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0410 国会議事堂見学会

国会議事堂の住所は、千代田区永田町一丁目七番地です。知りませんでした。(むしろ一丁目一番地かと思ってた。)

小学校の社会科見学以来の「国会議事堂見学」に行ってきました。

振り返りですが、日本では、大日本帝国憲法が施行され、帝国議会が開催されたのは1890年(明治22)のこと。

そのような日本で、議事堂建設計画が本格的に始まったのは、明治40年ころだそうです。当初、議事堂建設の建築家に選ばれたのは、妻木頼黄でした。ところが、これに待ったをかけた人物は、辰野金吾です。彼は、「建築家になったからには、生涯この3つを自分が設計したい」という野心があり、1つ目は「日本銀行本店」、2つ目が「東京駅」(中央停車場)、そして3つ目が「国会議事堂」だったそうです。

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この洋画は、後藤慶二が辰野金吾の還暦祝いに贈った「辰野金吾博士 作品集成絵図」。辰野作品が並ぶ架空の街が描かれているのです。本物を美術館でみたことありますが、とても大きい絵です。

「国会議事堂」のコンペは、揉めに揉め、妻木が病に倒れて亡くなり、辰野もスペイン風邪でこの世を去ってしまいました。議事堂の建設は、どんどん遅れ、現在の国会議事堂は昭和11年にようやく完成しました。

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1919年(大正8年)2月、応募作品118通中、一次選考・二次選考を通過した4図案の中から、宮内省(現在の宮内庁)技手の渡辺福三案(実際には宮内省内匠寮有志による案)が1等に選ばれた[3]。当選案を参考に大蔵省(現在の財務省)臨時議院建築局が実際の設計を行い、デザインは大幅に変更された。1920年(大正9年)1月30日に原敬内閣総理大臣(原内閣)などが参列して、現在地である永田町の高台において地鎮祭を挙行、新議事堂の建設が始まった。(ウィキペディアより)

当時の日本の建築技術の粋を注いで、すべて国産の材料での完成を目指したと言われています。鉄骨鉄筋コンクリート造3階建て。中央塔部分は4階建て、塔屋最上部は9階建てです。

外観は3種類の花崗岩を使った石積み、内装には33種類の大理石、蛇紋岩をはじめ、沖縄県宮古島産珊瑚石灰岩、橄欖岩、黒髪石、尾立石、日華石など珍しい石材も使用され、こうした石材は日本全国から取り寄せられたとのこと。確かにさまざまな石の表情が豊かな建物です。建物各所の写真からそれがよくわかります。

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中庭を見ても、さまざまな石材のテクスチャーが豊かでとてもきれいです。

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中央広間には、議会政治確立に功労のあった伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が三方に立っています。

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中央広間、上部のアーチの装飾もステンドグラスも豪華絢爛です。

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エレベーターの上部には、美しいペディメントがついています。

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エレベーターホールの照明は、竣工当初は本当にろうそくだったのかもしれませんが、現在は炎の形をした電球がついています。

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エレベーターホールの天井のアーチの装飾も、トップライトのステンドグラスも素敵すぎる・・・。

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この部屋は、天皇陛下の御休所とのこと。折り上げ格天井の装飾が、洋風の調度の中でも、和風な趣が感じられます。

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こちらのお部屋は、他の皇族、海外からの賓客のお休所だそうです。

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衆議院の議場。傍聴席から見ると、狭そうに見えます。傍聴席の急角度のベンチから、議席のようすも想像できそうでした・・・。

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見学者出入口付近にみえる、石材に亀裂が入った部分は、東日本大震災でできたものとのことです。関東大震災後に竣工した国会議事堂は、耐震性にとても優れていたようです。

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議員会館の窓辺からの風景。現在の首相公邸は、昭和4(1929)年に竣工された旧官邸を曳家・改修したもので、平成17年(2005年)より使用されています。主要部分は鉄筋コンクリート2階建て。設計者は大蔵省営繕管財局工務部技官の下元連。フランク・ロイド・ライトが設計した建築は、大正末から昭和初期の日本の建築家たちに大きな影響を与えましたが、下元氏は「ライトの模倣ではない。ライト風です。」と、のちの回顧談で話していたとのこと。 RC造の建物の曳家、大事業だったと思いますが、新築せずに使い続ける決断をしたのは、すごいことだと思いました。

なかなか見られない、貴重な建物を見ることができました。国会議事堂は、古い建物であるべき、と、改めて思いました。なぜなら、この国には、民主主義の長い歴史があることを諸外国に対して、強く印象付けることができると思うのです。 古い建物を使い続けることには、そんな意味もあると思います。





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