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秀吉はなぜ唐入したのか

豊臣秀吉は天下統一後、唐入(中国侵攻)しました。
先日、左翼史観を排除した歴史教科書を作ったという方にお会いしたのでなぜだと思いますか?と訊いてみた。

A .「皇帝でしょう」

という、その実績にそぐわぬ言動に少しびっくりした。
内心別の回答を期待していたのだ。

以下に主な説を挙げる

  1. 中華統一

  2. 武士の失業対策

  3. スペインが明を狙っていたので先に獲るしかない!

  4. スペイン同盟

大半の方が①だと思っていると思う。
学校の授業でもそう習ったのではないだろうか。

しかし、最近はもっと広い目線で語られている。
まず天下統一したことにより、褒美として配れる土地が無くなった。
そして大名たちは膨張(下剋上)モードである。
更に土地や名誉が欲しかったに違いない。

もっと言うと大名に使える武士が困る。
合戦が無いと失業してしまうのだ。
そんな彼らを食べさせるために組んだのが唐入だったとする②

いやいや、もっと広い視野を持て!というのが③
イスパニアが来て大陸取られたら日本は属国になるしかないよ!
その前にこっちが先手打つしかないよ!
やつらはラフタ船持ってるよ!
海の上じゃ勝ち目ないよ!

その③の前に当時の日本は外洋船がなかったので
外洋船をイスパニアに用意させて
実践は日本軍がやるというのが④

しかし、合戦終了後に血を流した日本よりイスパニアが上となると知って同盟決裂

よって、当時外洋船がなかった日本軍は朝鮮半島から入るしかなかったのである。

さあ皆様、いかがでしょうか。
どれが本当だと思います?

ここで余談が。
日本史のミカタという本で井上章一先生が述べてました。
イスパニアは面じゃなくて点の支配。
ようするに土地を奪ってるのではなく寄港できる港を持っているだけ。
兵力もない。
その寄港を潰せばよかったんじゃない?と笑

確かに③ならそれで済みそうですね。

個人的には①〜④全部ありなんじゃないかと思います。
欲望と現実的な目線とありあわさったのが実態ではないでしょうか。

結果はご存知の通り。

ちなみにChatGPTくんに訊いてみた

豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、1592年から1598年までの期間にかけて行われました。出兵の背後には複雑な政治的、軍事的、外交的要因が絡んでいます。以下は主な要因です:

1. **対明の影響力確立:**
豊臣秀吉は、当時中国を支配していた明王朝との外交的な繋がりを持ち、朝鮮半島を通じて明との貿易を行いたいと考えていました。また、対明において日本が存在感を示すことで、日本の国際的地位向上を期待していたとされます。

2. **朝鮮の支配層への介入:**
朝鮮は当時、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時期に政治的混乱があり、豊臣秀吉はこれを利用して自らの影響力を強化しようとしました。朝鮮の李氏朝鮮に介入し、影響力を持つことで朝鮮半島を経由して中国との交易を強化する狙いがありました。

3. **後北条氏への対抗:**
豊臣秀吉は、戦国時代の最後に北条氏との関ヶ原の戦いを制し、関東地方を支配しました。しかし、豊臣政権を脅かす存在となる可能性を恐れ、関東地方への進攻を考えていました。この地域を通過する経路として朝鮮半島を選び、朝鮮出兵が一環として行われたとされます。

4. **内政の安定化:**
豊臣秀吉は、内政の安定化と兵力の削減を図る一環として、武将たちに戦争の場を提供し、戦功を挙げさせることで、国内の勢力均衡を調整しようとしました。

これらの要因が複雑に絡み合って朝鮮出兵が実施されましたが、出兵は長期化し、多くの被害をもたらしました。結果的に、日本、中国、朝鮮の三国の関係に大きな影響を与えることとなりました。

ChatGPT

いや、3は絶対嘘やんw
ちなみに「なぜ唐入したの?」と訊いたらそんな事実はないと言われました。
まぁ唐入のための朝鮮出兵だったわけだけど、、、

90年周期説

ここで面白い話が。
入江隆則「太平洋文明の興亡」にある話らしい。

日本に鉄砲が伝来して鎖国するまでが90年
日本が開国して太平洋戦争で敗れるまでが92年
らしい。

なかなか面白い見解だなと。

並べてみるとそうでもなかったねw

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