NHK『恋せぬふたり』。言葉という枠組みを越えて生き方のグラデーションを表現する
NHKドラマ久々に見ました。高橋一生と岸井ゆきのがダブル主演で、アロマンティック&アセクシャルな二人とその周辺の人々の物語。
昨今話題のダイバーシティ&インクルージョンの流れ
LGBTQが非常にメジャーな言葉となって久しいですが、今度はアロマンティック・アセクシャルか、と。私はこのドラマを見て、初めてこう呼ばれる性的指向、恋愛的指向があるのだと知りました。
もう、日常会話でも「女」だの「男」だの使うのは、おおざっぱすぎかしら?と思うくらい、この人の在り方の定義をできるだけ表現しようとすることはダイバーシティが広がっている故なのだと思います。
例えば、宇多田ヒカルさんが自身を「ノンバイナリー」であると自認しているということをニュースで知りました。私もまったく詳しい人間ではありませんが、この性別界隈の話では、自分の自認の性と、恋愛対象の性をそれぞれどうするか、ということが各種定義の分岐点になるそうで、ノンバイナリーというのは「自分の性別について、男女どちらにも定義しない人のこと」だそうです。
実は、この言葉を聞いて、個人的にはとても衝撃があったのです。なぜなら、私自身もそのような傾向があるかもしれない、と気づいたからなんですよね。(この話はいつかじっくり書きたいですが)つまり、昨今生まれるこの性別界隈のNew wordsについて、なんでそんなの定義すんの?めんどくさ。と思う人たちのほうがおそらく大多数なんじゃないかと思うのですが、
しかし、言葉によって、今まで男と女しかなかった、白と黒しかなかったところでグレーだった違和感ゾーンの人たちに希望を与えることになるのですよね。「言葉」によって定義されることで、あぁ、私の居場所はあるのかもしれない。と思えるからです。
しかし言葉が生まれすぎる弊害もある。
この言葉の定義によって、マイノリティであると感じていた人たちに希望を与えているのだとおもうのですが、反面、大多数の人からすると世の中が男と女で二分されており、且つ、性別的役割分担がされているほうが「楽だな」と思う人も多いわけです。
さらに、言葉というものは、人によって、その言葉の意味が変わってしまっては厄介なものです。例えば、リンゴといったときに赤くて丸い、こぶしくらいの大きさの果物であればOKというのが一般的ですが、「一言でリンゴといっても、どのリンゴですが?つがる、フジ、ジョナゴールド、紅玉、そもそも青りんごもありますけど?どれですか?」と聞かれると、なんかめんどくさってなるわけです。
男性、といったときに、思い描く男性イメージはだいたい共通のほうが話が早くて楽なのです。
人はついつい楽な方を選びがちで、いちいち言葉の定義を確認されては面倒だし時間もかかる。
言葉は生まれても、グラデーションをすべて表現することは不可能
言葉とは、その意味の範囲を決めることなので、言葉にした瞬間にすべてのものは型にはめられる。オレンジの他にブラッドオレンジという色が新しく定義されたとしても、鮮やかなブラッドオレンジも、やや薄めのブラッドオレンジも「ブラッドオレンジ」と呼ばれ、結局すべての個性を言葉で表現するには限界があります。
同様に言葉を尽くしたとしても正確に個人の思考やあり方を伝えるのは至難の業です。
しかし、言葉があることで、マイノリティの存在が認知されることが増え、その結果、マイノリティの人たちにとって生きづらい事が減り、悲しいことが減るといいなということなんでしょう。
隣の人に理解を示すのが一つの答えなのかも
先日、会社の同僚数名と話していた時に「●●さんは、彼女とかいないんですか?」と根掘り葉掘り若手がきいてました。いない、あんまり人のこと好きとか思わない、、と彼は答えていたのですが、その時恋せぬふたりのことを思い出しました。
一般的な会話なんですが、恋愛するの前提、恋人いるべき論が、人を居心地悪くさせる事があるのかもしれないなと。
その彼がアロマンティックなのかは分かりませんが、興味ない人もいるという事を知ってる事で、少し会話は変わるはず。
世の中の多様性なんてものは言葉にならないから多様なんだな、だから言葉を知ったくらいで知った気になるのも違うけど、自分の隣の自分と違う人を除外するのではなく、知りたいとわたしは思うのです。
自分のままで、その個性や特性や力が発揮される社会が叶えば、世の中のプラスになる、個人はもちろん社会的経済的にも効果が大きいと信じてるのかもしれません。
だから、楽せずめんどくさく行こうぜ、その方がより多彩な色で美しい絵が描けるのではないかというきれいごとで〆たいとおもいます。
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