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「今日もコピーが書けません」第8話:夢の海外ロケ

灼熱の太陽が照りつけるタイのビーチ。日除けのテントの下で、監督とカメラマンはじりじりしながら待っていた。「モデルはまだ出て来ないんですか?」代理店のコピーライターであるPは、俺に言われても、と内心思いながら、「ちょっと見てきます」と現場を離れた。

撮影用のトレーラーのそばには、半分腐ったような野犬がうろうろしている。Pは現地のコーディネーターに言った。「あの犬を追い払ってくれませんか」コーディネーターHは白い歯を見せて答える。「はいっ!すぐに!こらあっちいけ!ほら!しっ、しっ!」

2014年の夏。タイでCM撮影のコーディネーターを始めてもう8年になるというHは、元々日本国内のCM制作会社で制作進行を担当していたが、タイでの撮影時にこの国の魅力にハマり、タイ人と結婚して、コーディネーターの仕事をしていた。やたら焼けて真っ黒な肌に、不自然なまでに白い歯が輝いている。「いや〜モデルさん、完全にすねちゃったみたいですね」

なんでも、昨日からスタイリストとバチバチだったらしい。用意している衣装の数が少ない、だとか、衣装合わせの時間にモデルが遅刻した、だとか、お互いの不備を攻め立てている。こういう場合、原因はもっと別にあることが多い。そう、予算不足である。海外ロケというと聞こえはいいが、渡航費だけでかなりの額を使うため、肝心のクリエイションにかける費用が限られてしまう。この場合は衣装の数であり、撮影にかけられる日数であり、タイトなスケジュールは、キャストの体調にも関わってくる。モデルのコンディションを整える時間も足りていなかった。

そもそも、この撮影はどうも怪しい。CMの背景にビーチが必要だが、国内だといいビーチがないため、タイに飛んだというが、本当に必要なのかどうかわからなかった。メインで起用されたタレントは国内でグリーンバックを背景に撮影済み。合成するための「背景だけ」を撮りにきたのだ。

営業のWがやってきた。「Pさん、すいません。キャスティングは営業マターなのに」「まあ、どっちマターとかはいいんだけどさ、なんとか機嫌直してもらわないと、撮影終わらないよ」

背景とはいえ、人がいないのも不自然なので、水着を着た女性がビーチに座っている。ただそれだけのシーンである。

Wが意を決してトレーラーのドアを叩く「すいませ〜ん!Mさん、出てきてください!あなたもプロでしょ!撮影を終わらせましょうよ!」モデルのMは「あのスタイリストをクビにして!でなきゃ、もうここから出ない!」と言う。スタイリストSは「どうぞ、クビにしてもらって結構です!あの人に似合う衣装なんてないでしょうから!」と言う。どちらも引かない。

「ちょっとDさん、何してんですか!」デザイナーのDさんが営業Wに叱られている。ただでさえ、モデルとスタイリストのトラブルがあるというのに。「だから、守秘義務があるから、スマホのカメラにはシールを貼って、撮影現場は一枚も撮らないでって言ってるじゃないですか」「でもさ、せっかくタイに来たからさ、空港で1枚撮って、FBにアップするくらいは・・・」「ダメですって、スタッフリストに名前が載ってるんですから、タイで撮影したんだな〜とかバレるのもダメなんです」10も年が離れている営業に叱られて、Dさんはシュンとしていた。なんで海外ロケってだけで、こんなにトラブル続きなんだろうか。

そこに、営業部長Kが現れた。今回の撮影において、最も必要のない人材である。と言うのも、今回の撮影はクライアントの立ち会いがなく、スタッフだけで十分なのだ。若手営業のWは、キャスティングや、予算の管理などもあって、タイでも大忙しだったが、K部長は水着でプールに浮かんでいるだけだった。

「Mさん、ちょっと、飲みませんか?」K部長はうすいビールを持って、トレーラーの扉を開ける。「もう出演はなしってことね。いいわよ、飲みたい気分だったし」そう言って、2人でトレーラーの中でビールを飲み始めてしまった。いったい何を考えているのだろう。すると、K部長は「Sさんもどうですか?もう仕事はいいから、腹割って話しませんか?」Sも言う「のぞむところよ、私だって言いたいことはたくさんあるんだから!」

トレーラーの中で、対立しているMとS、それにK部長での宴会が始まってしまった。いったいこの撮影はどうなってしまうんだ。Pは若手監督Uに説明に向かった。「というわけで、とりあえず30分休憩にしましょう」「わかりました。僕らもちょっと飲んじゃいましょうか」そういって、チャーンと書かれたビールを瓶のまま一口いった。

