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"音"の多様性を考える

 私は今、地方都市のバイパス道に面した賃貸住宅に住んでいます。

 朝と夜は通勤通学ラッシュで、子供達の声や車のクラクションが部屋の中に聞こえ、夜は夜でヤンチャな車やバイクの排気音が次から次へと喧しい、そんな場所で暮らしています。

 周りの人達は『もっと静かな場所に引っ越せば良いじゃ無いか』と言いますが、私はこの場所がすごく居心地が良くて気に入って住んでいます。


 社会人になるまで私はほとんどを岩手の山奥にある実家で暮らしてきました。令和の今でも木製の電信柱が立っていて、1日における実家前の道路の往来は自動車よりもタヌキやネコやリスといった野生動物の方がよっぽど多いような、そういう世界でした。

 先述した通り、私の実家はとんでも無い山奥でしたが一丁前にインターネットは使えたので、周囲に同級生や齢の近い人も居なかったので、寝る間も惜しんでオンラインゲームの世界にどっぷり浸っていました。

 従って夜は目が冴えてしまい、なかなか寝付けない私の少年時代でした。

 ゲーム中はヘッドホンと画面だけの世界なので賑やかなのですが、さて眠ろうとヘッドホンを外すと現実は深夜丑三つ時の岩手の山奥の築100年近い実家の中。いくら窓を閉めてようとも閉め切らないのでその隙間から聞こえる微かな外の物音や、不意の家鳴り、フクロウや野生動物の鳴き声など、幼い私の心を恐怖で塗りつぶすには十分過ぎるくらいの要素がありました。

 世界中で今息をしているの私だけで、薄い窓ガラスを隔てた外の世界は魑魅魍魎が渦巻いている。そういった恐怖感や孤独感を布団の中でうずくまりながら震えていました。


 そう言った孤独感で震える中で、いつからか心の中の一筋の光となっていたのが“深夜の車の通る音”でした。

 先ほども書きましたが、私の暮らしていた実家の前の道路の1日の往来は人間よりも野生動物の方が多かったのですが、一応その道路の先にも小さな集落があり、夜勤なのか仕事終わりなのかは今となっては分かりませんが、夜中も車の通る音がする時があります。

 私はその音を聞くと“世界で生きている人間は私だけでは無かったんですね‼︎”と心から安心してどんなに寝付けなくても直ぐに夢の世界へと飛び込むフェーズへと移行する事が出来ました。


 実家の環境ような大自然の中で、虫や鳥の鳴き声に耳を傾けてリラックスというのが一般的ですが、逆にそう言った場所で過ごしてきた人間だと案外逆の方が安心出来るのかも知れません。

 朝は通勤や通学で行き交うラッシュの車の音や、学生たちの声、昼間は荷物を積んだトラックが通過する轟音、夜は少しヤンチャな車のマフラー音。安心できる日々の“騒音”です。

 世界と私が繋がっている。
 世界は今日もいつも通り回っている。
 私の生活が誰かの日常の背景になっている。


 昨今は“子供の声がうるさい”などと全国の公園でのボール遊びが禁止になったり、稼働音がうるさいと元々あった工場のそばに家を建てた人がそこに苦情を言って移転せざるを得なくなったりと、音にまつわる問題が散見されます。

 “騒音”は万人にとっての騒音なのでしょうか?
 “静寂”は万人にとっての安らぎなのでしょうか?

 誰かにとっての“騒音”は私にとっての“安定剤”であり、また、誰かにとっての“静寂”は私にとっての“孤独感”だったりするのかも知れません。

 多様性を認め合うと言うのは、その事象を発信する側が価値観を押し付けるのでは無く、受け取る側のバックボーンも理解し合う事が大切なのかも知れません。

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