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2023年よかったコンテンツ

今年もたくさんのコンテンツを味わった。ずっと日本にいたし。それらを振り返ってみて、なんらかの傾向というか、自分自身の状態と社会や時代とを、こう、うまいこと、ミックスしたような文章を書いて、知的やな〜鋭いな〜と思われたい記事です。ハードル。

映画

TAR

見終わってから「あれはなんだったんだろう?」と何度も反芻した映画。この映画の味わい方、楽しみ方はどこにあったんだろう。感じたことのない面白さを受け取って、体や心に染み渡るまで少し時間がかかった。新しいものは、そうやって、自分の感情のチャンネルを増やしてくれるような感覚がある。そんな映画だった。おもしろかった。数年に一回見たい。

終わらない週末

オバマ夫妻がプロデュースの「アメリカ終末もの」。サイバー攻撃で、交通は麻痺し、テスラは暴走し、飛行機は墜落する。人々は銃を持ってスーパーを襲う。ありえないような惨状だが、十分にあり得ると思わせる社会情勢もあいまって、ゾクっとする。未来予測的な怖さ。ブラックミラーとはまた違う、リアリティのある終末観がクールである。

NOPE

謎の飛行物体が飛んでくる。それそのものが題材のSFというより、むしろ、それをとりまく人間模様を描くサスペンス・スリラーであり、ちょっと笑えるダークコメディでもある。人間の立身出世欲や幼少期のトラウマ、人生のテーマになってしまうような狂気的な渇望、カルマ的な何か。そういったごたごたが人間を駆動させ、悲劇を巻き起こす。喜劇的に。

アフガニスタンからの米軍の撤退、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルのガザへの侵略と、それに対するパレスチナへの連帯など、西側資本主義・自由主義的な国々を中心としたルールや規律みたいなものが少しずつ崩れ始めている世界情勢。それは、日本の1995年以降の世紀末的な雰囲気とどこか似ている。崩れるはずのない平和な生活が簡単に崩れていく。カルト宗教によるテロ、震災、猟奇的な殺人。連動するかのようにエヴァンゲリオンのような終末感の強いコンテンツがヒットする。

2023年が、なんらかの終わりの季節だとした時に、ここに挙げたような、「既存の権威が崩れていく様は悲劇であり、同時に喜劇的でもある」というようなコンテンツに自分自身強く惹かれており、同時代性でもあるような気がしている。それゆえ、既存の権威的なもの、面白いはずのものにはあまり惹かれなかった年でもあった。「首」「君たちはどう生きるか」「PERFECT DAYS」あたりを見ている場合ではないのではないか・・・という気持ちになっている。

ドラマ

ガンニバル

柳楽優弥の狂気が見れるだけで満足。映像のルックが美しい。漫画原作で、ストーリーラインは、ある村に赴任してきた警察官が、村のルールや人喰いの噂に翻弄されるというもの。ホラーではよくある展開なんだけど、面白いのは、この警察官がスーパー暴力警官で、心の底では、戦いや暴力に快感を感じているところ。ブレイキングバッドのウォルターが、仕方なく従事していた麻薬製造を本当は楽しく感じていた、のくだりと似ていてグッとくる。

INFORMA

森田剛の狂気が見れるだけで満足。映像のルック、衣装、キャスティング、どれもいい。ストーリーの結末や謎が解けていくところにはあまりカタルシスはないんだけど、特に序盤の、倫理が破綻してるヤバい集団がじわじわ襲ってくる感じはアウトレイジを初めて見た時のような高揚がある。ガンニバルといい、暴力を映像で見るのが好きなのだろうか。

BEEF

アジア系アメリカ人の貧民層と富裕層との争い。エブエブ(EVERYTHING EVERYWHERE ALL AT ONCE)といい、アジア系アクターの躍進が見られた今年の、小気味いい揉め事ドラマ。どんどんやり返していく喧嘩が楽しい。これも喜劇的だし悲劇的である。「FAIRPLAY」というドラマでは、ある金融会社に勤めるカップルの女性が出世してギクシャクする、というのがあったが、このドラマもまた、富裕層は女性。マイノリティの中の格差と男女の経済格差への批評。いろいろ混ざってるけど、ちゃんと楽しいエンタメにもなっている。そのへんのバランスがとてもいい。楽しかった。