「やっぱタイだと、うすいビールがうまいですね」そう言って、カメラマンやスタッフも飲み始め、ビール休憩になってしまった。Pは監督に尋ねる。「こんなことって珍しいですよね、迷惑かけてすみません」Uは笑いながら答える「実は僕海外で2年ほど留学しながら映像撮ってたことがあって、こんなことはしょっちゅうでしたよ。日本の現場が真面目すぎるだけです」「そんなもんですか・・・留学って学生の頃?」「いや、今の会社入って、3年目くらいですかね。海外に挑戦します!って言ってワーホリで」「そんな道もあるんですね」「でも、こうやって元の会社に帰ってきました。Pさん、もし会社辞めるなら、海外に挑戦するっていうことにするといいですよ」「どういうことですか?」「いや、海外で映像撮ってたって言っても、知り合いの手伝いとかしてただけで、別になんの挑戦もせずに、ただちょっと海外で遊んでただけなんですよね。だけど、帰ってきたら、『よくがんばったな!』って言って迎え入れてもらって。そういうわけで、辞めるなら海外です」「なるほど・・・」

そんなことを言っていたら、なんとSとMが笑いながらトレーラーから出てきたではないか。「やだ〜Kさん、おかしい」「そうよ、本当にオヤジなんだから!」いったいどんな魔法を使ったのだろうか、喧嘩する前よりSとMが仲良くなっている気さえする。

「撮影再開!」カメラマンの号令で、あっという間にビーチのシーンは撮り終わった。これで、このCM撮影の撮影素材は全部揃ったことになる。「Kさん、いったいどんな魔法を?」PはKさんに尋ねた。「まあ、年の功というか、ただビール飲んで話を聞いただけというか。特に何もしてないけどね」

まったく、誰がどこで役に立つかわからない。こうしてCM撮影は無事終わり、その夜は街で簡単な打ち上げとなった。若手営業Wくんが「このマンゴーと餅米をいっしょに食べるのだけは納得いきません!」と言い出し、スタイリストのSは「この国の食文化に敬意を表しなさい!」と叱る。モデルのMが「そうよ!」と加勢する。本当に無事終わってよかった。1次会が終わり、女性陣はホテルに戻るというので、それを見送り、男性陣のみが残る。

コーディネーターのHの目が輝いた。「みなさん、大変おつかれさまでした。私はタイで、3年連続、No.1コーディネーターとして日本のCM撮影の仕事をしてきました。それは、スムーズな撮影はもちろん、タイの夜をコーディネートしてきたからに、ちがいありません」慣れた口上に、男性陣が野次を飛ばす「いいぞ!H!」「早く案内しろ!」

「それではみなさんを、めくるめく世界へご案内します。夜は長い。まだまだあせらず、まずは、踊りを見にいきましょう」

ギラギラとしたネオンが輝く、クラブが集まる複合施設へと一行は案内される。タイの女性が踊るクラブ、ニューハーフが踊るクラブを、はしごで案内された。席につくと、女性がお酒をおねだりしてくるのだが、Hは「みなさん、まだまだここでは女の子に手を出さないでください。踊りを楽しむ場所ですよ」とウインクした。

Dが言う。「なんか女の子はAKBみたいで、ニューハーフって少女時代みたいだね」「そう、タイではニューハーフの方がスタイルがいいのです」Hがすぐに教えてくれる。

何軒かのクラブを回った後、Hは言った。「それではみなさん、お待ちかねの大人のお店に向かいますが、その前に、もう一軒、名物を食べていただきたい」そう言って連れて来られたのが、プーパッポンカリーの店だった。

ソフトシェルクラブの味わいとほのかに甘いたまごが溶け合って、するすると胃袋に入っていく。こんなに食べやすいカレーは初めてだ。それに豚の血のラーメンというのもなかなかうまかった。Pは「これは精力がつきそうですね」と言うと、Hは白い歯を見せながら「そうでしょう。思いっきり楽しんでいただくために、私は必ず、女の子の店の前に、この店を挟むんです」

3年連続No.1の称号は伊達ではないな、Pはそう思って、店の外でタバコを吸っていた。すると突然、腹に強烈な痛みが襲いかかってきた。なんだこれは・・・Hが心配そうに声をかける「だ、大丈夫ですか?顔が青いですよ!」Pは答える。「たぶん・・・油に当たったんだと思います。東南アジアではよくあるので」「タクシーを呼びますか?」「そうしてください。僕は・・・ホテルに・・・戻ります」

そうして、Pの海外ロケは、プーパッポンカリーで幕を閉じたのであった。ベッドとトイレを5往復しながら、他の男性スタッフが楽しんでいるであろう、タイの夜を想像し、また下痢に襲われる。途中、DさんからLINEが届く。「Pくん、こちらは夢のようです。ずらっと並んだ女の子たち、みんなで入るプール、ここは桃源郷です」Pはベッドに潜り、そっとスマホの画面をオフにした。

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