、安心した世界に感謝しながらその日を過ごすその部下たち。悪の魔法使いには葛藤は無いが、それは結局虚構の安心であり、自分が想像していた恐怖の役割を演じたがっているにすぎない。恐怖が増すごとに自分自身が肥大化し、自らが恐怖の化身となる故に、人々の想像する恐怖から逃れている。先程の日本人の感覚の話に戻るなら、世界という新しい可能性に対して増した恐怖が、存在しない想像の恐怖を産み出し、あたかもそれが現実かのように振る舞う人たち、の権化と言える。実際には起きていない闇を作り出し、そこに留まることで恐怖から逃れている人がいるのだ。

アレンは「永遠の生など死だ」と悪の魔法使いに告げる。確かに、自らが恐怖と畏れられれば、それを超える恐怖はやって来ないのかもしれない。しかし、死を迎えるために生を受けること、それが生であるなら、死を拒む生を選ぶ勇気を持って受け入れ始めるべきだと。
死を拒む、という表現ではあるが、生を受け入れる覚悟をした自分自身が生みだした死の存在(悪の魔法使いを含む)に、アレンは愛を持って語り掛けるのである。生と死を相対的にとらえて感謝している状態=周りの世界にハイパーセンシティティブ(想像力MAXで恐怖を感じている)になる事で、死に対峙する極限の生の力を感じさせる描写だ。

最後の場面は、原作とはだいぶかけ離れた表現になっているのではないか。物語を作る側の苦悩だろうが、神の視点から時代にセンシティブな主人公を作り上げていった結果、それが製作者の心境とシンクロしてしまった。


なんと男らしい映画なのか、と思ったのだけど、西洋人の感覚とは少しズレたヒロイズムに、海外の批評家の方は冗長なアニメと判断したのかもしれない。最後のセリフで、内向的に事態を解決しているんだけれど、そこのバランス感覚というか、ヒーローの頼りなさに逆に新鮮さを感じた。

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