かわいそうな私にさよなら
2017年にアナウンサーでタレントの小林麻央さんが亡くなったとき、その前年に彼女がイギリスBBCの「今年の100人の女性」に選ばれた際に寄せた言葉が話題になりました。
私は彼女の言葉に打たれたのですが、それは最初の夫が40歳の若さで他界していたことも関係していたように思います。
世界的な広告賞を受賞し、意気揚々だった彼が若くして亡くなったことは悲しいことだけど、かわいそうなことではない、と私は亡夫を重ね合わせて麻央さんに共感したのです。
ところが、彼が亡くなって12年目の今年、気がついたことがありました。
かわいそうと思ってほしくない、というのは麻央さんの言葉ですが、その言葉に亡夫を重ねたのは自分です。
それって見方を変えると、かわいそうな人と見られたくないという価値基準を私が持っているってことでもあります。
価値基準は、外側の世界を見るときに何らかの判断を下すフィルターになるわけですが、そのフィルターって、自分aの言動(アウトプット)にも知らずのうちに影響を与えているんですよね。
私はかわいそうな人になりたくなかった
気づいたのは、私は、若くして夫を亡くしたかわいそうな人とは思われたくなかった、ということでした。
だから、彼が亡くなってわずか2年で単身渡米して、人生の再構築を始めたのかもしれないと、新しい認識が生まれたのです。
もちろん移住は望んだことなのですが、「同じ場所にいるとくよくよして“かわいそうな人”になってしまう、それは嫌だ」という気持ちがその望みを生み出す要因だったかもしれないというふうに見えてきたんです。
当時、私は焦っていました。
このつらい経験を、何か役立つ形に変えなければ、と。
必死でもありました。
あの経験をしたことは必要だったのだと、心から言える人生にしたい、と。
でも、役立つ形とか、必要だったとか、たぶん、そんなの、いらないんです。
いや、あってもいいけれど、なくてもいいんです。
起こったことに意味を見出したいと思えば意味づけはいくらでもできるし、意味などないと思えば意味はなくなる、私たちはそんなふうな主観の世界を生きているだけ。
じゃあ、いいじゃん、意味を求めなくても。
ただただ、つらかったし、寂しかったし、混乱したし、理不尽だと思った、それでいいじゃん。
肩の力が抜けました。
そもそも私はかわいそうではない
振り返ってみて思うのは、かわいそうな人と見られたくない、という気持ちが、前夫亡き後の私を生かしていたということです。
全然前向きじゃない原動力だけど、今の私が俯瞰で見ると、途方に暮れずに生きていくためには最善の手段だったようにも思えます。
これはまさに動的平衡。
思うに、人生って、世界って、たぶんあるがままで完璧にバランスが取れているんです。生きて存在しているということがもうすでにバランスを取っているってことなんです。
ただ、そのバランスの取り方は思考で考えられる範疇を往々にして超えているから、しょっちゅうもがいて右往左往するのです。
でも、その右往左往さえ、自分がそうと気づかずに取っているバランスなのです。
今、私は、前夫と過ごした最後の日々を改めて認識し直しています。
そこにいるのは、病気の男性と結婚して大変な思いをしている私ではなく、好きな人と結婚し、日々の苦楽を分かち合い、時に喧嘩して時には大笑いして、懸命に生きている私。
その日々がなくなり、悲嘆にくれ、何とかしたくてあがいている一人の人間。
つらいことも、悲しいこともあったけど、同じくらい、いや、それ以上に、楽しいことも、嬉しいこともありました。
それって、今と同じ。
かわいそうと思われないように頑張っていたことも含めて、全部が「私、生きてた」というだけのことでした。
よく生きました。
自己を受容するためには、過去の自分をありのままに受け入れることも大事だとかつて自分で書いたのですが、私は今、あの頃の自分をようやくありのままに受け入れたのかもしれません。