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最悪な世界と解しがたい信仰について(Denzel Curry「Melt My Eyez See Your Future」全曲解説)

はじめに

Denzel Curryはこのアルバムで、"今世界で起こっていること"、人生そのものを表現しようとした。
そのためこのアルバムは、基本的にある程度陰鬱に進行し、世界がどれほど最悪なのか、自身の精神状態がどれほど危ういのか、かつそこから逃れようとする信仰を知的でユーモラスに、そして多様に表現している。

まず、世界が穢れていることは個人の極性によらない事実である。それを感得しない人間は単に視野が狭い。しかし、本当の意味で世界を素晴らしいものだとする幸福の人もいる。そういった人間の矮小な世界では、まるで人間生活が容易であるかのように、まるで人生がプレゼントであるかのように表れる。
ただ慧眼なCurryにとって世界とは、戦争、人種差別、生得的な要因による格差をはじめとしたあらゆる不条理が蔓延り、苦痛と憂鬱を行き来する、"ゾンビみたいに生き続けることしか出来ない"、"ブルックリン・ドジャースの統合より暗い"、"コービーが亡くなってしまうクソみたいな世界"である。
また人生とは、そんな世界と、"ゴリアテ(旧約聖書における巨人。転じてとてつもなく巨大な存在)のようなストレスと26年間戦い続ける人生"である。

Curryは以前、世界と人生に対して、無限の才能を活用すること、人生の教訓を理解すること、究極的な解放を意味する"ULT"という造語をもって、能動的な悟りを開こうとした。
しかしCurryは"もう以前のようなラップをする俺は聞けない。"と宣言したように、そこから逃れうる"教化された虚無"、つまり悟りを"待つ"のである。その意味で信仰を口にする。
反宗教的な発言もあったCurryにとって、信仰は矛盾を感じる解しがたいもの。しかしCurryは善なる神を信じ、祈るのだ。正確には、神を心から信仰することができるよう祈るのだ。

ここまで理解すると、今作のタイトル「Melt My Eyez See Your Future」は、涙を流して先を見据える、という明るい希望的な意味にとるだけでは不十分であることが分かる。
タイトルの「Melt My Eyez」は、戦争や人種差別の蔓延る世界の穢れそのものを表すと同時に、それらを見て見ぬふりする人を揶揄する表現でもある。同時に「See Your Future」はそういった世界の有り様、鬱やPTSDに気を揉まれることなく前を向くという意味にとれる。
また、"Meltの定義は認識することだ。"というリリックにもあるように、目が溶けてしまうほどの世界の穢れの中、盲目になっても生きていくというような強さの表れともとれる。
さらに前述の通り、Curryにとって信仰は理性的に捉えがたいものである。実際このアルバムにも"おい神よ、地球は回り続けるのか?(人生に)迷ってしまった俺が、俺たちが見えないのか?"というラインがある。
ゆえに「Melt My Eyez」はそういった"論理と理論"に目を塞いで、「See Your Future」つまり信仰することを願う態度でもある。

Curryは"今世界で起こっていること"をそのまま表現した。
"なぜ真実を隠すと嘘を発見するような感じがするんだ?"というリリックからも分かるように、Curryは世界と人生に誠実にあろうとした。
ゆえにこのアルバムは、相当ペシミスティックなものになっている。しかしそれは、そういった芸術が存在することは、世界と人生に意味を与えることになり、それらの重荷を少しだけ和らげる。
むしろ、人生を素晴らしいものだと捉えようとすること、世界をユートピア的に捉えようとする不誠実な態度にはなんの意味もない。例えば、ある程度普遍的な美醜が存在することを認めなければ先には進めない。
少しズレるが、ファッションは身長が高い方が、痩せていた方が美しい。事実、ファッション業界はその価値観を提供し続けている。
ファッションとは"生来の先天的要素が露骨に介在する"物理的身体によって表現される、ルッキズムを前提とした"倫理的にネガティブな価値をももたらす"ものである。
しかし、どうしようもなく美醜は存在するし、異常も正常も在る。美しいものを提供することは、美の価値観を提供することでもある。
そこで、美、正常、普通の範囲を広げていくような多様性のあり方は危険だと私は思う。それ自体が美しくあること、正常であることの押し付けになってくるように思われる。
醜くても異常でも周りと違ってても許容される社会のあり方が健全な多様性であるように私には思われる。
少なくとも、倫理に反した人間性と、理論に不都合な事実に目をつぶることは現実の歩みを止めることである。