今年のドラマを貫く見方は「闘争」だったように思う。戦っている時、勝利を目指している時、倫理を捨てて、相手へ怒りをぶつける時、そこには快感があり、その熱中は喜劇的でもあり、全体を引いて見た時には悲劇的でもある。揉めているのは当事者同士だが、遠因は社会システムにあり、それ自体を変えないと、同じような悲劇が繰り返される。しかし、当事者同士からしたら、それは、唯一の感情であり、行動であり、運命論的に片付けられるようなことではない。その唯一無二性のおかしみに笑えてくる。

番組

muda TRIAL

YouTube番組。アラスカを何日もかけて歩くだけ。俳優、ディレクター、カメラマンの三人で。途中、シカやクマと出会したりしながら。足が棒のようになったり、寒さに震えたり、カレーの旨さに震えたり、ワンダーレイクでの酒のウマさに震えたり。旅をしたり、縦走をしたりする時、結局、なんてことのない日々の幸せを再確認するために、わざとしんどいことをして、幸福の波をつくっているだけのような気がしてくる。トレイルもまた、そんな試みに見えた。でも、雄大な自然を見るのっていいよね。ヘリで行くんじゃなくて、歩きながら。

高野さんを怒らせたい

意味のなさにこそ意味があって、経済的な価値がないはずのものが、視聴数によってビジネスになる時代。そんなことさえ忘れられるほど、純粋にある人を怒らせたいだけのチャンネル。その狂気っぷりがたまらない。いつまでも大学生のような(時間が有り余ってる)ノリであること。最近モンゴル旅行にふらっといったら、「なんか大学生みたいだね」と言われたんだけど、それって最高の褒め言葉だなと。時間を無駄に使える贅沢。大人としての責任を引き受けているかどうか、は、また別の問題。

奇奇怪怪

podcastにハマっている。ラジオのようなリアルタイム性はないけど、定期的な連載コンテンツであり、音声メディアである。podcastのよいところは、まず、尺が自由であるところ、声だから温度とニュアンスが伝わるところ、文字情報がないから変な切り取りがされないところ。そしてなぜだか、強固なコミュニティができていくところ。いつのまにか、「わかってる」集団みたいになるところ。内輪ノリが、広がっていくところ。そんな音声メディアのメディアデザインとしての良さをすべて体現しているのが「奇奇怪怪」である。口の悪い二人の、回転の速い会話が忘れられなくなるし、聞き終わったら何も覚えていない。音声コンテンツつくりたくなる。

王道、という言葉があって、サブカルチャーという言葉があって、コンテンツはバズだったり、PRだったり、大きく跳ねる可能性のあるものになっている。しかし、今回ハマったのは、そういった喧騒から一歩路地裏に入って、暗闇でこっそり集まっている秘密結社的なものばかりである。自分もまた、そのようなコミュニティをほそぼそと続けていきたいモードになっている。

音楽

chelmico

ラップユニット。ちぇるみこ。とにかくゆるい。肩の力が抜けている。腰の力も抜けている感じがする。ギャングスタラップ的なノリが大嫌いなんだけど、その対極にある感じがする。あとラップだけじゃないグッドメロディもあって、くるりでいう上海蟹とか、キックザカンクルー的なキャッチーさとか、そういうのがあって、とにかく好きである。ずっと続けてほしい。

Goldmund

故・坂本龍一がNYの日本食レストランのためにつくったプレイリストがあって、その中に入っていたアーティストGoldmund。音数の少ないピアノアンビエントなんだけど、とてつもなく落ち着く。まさに日本食レストランでかかっていてほしい音楽であり、なんか高そうで、清潔で、神聖で、シンプルな感じのする空間では、こういう音が鳴っててほしいよね感を満たしている。Aesopの匂いしそう。

