神について。そうであるから、そうである。

まず、神が在るとして、神は変更を欲しない。2×2を5にしうるが、(この事実は私たちの能力が神とは違い限定的なものであるから、認知、もしくは納得は不可能である。)2×2を4と欲したため、そうなった。そしてそれを変更することを欲しない。それは、変更が不可能ということでは決してない。
神は全能である。無力を与えられていない。いかなる不可能も認められない。つまり、全てが選択可能であり、かつ実行可能である。その上で、そうあるように欲し、その在り方からして、そうでないように欲することがない。

では、なぜ祈るのか。神の全能を認めたら、神の今ある事実に対するいかなる変更も、世界に対するいかなる使役も認められなくなる。
全知全能善なる神は、神のその在り方と、今ある現実において認められない。全知全能である神が今この現状をどうも思わないのであれば、少なくとも我々人類にとって神は善なるものではない。反対に、今この事態を知らないのであれば、事態を憂慮していながら変更が不可能であるならば、全知でも全能でもない。
今この瞬間の世界が神の創造物であるとするならば、今この瞬間の世界こそ、神が全知全能善なるものではないことの明確な証明である。
また、私たちが想像する偉大なる神は、ある一種の、七十億ある生命体のたった一つの個人的な事情に介入するほど矮小なのであろうか。

神の存在を議論するにあたって、私たちのあまりに不出来な言語的創造物は、つまり論理世界は、こうして内側から崩壊する。
神は、論理世界には存在しえない。少なくとも理性で語れる位置にいない。

ある人間の苦しみについて、キルケゴールは「死に至る病」においてこう語る。
"彼は全世界から、不当な扱いを受けたものでありたいのである、彼は苦しみを自分の手許にもっていて誰にも奪われることのないように心がけることこそ重大なのである―だって、そうでなければ、彼は自分の正しいことを証明することも自分に納得させることもできないわけではないか。"
世の不条理や苦しみから逃れえない時、それらが諦めでは済まされないほどの大きさになった時、不条理や苦しみは自分にとって正当かつ重大で、必要なものだと思わなければならない。いや、そうせざるをえない。シェイクスピアより、"避けることができないものについては、抱擁してしまわなければならない。"
私たちは、そうであることに対して、そうせざるをえないことに対して、なんとか誤魔化し、正当性を担保しなければならない。

これは神の存在についてもいえる。
私たちが生きていく限り、世界の不条理に対して、納得しなければならない。その拠り所が、すり合わせが、神であった。全てを納得させるのが神であった。存在の価値を、生きることの意味を、この世界の素晴らしさを自らに納得させるのが神であった。反対に、存在の無価値を、生きることの無意義を、この世界の醜悪さを自らに納得させるのが神であった。
だから祈る。もう、どうしようもないのだから。もう、するべき行為など、なにもないのだから。
天に向かい、両手を胸の前に組んで、血が出るほど握っても、なんの意味もない。仏壇の前でお経を読みあげることも、その後ろで両手を合わせて目を閉じていることも、なんの意味もない。しかし、祈る。不条理を前に行為しない自分を認めたくないから。なにもしないことが不可能であるから。つまり、納得したいから。
そしてこの全く無意味で不能で反理性的な行為は、生きていく上で最も有意義かつ能率的な理性的行為でありうる。

こうして思考と行動の限界に、つまり論理と現実の臨界点に、神が生まれる。思想が現実を追い越した時、思想を現実が叩きのめした時、神が生まれる。神は、私たちより後に生まれる。神を生みだすのは、"私"である。
そのため、神はそれぞれによってそれぞれの思想を持ち、生物でも無生物でも、有機物でも無機物でもありうる。例えば、従順な子供にとって、厳格な両親は、神である。農村の人々にとって、水は、空気は、神である。資産家にとって、金は、神である。権威主義者にとって、権威は、神である。夢を持つ全ての人々にとって、夢は、神である。聖書は、コーランは、バガヴァッド・ギーターは、それぞれの信者にとって、それ自体が神である。無神論者にとって、理性は、論理は、神である。
そしてそれら神たちは、その存在からして、思想からして、そのほとんど全てにおいて間違っている。正しさは、論理世界を脱することができない。また、時間を越えられない。しかし、神は論理世界の外にある。正しさの外にある。

