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感謝が大事って、わかっちゃいるけど

感謝することが大事だって、いろんなところで見聞きします。

思えば、遥か昔、小学校の道徳の時間にもみっちり学んだ気がしなくもありません。

ともすれば、このマガジンでも、似たようなことを熱く訴えているかもしれません。

でも、感謝が大事だって話を見聞きすると、私の中の一部が「ケッ」ってなることがあります。

もちろん、動作学実践者=矢印は自分に向ける、ですから、「ケッ」と感じる自分に何かがあるんだろうなぁ、とは薄々気づいていました。

けど、まあ、そんなに優先順位が高いとは思わなかったので、放置してきました。

ところが、先日、動作学チームの川尻隆とミーティングをして、それが例のごとく動作学コーチングセッションのような時間となって、私ははたと気づいたのです。

感謝できないことに感謝しようとしてこじらせた経験があるから、感謝が大事って言われると「ケッ」となるんだ、と。

感謝できないことに感謝しなくてよかったのに

かつての私は、「感謝が大事」ということを、なぜか「何にでも感謝しなければならない」とねじ曲げて解釈してしまっていました。

だから、すごく腹が立ったことでも、とても好きになれない人でも、何でも「感謝しなきゃ!」って自らに感謝を強いて、インプット・プロセス・アウトプットの流れを詰まらせていたんです。

でも、腹が立った、好きになれない、ってアウトプットなんですよね。

出てきたアウトプットは変えられないんです。

腹が立っているのに感謝、好きになれないのに感謝、なんてことをするのは、床にこぼした牛乳を何もなかったことにしてパックに戻すくらい無理な話。

しかも、感謝することはよいことだと善悪を規定もしていたから、感謝できないのはよくないことだと自分を責めてもいました。

ああ、もう、書いているだけで苦しいです。

そんな苦い経験があったがために、「感謝が大事」ということを見聞きすると、過去の感情が自分の気づかないところでモゾモゾっと湧き出て、「感謝が大事って言われるとつらい人もいるんだよ!」と一人勝手に憤っていたわけです。

感謝するのと感謝できることを探すのは違う

相反するようですが、感謝はやっぱり大事だと思います。

でも、それは感謝することがよいことだとか立派なことだからではなくて、自分が幸せを感じて生きるために大事なんだと思っています。

腹が立っている、あの人が嫌いだ、という状態のままでいては、その状態でインプット・プロセス・アウトプットが続くから、腹立たしい、嫌だっていう状態の延長のアウトプットが続きやすいんです。

かといってかつての私のように感謝できないことに感謝しようとするのはインプット・プロセス・アウトプットをこじらせるだけ。

じゃあ、どうするかというと、何でもいいから他に感謝できることを無理にでも探し出せばいいんです。

腹が立っている、あの人は嫌いだ、それはそれで存分に味わい、一方で、今日は天気がよくてありがたいな、というふうに、感謝できる他のことを探してみるんですね。

それがたとえ無理矢理でも、感じる感謝の量はわずかだとしても、嘘にはならないような感謝の対象物を何か一つでも見つけ出せたら、新しい視点をインプット、かつポジティブなインプットをしたことになって、アウトプットが感謝できる方向へと自然にシフトするんです。

今思えばそんな単純なことが、なぜできていなかったのか…。

と、私がついやりがちなのが、「過去の私、全然できてなかったじゃーん!ダメじゃーん!」とバツをつけちゃうこと。

でも、それって過去という、自分の一部を否定することになって、自己というものをまるっと受容することからは遠のくので、また違う部分でつらくなってきちゃうんですよね。

だから、あの頃は、感謝できないことに感謝しようとしてしんどかった、ってその気持ちをちゃんと味わってあげる。

と、同時に、24時間365日の全瞬間がつらかったわけではないよねっていう客観的なニュートラルな視点もインプットしておく。

たぶんそれが自分を受容するってこと。

自分を受け入れる度合いが増すと、その部分における他人への寛容度が増すということは何度も体験してきました。

だから、自分に矢印を向けること、そして自分に矢印を向ける人が増えることは、結果的に、世界を寛容にすることだと信じてもいます。

今後も地味に、しかし希望を持って取り組んでいこうと思います。