Klangphonics

テクノにハマりかけたきっかけは、このような縦型ショート動画を見たから。ケルヒャー的な工具でリズムを刻み、そこにミニマルなドラムとベースシンセとセリフをかぶせていく。そのような映像を自分もつくりたい!と思い、挫折した。メンバー集め、映像の準備、曲の準備、衣装の準備、企画、ロケーションなどなどをやり切る熱量がなかった。まず曲ができなかった。機材を二つ買って、YouTubeで操作法を学ぶのがえらい面倒だった。俺は掃除機にあわせてテクノする映像をつくりたいだけだったのだ。あとそもそもそんなにテクノが好きじゃなかった。すぐ飽きるし。ギター弾きたい。

作業用BGMという言葉が定着して数年が経つ。音楽は90年代は歌うものであり、読むものであり、観るものであったが、00年代以降は、BGMとフェスに二分したように思う。より無意識的なものか、より体験的なものか。SNSのBGMに音楽を使うためにキャッチーなサビを切り抜く、というようなメディアマーケ逆算的な音楽制作もまた、産業の要請である。その中で、自分も例に漏れず、BGM的なライトさや、引き算を求めるようになっている。または、自分が何かを発表するときの素材として見るようになっており、このような音楽との向き合い方を多様性と呼ぶのかどうかは分からない。

幽玄F

「テスカトリポカ」の作者による作品。飛行機乗りの話である。この人の本は主人公がとても乾いている。求めるものへの渇望が激しい。それ故に、日々の暮らしへの興味が極端に薄く、一直線に求めるものに向かって生きている。その「かもめのジョナサン」的な生き方は嫌いじゃないし、自分にもかつてそういう時代があったんだけど、本質的には、おもしろおかしくうつくしく生きていければよい。だからこそ、こういう純粋な作品に惹かれてしまう。思いっきりただひとつのことを目指して生きていくということは、選択の自由がないように見えて、最も大きな自由を手に入れたことと同義であろう。

イラク水滸伝

人類の文明発祥といわれているチグリス・ユーフラテス川流域。イラクはまさに、そのあたりの国である。フセイン大統領周りのイメージしかないが、そこには太古のシュメール文明の残り香がある。特に湿地帯である。中国の梁山泊もまた、湿地帯で戦ったアナーキストたちの話であったが、現代イラクにも、湿地帯で独自の文化を築いている人たちがいる。そこに尋ね、現地の生活と出会いを記したのがこの本である。また行きたい国が増えてしまった。まだ読んでいる途中。

"複雑なタイトルをここに"

故・ヴァージル・アブローの著作。この本は、ハーバードでの講演を書き起こしたものである。ストリートをいかにハイブランドに侵食させたのか、そのパラダイムチェンジの考えと手法はエキサイティングである。「デュシャンが自分の弁護士である」という考え方も面白い。SNSとインフルエンサーがトレンドやカルチャーの中心になっていく時代をいち早く見抜き、その最先端で、オーセンティックなブランドとの違いやリスペクトについて、そこに楔を打つ考えについて語ってくれている。何度も出てくる「エートス」という言葉のニュアンスをつかみたい。「自分だけの特徴」のようなものだと捉えているがわからない。それを見つけることが大切なのだ。

文学や小説の数ある美点の中の一つとして「それ自分も思ってたけど言葉にならなかった」を言語化してもらえること、というのがある。今回挙げた本は、その真逆というか、「その発想はなかった」ものたちである。それは安心や共感ではなく、刺激と触発であり、いてもたってもいられなくしてくれる何かである。そのようなガソリン、エンジン、ターボ的なものを本に求めていたのかもしれない。

マンガ

二月の勝者

お受験の漫画である。ちょうど40歳くらいの友人たちが直面している、子供を受験させるかどうか、受験させる場合、どのような学校を目指すか、また、受かった時に、どこに最終決定するか。それは、子供の人生のみならず、親の住む場所や仕事にまで影響し、人生観、家族観、教育観、などすべての人間性が顕になる。結果、親同士が揉めがち、という、家族全体の幸せのための試みのはずが、なんだか大変なことになってしまうというのがお受験なのだ。そのような話をたっぷりと聞き、まったく自分には関係ないのにめっちゃ読んでしまった。リアリティがすごい。東京での子育てと選択肢の多さもすごい。公立育ち(自分も含めて)から見たら、「子供のころから無理して勉強させて、高い金払ってってやるより、のびのび楽しく育った方がよくない?」と思うし、私立育ちからしたら、「せっかく選択肢があるのに、いちばん幸福になれそうな道を選ばないなんておかしくない?公立のレベルの低さはまるで動物園でしょ」と思う(だろう)し、そこには永遠に相入れないボーダー(境界)があるのだ。だってお互い相手の立場になったことがないんだから。大変に興味深い問題であり、透明で見えないけど、人種問題くらい根深いのかもしれない。(特に東京は)