楽曲解説

だからCurryは"歩き続けた"。"汚れた、不潔な、卑劣な、腐った小さな世界"を歩き続けた。そういった不都合から逃れようとしなかった。(なぜなら、そう生まれてしまったから。)
実際Curryはアルバムの制作にあたって苦労したことを聞かれ、"自分の欠点に向き合うこと。"と解答した。
それはこのアルバムのイントロダクション「Melt Session #1」で、自らの自殺願望と女性をモノ化していたことについて謝罪したことからも分かる。
芸術的な才覚に呪われてしまった、世界に対して果たすべき役割を持ってしまったCurryにとって、自殺は悪としか思えなかった。"全身全霊で痛みを押し殺し"続けなければならなかった。
芸術はどうあっても闘争であり、逃走ではない。本当の逃走は、ひとつしかない。それが人生に内在し、秘匿されたものであるとするならば、その獲得はむしろ勝利に近いと私には思えるが。
またCurryは、本来的なHiphopが発生しうる環境にどうしてもあるマッチョイズムによるミソジニーそれ自体を、明確に悪だと分かっていた。

それらを認識せざるをえないこと、それらを自らに認め、反省せざるをえないことについて、
"俺の目は自分の中の不完全な部分を見る。おかしなことに、俺はそれを永久に、鮮明に見ることができる"とCurryは表現する。
そのためアルバムタイトルの意味を、自らの欠点を認識し、未来に向かうことともとれる。
またこのラインは、Kanye West「Runaway」にある"俺はいつも間違いを見つけだしてしまう。"というリリックにも影響されているかもしれない。
この楽曲は"俺が傷つけてきた人たちに捧げる。今こそ自分の精神を正す時だ。罪が悪の呪いとなる前に。渇きに打ち勝ち、元の自分には戻れない。俺はこのバースを神に捧げる。"と信教的に締めくくられる。

何度も言うが、今作は"今世界で起こっていること"、人生そのものを表現しようとした。その上で、世界の複雑さ、人生の極端さをそのまま示した。それ故に、言表の矛盾とまでいえるほど双極的なリリックも多く見られる。
「Walkin」でも、貧困層の黒人が犯罪に走らなければならない現状を嘆きつつ、"ストレス解消に大麻を吸おう。全部吹っ飛び、全部忘れられる。"と抑揚なく表現した。そしてそんな黒人のハンディキャップ、ディスアドバンテージを、Curryは"生涯走り続けて"なんとか克服したのだった。
それでもCurryは立ち止まらない。走らずとも、歩き続けなければならない。まるで今まで走ってきたことを無いものとされているかのように。

「Worst Comes to Worst」ではそんな"疫病、争い、飢えと死がつきまとう"、"天国の代償を払っているような場所(ゲットー)で"、"銃に頼らざるを得ない"貧困層の黒人に対してなんら働きかけをしない神に現状を直訴する。
主にこの楽曲は、そういった信仰への矛盾をどう飲み込むか、という葛藤を表している。(全知全能善なる神が存在しえないことは先日の記事の冒頭で触れた。)

続く「John Wayne」でも、"俺に必要なのは俺(me)と俺(myself)と俺(I)とリボルバーだけだ"とDe La Soulの楽曲を引用しながら、Curryの現状を的確に示すリリックがある。
ここでも強烈な自我に苛まれながら誰ひとり信用出来ず、銃が欠かせない生活を送っていることを表す。つまりCurryは、内的要因にも外的要因にも懊悩しているのだ。

「The Last」でも"いつの日も最後の日になりうる"世界やアメリカの暗い現状を、酒を飲み、大麻を吸うことでやり過ごす。
さらにその現状を打破するためとされている、"私たちが革命と呼ぶもの"でさえ、大義名分を持ったアメリカ的な資本主義が、商業的なニュアンスが根本に横たわっている。そのことを各人が認識していても、多くの人はSNSで言及する程度だ。
そんな現状をCurryは重ねて嘆く。

「Mental」でCurryは、そこから逃れうる最も優れた手段を考える。オッカムが言うように、"最善の解決策は常に最も単純な解決策である。"
"全ては自分の精神にある。大丈夫だって思おうとすると、涙が出てしまう。なぜなら全ては自分の精神に―"とコーラスする。
「全ては自分次第」といった言葉は、宗教を持たず、信仰に矛盾を感じてしまうほど理性的で、かつ容易に逃れようのない強烈な自我を持つCurryにとって、ほとんど絶望的な意味を持つ。

