【魔拳、狂ひて】西洋人形の電話 七

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「ほう、東京から……。それはそれは、遠い所から遙々、お疲れ様で御座いました」
 座敷に正座する、 皺と白髪を蓄えた男性。
 その人物は挨拶をすると、恭しくお辞儀をした。
 この家の家主にして、北村さつきのかつての担任教師、君島和久であった。

「いえ……こちらこそ、突然押し掛けてしまいまして、申し訳ございません」
 衛の方も、丁寧にお辞儀をする。
 それに倣い、隣に座るマリーも、黙ってお辞儀をした。

 君島はそれを見て、嬉しそうに笑った。
「いやいや、久し振りの来客だったので、嬉しい限りですよ。古くからの友人や教え子の殆どはこの町から出て行ってしまって、うちを訪ねる方がめっきり少なくなりましてね。定年で教職も辞めましたし、やることも殆どなくて、退屈なんですよ」
 そう言うと、君島は少し寂しそうな顔をした。
 これまでの人生の殆どを、教職に捧げて来たのである。
 その誇りと僅かな喪失感が、君島の様子から伺えた。

「定年を迎えてからは、代わりに農業に打ち込むようになりましてね。美味しい野菜が作れるように試行錯誤する毎日です」
「農業ですか」
 林田が口にした言葉に、衛が反応する。
「ええ。ひょっとして、あなたも経験が?」
「はい、実家に田畑がありまして。向こうで過ごしていた頃はよく田畑を弄っていました。作物が実った時の喜びも、夏場や雨季の苦労も、よく分かります」
 世間話をしているうちに、衛の心に懐かしい思い出が甦る。
 言葉の節々には、経験者が持つ独特の感情がこもっていた。

 それを感じ取り、君島は再び嬉しそうに笑った。
「そうでしたか……。今の私にとって、農業は数少ない生き甲斐です。今日も朝から、畑の方に出てましてね。帰って来てから、『林田校長先生から電話があった』と家内から聞きました」
 そこで林田は、神妙な顔をした。

「何でも、北村さつきさんのことを調べてらっしゃるとか……?」
「はい。何かご存知ありませんか?」
 本題に入り、衛の表情が一層真面目なものになる。
 マリーも、緊張した面持ちで君島の答えを待った。

「……」
 衛の真剣な顔を見て、しばらく君島が沈黙する。
 そして、少し間を置いてから、遠い目をした。
「……久し振りに聞く名です。もう六年も経つんですねえ……」
 しみじみとした調子で、君島が呟く。
「……ええ。彼女がこの街を去ってから、六年になります」
「君島先生、さっちゃんのこと、教えてください」
 先程まで黙っていたマリーも口を開き、真剣な表情で頼み込む。
 それを見て、君島は悲しげに笑った。

「そうですか……もう六年か……もし彼女に、あんなことが起こらなかったら、もう中学生になってる頃なんですね……」
「……? 『あんなこと』……?」
 君島がぽつりと零した呟き。
 その言葉が、衛の頭に引っ掛かった。
「……六年。……この六年間、色んなことがありましたが、あれほどまでに悲しい出来事はありませんでした……」
「『悲しい』……?」
 ぽかんとした表情で、マリーが呟く。
 衛もマリーも、君島が何を言っているのかが分かっていなかった。

「あの後、テレビや新聞の取材が何度も来ました。その時に全てをお話ししたんですが……良いでしょう。私の知っている限りのことを──」
「──すみません。少々、よろしいでしょうか……?」
 君島の言葉を、衛が遮る。
 衛の頭の中の引っ掛かりが、嫌な予感へと変わりつつあった。

「……? はい、何でしょう?」
 君島がきょとんとした表情で聞き返す。
「……確かに我々は今日、北村さつきさんのことについて、伺いに参りました。さつきさんの──今の住所や、連絡先について」
「住所……? 連絡先……?」
 衛の言葉に、君島が眉をひそめる。
 今度は逆に、君島が話の内容を理解出来ていなかったようであった。

「はい。私の傍らのマリー──彼女は、北村さつきさんの、友人なのです。ですが、さつきさんは六年前から消息が掴めなくなっています。今回我々が訪問したのは、さつきさんの現在の居場所を捜索することなのです。……ですが、先ほどから伺っていると、あなたが仰っている内容は……まるで、その……」
 そこで衛は言葉を切り、マリーの表情を伺った。
 不安そうな顔をしていた。
 それを見て、衛は一瞬だけ躊躇ったが──すぐに意を決し、君島に顔を向けた。

