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162/366 【例え小さなこの声でも】 celebrateというコトバの奥深さ

アメリカの学校は5月末か6月頭に学年が終わる。そこから8月末の新学期まで長い夏休み期間に入る。

学期末を迎えた小学校の先生への感謝の気持ちを、娘さんをそこに通わせていた友人はこう綴っていた。

We are extremely blessed to have been at a school where each child has not only been seen but CELEBRATED for who they are.

「子供一人一人をそのまま受け止めてくれるだけではなく、そのままの娘を丸っと言祝いでくれる学校に通えて、とても幸運だった」

日本だとお誕生日等、何かのお祝いの時にしかcelebrateという言葉を使わないイメージがあるけれど、実はこの言葉、文脈によってとても尊い使い方ができる。

日本語の「祝う」と「言祝ぐ」の違いと似ている。尊び、抱きしめ、そのままを丸っと受け止める。その祝福感や多幸感を出せる言葉なのだ。

今、アメリカではBlack Lives Matterというスローガンのもと、人種差別問題に対する社会運動がどんどん広がっている。益々ソーシャルで繋がっている世界でようやく、延々と続いてきた人種差別問題は改善されていくのかも知れない。

一夜で変わるものではないくらい根深い問題なのだけれど、それでも世界は見ている。「日本からも声が上がっている」と米国メディアでも、大阪でのデモについて触れていた。

「今日から黒人と同じ扱いを受けても気にならないと思う人、手をあげて?」

「Raise your hand if you feel comfortable being treated exactly like a black people from today」

数年前、ある人権運動家が白人ばかりの聴衆に対して投げた質問だ。誰も手を挙げない。挙げられない。挙げられない自分に気づいて皆、改めて絶句している。静まり返った講堂。

動画を見てこちらも心臓がギュッとなったのだけれど、その動画が今、どうしても見つからない。だから言葉尻が間違っているかも知れないが、中身はこんな感じだった。

黒人であるというだけで差別された人の気持ち、分かるよ、なんて軽々には口に出せない。でも、アジア人として差別された気持ちなら分かる。度合いは全然比較にはならないけれど、差別を見て見ぬ振りはしないという声を、少しの実体験を込めて上げることならできる。

人は誰しも、肌の色、性別、人種、宗教、思想、性的指向などとは一切関係なく、その人である、ということだけで言祝がれる存在であるはずだから。

All people, no matter what color, gender, race, religious belief, and sexual orientation,  should not only be seen as who they are but be celebrated for who they are.

明日も良い日に。



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