日本三國

キングダム、軍師版、架空の日本ver.である。面白すぎて鼻血が出そうになる。現状、取材のための休刊中(だったと思う)体調を崩さないように長く書いて欲しい。あきらかに魂や寿命を削っている面白さである。ギリギリの交渉、勇気、弱さ、権力、頭脳などのゲームオブスローンズ的大河ドラマに心が震える。いつか、ちゃんとした予算とチームで映像化して欲しい。

こづかい万歳

テレビ番組などでも紹介され、かなりメジャーになりつつある「こづかい万歳」。読者からの投稿を元に取材を続けているため、意外とネタが切れていなくて安定感がある。基本的には、月に数万円のこづかいで暮らしている人たちを描き、その中でどのような幸せを得ているか、というストーリーなのだが、そこに類似点はあまりなく、千差万別の幸せがある。ひとつ言えることは、自分の幸せが何であるかを知っている人間は、金があるだけの人間よりも数段幸せである、ということである。デフレ・円安社会に始まったこの漫画のアクチュアリティは、まだまだ失われていない。

コンテンツに求めるものは現実逃避である。しかし、その逃避先にもまた、現実社会を描くものがあり、そこには直接的なものもあればアナロジーを用いて描いているものもある。ここに挙げたマンガは、「社会」に意識的なものばかりであり、そこに面白さを感じているのだなあ、としみじみした。フリーランスになって、社会から隔絶されたような感覚があるかと思いきや、むしろ、税金や社保やインボイスなどが自分ごととなり、むしろ社会のことを考える時間が増えたように思う。かけこみふるさと納税をするなら今しかないが、欲しいものがぜんぜんない。

アートイベント

蔡國強展

国立新美術館での展示。花火をいっせいに上げることで桜を咲かせたりするダイナミックなアートである。刹那的なイベントであるが、同時にその瞬間を切り取った写真には永遠性があって、その対比にクラクラする。意外と面白かったのは、こういったアートを実現するまでに、街に住み、関係をつくり、自治体や地域と仲良くなっていった過程である。急に現れて町おこしする人たちって、なんか怖いもんね。

「STUDY」

デザイン「あ」などを手掛ける岡崎さんの作品展。SNSでも毎日のようにマッチを使った映像表現をUPしており、そこにはこれを見てくれ的な自己承認欲求をまったく感じさせないミニマルさがある。むしろ、日々の犬の散歩のような日課だからやってる感がすごい。健康にもいいし、みたいな。それらの追求を見ていると、本当にモノをつくる人は、こういうモチベーションで駆動しているんだなあ、としみじみする。

茶酔

茶酔とはその名の通り、お茶を飲んで酔うこと。とあるイベントへのお誘いがあって、いそいそと出かけて行った。そこで7〜8杯のお茶をいただき、その味の違いや「伊勢丹のロビーのような香りがしますね」など、ワインと似た楽しみ方にはしゃいで、気がつくと、これは酔っていたのでは?と思うような愉快な心持ちになっていた。頭が痛くなって吐き気がしない酔いは初体験でした。また行きたい。

アートイベントについては、共通項が見つかりませんでした。いろいろあっていいよね。誰かを触発し、仲間になるようなアートイベントをやってみたいものです。

2023年は、HOMEをテーマにしていたんだけど、社会と関わりながらも異形のものになっていく、新しい価値観を触発していく、みたいなものに惹かれていった気がしました。そろそろ品川駅に向かって京都に帰ります。なぜか帰省めんどくせい、って気分です。2泊がちょうどいいよね。では、また来年。

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