「……まるで、さつきさんの身に何かが起こったような……そんな言い方に聞こえるのですが……」

 衛のその言葉により──しばしの間、沈黙が訪れた。
 君島の表情が、徐々に暗く重苦しいものへと変わっていく。マリーの表情も、徐々に不安に侵されていく。

 その間、誰も話さなかった。
 君島も。
 マリーも。
 そして衛も。
 誰一人も、言葉を発しなかった。
 壁に掛けられた時計の針が刻む音のみが、座敷部屋の中に静かに響いていた。

「……どうやら……」
 痛い程の静けさの後──君島が、おずおずと口を開いた。
「……私の、早とちりだったようですね。……家内からは、北村さんのことについて知りたいとしか聞いていなかったので、私はてっきり……。……ですが、あなた方はさつきさんに何が起こったのかご存じないようですね……」
 君島の声は、少し震えていた。
 それを思い出し、口にすることが恐ろしい──そう物語っているかのように。

「……何が……あったんですか……?」
 マリーが口を開く。
 相変わらず、不安そうに眉をひそめていたが──その表情に、若干の絶望感が混じっていく。
「……さっちゃんに……さっちゃんに、何があったの……!?」
「…………」
 マリーのその言葉に、君島が苦しそうに顔を歪め、俯き、沈黙した。しばらく、そのまま沈黙していた。
 
 やがて──君島が顔を上げた。そして、重苦しい口調で語り始めた。
「北村さんは……。北村さんは……あの日……」
 そこで君島は、一旦言葉を切った。
 わざと切った訳ではなかった。
 思うように、言葉が出せないようであった。

 衛とマリーは、次に発せられる言葉を、辛抱強く待った。
 マリーには、どんな言葉が飛び出してくるのか分からなかった。
 しかし衛は、何となく察していた。
 具体的なことは分からなかったが、これまでの君島の様子から勘付いていた。
 そして──ゆっくりと、君島が告げた。

「……新居に向かっている途中……交通事故に遭ったんです……」

 ──沈黙が、再びその場を包み込んだ。
 先程よりも痛々しく、そして長い沈黙が、三人を呑み込んだ。

「…………嘘だ…………」
 沈黙を破ったのは、マリーの一言であった。
「……嘘だよ。…………ねえ、先生。……嘘でしょ…………? ……嘘、なんでしょう…………?」
 呆然とした表情で、マリーが問い掛ける。
 悲痛な感情が、その声に嫌という程こもっていた。

 その言葉に対し、君島は俯きながら頭を振った。
「……いいえ……本当のことです……」
 君島の目は、真っ赤に染まり、その表面が涙で濡れていた。
 少しでも気を緩めると、大粒の涙が零れ落ちそうな程であった。

「事故現場は、横浜の首都高速でした……。あの時、北村家の車は……ハンドルの操作ミスで、破損して修理中だった道路の壁を突き破り、海へと転落してしまったんです……」
「……」
「……車の中からは、北村さんのご両親が遺体で発見されたんですが、北村さんは見つかりませんでした。車の窓が割れていた為、彼女のみ車中から逃れたのではと、必死に捜索活動が行われたのですが。……結局発見されず、六年が経過しました……」
「……そん……な……」
「おそらく……彼女は……まだ、海の中に……!」
 そこで、君島が言葉を詰まらせる。
 口元を手で覆い、嗚咽を漏らしていた。
 両目を固く閉じ、堪えていた涙が、その隙間から溢れ出ていた。

「…………」
 衛は、暗い表情で俯いていた。
 無言で、君島が話した真実を、ゆっくりと噛み締めていた。
 こんな結末があって堪るか──そう、心の中で呟きながら。

「……じゃあ……」
 マリーが震える声で呟く。
 愕然とした表情であった。
 大きく見開かれている目は、君島の方を向いていた。
 だがその瞳は、何も写してはいなかった。

「……それじゃあ……あたしは……あたしは……」
 心が絶望によって満ち溢れていく。
 待ち受けていた事実を受け止めることが出来ぬまま、彼女はうわごとのように、そう呟き続けた。

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