それゆえに、生存をめぐって、というよりも、生存させられることの正当性への認知をめぐって、私たちが生み出した論理世界外に在る神は、世界の不条理との契約を履行することを可能にする。
私たちは、神を生み出すことなく不条理に納得できるほど、強くない。また、世界はそこまで単純でも美しくもない。
神は私たちに内在する。神は純然たる他者的な"私"である。

さて、神を生み出さなければならないほどの世界の不条理とは、いったいどのようなものなのか。それは、世界の必然性の偶然性、つまり、存在の確率的決定性に集約される。カルマ、運命などといわれるが、もっと簡単に、"そうであるから、そうである"。

卑近な例をあげれば、犯罪者と被害者。私たちの世界では、必然的に犯罪者になり、偶然的に被害者になる。しかし、元を辿ればどちらも偶然である。この世界における必然性の偶然性はこれで説明される。
犯罪者は、家庭環境、生育環境、性的嗜好、思想傾向、身体不具、精神病、セロトニン受容体の型、遺伝子、気質、性格によってほとんど必然的にそうなる。これらは選択したのだろうか。違う。偶然である。もっといえば、存在することは選択したものだろうか。違う。純粋で完全な強制、つまり偶然である。
そうであるためにそうであり、そうであったためにそうなった。そうなったのは必然であり、そうであったのは全くの偶然である。
反対に、誰かが犯罪者でないのは、全くの偶然であり、その上で必然である。これも広くいえば、ああならないのは、こうなったのは、全くの偶然であり、必然である。

コンプレックスの解放は、いや、もっと敷衍して、不条理の被害者たることへのどうしようもない吶喊は、必ず犯罪で終わる。"罪を憎んで人を憎まず"という言葉は、道徳であり倫理でもあり、かつ単に理論である。

また、被害者は、そうなったのは全くの偶然であり、その偶然性は様々な偶然を伴って必然的にそうなる。
つまり、どちらも同じことで、偶然的にそうあり、必然的にそうなる。ここに、自由意思は否定される。私たちの意思に最も似た必然性は、そうあらしめた存在を、つまり神を、憎むか愛するかを選択させる。(ように錯覚させる。)


そんな世界を、神と共に、生きていかなければならない。
私たちの生きる意味は、自らの幸福の希求である。また、私たちの生きる理由は、死ねないからである。これ以外全ての回答は、末梢的であるか、間違っている。
例えば恋人や友人、家族のために生きる。夢の達成のために生きる。それらは全て末梢的な回答であり、根底にあるのは畢竟自らの幸福である。
また、繁殖にために生きる。社会に貢献するために生きる。これらは完璧に誤りである。科学でも理屈でも間違っているが、なにより私たちが心の底から繁殖を目的として行動しているのか、社会貢献のために行動しているのかということを少しも考えていない人間が、達観した素振りでいう、つまらない上に間違っているという最悪の回答である。
もっといえば、たとえそのために自覚的に生きている人間が存在したとしても、それはただそう生まれ、そうであるからそうであるだけであって、意志目的を排してあり、ナンセンスである上、末梢的な意味しか持たない。

つまり、私たちは、死の不可能性という果てしなく突破が困難な外殻に閉じ込められながら、茫漠な時間と曠然たる空間の中、芥子粒ほどの幸福を探して彷徨うゾンビである。

生きる意味を考える人、これ以外の生きる意味を見出そうとする人は、ナンセンスであるというより、考え足りないだけである。答えは驚くほど簡潔に、そして明確にある。意味などなくとも、死の不可能性を越えられぬ私たちにとって、生きていくことは前提にあり、考えるべきは、「どうすれば幸せになれるのか」である。そしてこれを考えることこそが、最も純粋な不幸の萌芽である。

と、私が、世界の不条理の被害者が、カルマの傀儡が、ここまで考えなければならないのは、言語化しなければならないのは、全くの偶然であり、必然である。つまり、"そうであるから、そうである。"

理性は絶叫する。"死んでしまいたい!"
神は静かに告げる。"生きていくしかない。"
私は英雄的に宣言する。"死にたい!しかも、死にたくない!"


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