「Troubles」でも、"やるべきことなど何もないのに、黒人はハスリングしなければならない。"そしてそれは、"音楽でもドラッグでも解決できない問題"だとラップする。
そんな問題が山積する"人生はクソだ。"でも、"金はそうじゃない。"と資本主義のシステムから省かれた、神から見放された貧困層の黒人たちが拝金主義や物質主義、つまり資本主義に陥る様子を表現する。
Kendrickが「To Pimp a Butterfly」で示したように、逃れえないシステムを厭世的にラップするのである。

「Ain't No Way」では今までの流れとうってかわって、"神と自分の信頼、それは決して私を裏切らない"と宣言し、人生そのものの突発性、双極性をここにも落とし込んでいる。

「X-Wing」ではまたもアメリカ的な消費主義、物質主義に言及しながらも、
"いま俺の首にはダイヤモンドが輝いている"と、そこから逃れえない様子も表現する。
そこからだんだんとエスカレートしていき、最後には拝金主義のゲームに飲み込まれていってしまう。
こういった物質的なフレックスはHiphopの文脈では当然にあるものではあるが、今までの流れや1stバースのリリックをみるに、悲しみを覚えてしまう。

「Angelz」は信教的ではあるが、ここでも言表の矛盾、双極性が目立つ。
瞑想に自由を見出し、"天使に忠誠を誓った"Curryではあるが、"Jayのように生きるかJah(XXXTENTACIONの愛称)のように死ぬかだ。"とラップし、"もううんざりだ。俺は混乱し続け、天使は歌い続ける。"と明らかに反信教的な意味にとれるコーラスを挿入する。
そして最後は"俺は神のテストに合格し、人生を完全に理解した。翼の生えた天使、角の生えた悪魔。戦争に行く日はこの歌を歌う。"とラップする。ここも私には神や天使への皮肉にみえる。

「The Smell of Death」も同様だ。"人の言葉に従わず、神に従う"と宣言しつつ、"物事は良くならず、黒人は血を流した。それは死の匂い。それは去ることはない。"と現状を嘆く。これも信仰への皮肉にとれる。

「Sanjuro」にも解放の兆しは見えない。
Curryは"霧の中を歩き続け、未だ地獄の底から生中継している。"その上で、"北極より寒く、星のない夜空のように暗いラップゲームの中で俺は光らなければならない。アーティストとして生きていこうとしてるのに。"と黒人がゲームの中で消費されつつラップすることへの葛藤、アーティストとしての重圧も口にする。
最後は"どんな黒人も俺たちを(死へ)急かさないよう神に祈るんだ、畜生"と吐き捨てる。

「Zatoichi」ではそんな世界を、人生をとにかく切り捨てる。
"世界はファックだ。人生はクソだ。(そんな世界や人生と)決別することすら神は禁じた。"という組織的な宗教に対する疑念を持ち、自分自身を信じているから宗教は必要ないとするslowthaiによる激しいコーラスに乗せ、Curryは"笑顔を作ろうと思っても、すぐに険しい顔になってしまう。"と世界の有り様を嘆きつつ、
"一度力を合わせれば、世界は上手くいく。"
"論理と理屈の前にまずSlimeはどうしたんだ?(Slimeは仲間への愛情などを表すスラング)"と明るい箴言も挿入する。
この物語性を欠いた突発性、双極性、矛盾こそが世界と人生と人間の実際である。

「The Ills」ではそんな世界から、人生から逃れるため、"私がしたことすべてを赦してください。なぜなら私は辛うじて祈っているのだから。"と今までの神への批判的な態度や皮肉、それによる信仰への葛藤、そして今まで生きてきた疲労や苦痛を隠さずスピットする。
さらには"より強い力は自分の中にある。子供がサンタを信じるように、U-L-Tを信じる。"とやはり能動的な悟りを獲得しようとすること、つまり神への信仰をほとんど放棄するようなリリックもみられる。
その上でCurryは"首に巻かれた縄は、俺の首を絞めるための金の鎖だ"などと厭世的な姿勢も崩さない。
最後は"ラップより深く、俺の人生はリアルだ。これは俺の神秘的な寓話なんだ。"と宣言し、
"悪い男を演じて、一位でレースを終える。なぜなら良い奴は乾きで死んでしまったからだ。"とラップゲームへの比喩と、世界と神の有り様への呪詛にも思えるリリックで締めくくられる。

