しぶとさを見習う
あれだけ「先の無い絶望」を謳っていたのにどうしてでしょう。
もう少しだけ…といいながらこの先をどうしても見てみたくなる。
国内格闘技で充分な励ましを頂いているのに、海外でかつて名を馳せた方々も一部は再び試合に向かうものも現れた。
最初は「特権や付加価値がある方々は違いますね。」と大変そうだと他人事だったのですが…どうやら私もまだアップデートに拘らず、過去の出来事を掘り下げて大切にしていく両方の考えが…いや違う。
もしかしたら「自分らしさ」というのはこれまで纏めたことからの積み重ねによるものかもしれない。
私はまだ諦めない。
諦めたくない。
正直やりきった部分もある。
だからこそ私も先をこのnoteをご拝読頂ける方に見せる必要があるのかもしれない。
確かに生きていたくないと思うことばかりです。
逆に言えば覚悟が足りなかった。
今は違う。
これだけのネタがあるのなら、ブラッシュアップのみ!
誰しもが羨む生き方は設定でしかない。
蔑まされることもそう。
もう構わない。
今はもうシンプルに目と耳やあらゆる感覚で経験したことに助けられていることを忘れずにいこう。
それが醜くても、美しても…いやそんな単純じゃない。
だが!
それだけこの先を見ていきたい。
記録していきたい。
何度も生きていて意味がないと思いながら、じっくりと育ててきた苗木が誰しもあるはずと最近気がついた。
何者かに踏み荒らされる権利は誰にもないのですから。
忘れぬうちに残しておく。
小さくて…目に留まった方からはすぐにこぼれ落ちる決意でも、記録することに意味がある。
皆は都合の良い幻想が本当に苦楽で他者から表現されて決めつけられる人生を歩むことに関して肯定はできても疑問はあるかもしれない。
確かに0より1がある方が生きやすいかもしれない。
だが、その0の苦しみをしらずに暮らす人間の脆さを間近で感じる。
綺麗事を言えないといいつつ自分には関係ないと誰かは記録していた。
もうその記録者は私にとって道化だ。
なら、0で生かされている経験を紡ぐことにしよう。
生きやすさを求めるというのはそういうことです。
結局は、理想と優等生理論に憧れているだけ。
子供の頃から。
私もそうだった。
今ようやくその呪いから解けた。
たとえ揶揄されても1以上が許されていて、恵まれている人間の世界だけが正しいと思っているのならこちらとしてはそやつらを材料にして作品を綴る目的になる。
復讐というバイアスではなくネタ。
それに、恨まれるって割と認めたくない人を認めてしまっている段階でもあるのかもしれない。
私はそれが許せない。
今日も思い上がっている人間から自分も学び、そのネタ全ていただきます。
こっちも発信するリスクを負っている。
だからしぶとく生きていく。
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