おわりに

このように、信仰の矛盾、神への疑念を一貫したテーマのひとつとして表現したHiphopアルバムは今まであまりなかったのではないかと思う。
そして、その文脈で解釈する批評、レビューも驚くほど少ない。しかし、私にはどう頑張ってもそうとしか聞こえない。少なくとも、信仰に肯定的な態度ではないことは確かだろう。
この点においては過去の楽曲についても同じようなことが言え、それについてニュートラルな立場から詳細な文章もあった。
Curryはどこまでも誠実だ。恐れを知らないほど。Curryの信仰や懐疑に批判的な人は、ぜひこの文章を読んでみて欲しい。
"何百万人もの人々の前で、神にこのような正直な祈りを捧げたことがあるか、自らに問うてみて欲しい。そして、神がDenzel Curryの話を聞き入れていると思うか、自らに問うてみて欲しい。"

そもそも信仰はこうした矛盾から離れられるように生まれた人間が獲得出来る、その本質において理性的な逃避である。
私もCurryのように、論理を離れた人間性の発露として、信仰の正当性や美しさ、逆説的にそれが理性的ですらありうることは頭ではよく分かるのに、どうしても身体が拒絶する。(組織的な宗教、原理主義には明確に反対だが。)
そこであるのが芸術の営みによる悟りである。

またこのアルバムは軒並み絶賛だが、自問自答によって得たものが決まりきっており、かつその表現としての省略や曖昧さがもたらす意味や効果が薄い、などとも評価されている。
確かに今作にはブレはありつつも、テーマがほとんど一貫していた。それ故に、Denzel Curryの卓越した表現力すらそれに追いつけなかったように思われる部分もないことはない。
しかし、"世界とは失語症だ。"語り尽くせぬ、言表しえぬ想いを、Curryは音に託した。
今作はリリックだけでなく、人生の突発性に呼応するように落ち着いたサウンドから急に重厚になったり、アップテンポになったりするサウンドの進行。そして世界や自我の複雑さを表すようにOld Hiphopやジャズ、ネオソウルなど様々な要素が絡み合ったサウンドを持っている。
だからこのアルバムは、そんな不出来な言語を、論理空間を、世界を、人生を、そのまま表現したことにおいてむしろ評価されうると私は思う。
高度に洗練された作品において、欠陥は裏返しである。私は作品を鑑賞することに関して、Kanyeと真逆の、都合のいい特性を持っているのかもしれない。
しかしこの作品は、そんな都合のいい見方をせずとも、神の作品よりよっぽど出来のいい、人間の作品だ。"人生は一行のボオドレエルにも若かない。"

最後にこのアルバムは、他者の他者性を存分に認識させてくれる。"私"と他人との間には、無限の隔たりがある。私たちが驚くほど、主体と客体は完璧に異なる。
ゆえに、私と全く異なるCurryの、他者の生得的な要因を無視して、その人間自体に批判的な態度をとることは倫理的な問題があるのではなく、理論的に不能だ。同じ理由で、人種差別や性差別の主語を倒錯させて、ある人間の属性がある人間に対して特権的な立場にあることをわざわざ言表することも不毛だ。
だからCurryは"人とその行動は分けて考えよう"とし、"ただ友達じゃないからって敵なわけではない。"と隣人愛的な宣言をしたのだ。
いつの日か自らの半径以外の問題を全く顧慮しない、視野狭窄で想像力に欠けた幸福の人間と、Curryが、私たちが心から握手することができる日が訪れるだろうか。

そして未だに世界は悪だ。人生は悪だ。宗教も平和も時に悪だ。しかし、最悪ではない。
物事は最悪であってくれない。こんな作品が生まれたら、誰かに少しでも優しくされたら、そんな憎しみは簡単に絆されてしまう。
人は、息も絶え絶えの、死ぬほどの活動に対して、ご褒美の飴玉一つで幸せだと思えるよう創造された。
世界は最悪でないからこそ最悪である。"人生は地獄よりも地獄的である。"
このアルバムは、世界と人生のあくどさ、信仰の矛盾、神への疑念を私たちに代わり、美に昇華させた。
このアルバムは、そんなカタルシスを感じさせてくれる素晴らしい作品だったと私は考える。

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