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真冬のカナダ単身赴任

 オランダの学会でベル研の人に「来ないか?」と言われたが、NTTを辞めて渡米する勇気はなかった。研究所から開発部門に異動後は国内出張もなかったが、それは共働き子育てには好都合だった。ノーザンテレコム社を視察する話が舞い込んだが、湾岸戦争が始まってしまった。
 ところが一年後、今度はノーザンテレコムで研修を受けることになり、妻と娘を東京に残し、カナダの首都オタワへ。半年間の越冬生活については、「はるかカナダ、エールの交換FAX」として自費出版した。(もう在庫ありません)
 「研修がすぐ始まるんです」カナダ大使館にビザを申請に行った。受付嬢は鼻で笑う。「できたら連絡します」通常、数カ月かかるそうだ。妻は東芝でビザ待ちを見て目撃していたから、赴任はしばらく先だと思っていた。
 ノーザンの営業に話すと「大使に直接電話してみてください」という。半信半疑で電話した翌日連絡がきた。「ビザできました」カナダ大使は、カナダ企業のためにちゃんと働いていた。受付嬢が「あ」と声をあげたのが痛快だった。
 人事部長に出発の挨拶に行くとメモを渡された。「君をなぜカナダに行かせるのか」びっしり二頁書かれており、最後に「次のソフトウェア工場を検討してもらう」とあった。飛行機の中で何度も読み返した。
 私は自動車免許を持っていなかった。日本でとる時間はないし、零下三十度の冬のカナダで取得するのは難しい。もし持っていても、いきなり真冬のカナダで運転するのは危険だ。幸い首都オタワはバスが充実していた。バス停まで二百メートルもないホテルを選んだ。それでも、朝夕ダイヤモンドダストが舞う。深呼吸でもすれば肺が凍傷になる。
 ノーザンテレコム社の研究開発部門の入口には「知識は私たちの未来」という大きな標語が掲げてあった。もらった社員証は赤、一時契約社員の証である。その威力は絶大だった。エレベーターでは全員黙る。退社時、警備員がカバンを開けてフロッピーなどの持ち出しをチェックする。
 ある日の昼過ぎ、急に社員がぞろぞろ帰っていく。四時過ぎ、警備員が私を見つけて飛んで来た。「六時まで居ていいんですよね?」「いや吹雪が来る。すぐに帰れ」バスを待つ間にもどんどん視界がなくなっていく。ホワイトアウトだ。真っ白な世界を道の端を示すポールを信じて、バスは慎重に走る。通常三十分の通勤バス、その一番前の席がアドベンチャーになった。
 インターネットは一部社員だけ。社外への電話も制限されていた。ホテルにインターネットはまだない。だから、会社への報告は郵送とFAX、週末は妻に電話、いずれも自腹だ。ホテルの電話代は月八万円になった。
 さて、ノーザンの開発環境は、IBMのメインフレームと数千台のワークステーションで、カナダ、イギリス、インドのオフィスを専用線でつなぎ、二十四時間開発を行っていた。この仕組みをもしNTTで購入するなら五十億円とも言われた。
 開発環境の保守だけで数十人を要していた。電話のヘルプデスク部隊もあった。私は三つの部署で二カ月ずつ仕事をしながら勉強するOJT。武蔵野研究所に地方から来ていたS君に似ている。
 ノーザンの新人と同じに扱うという。そこで新入社員のオリエンテーションにも参加してみた。随時採用だから、毎月やっている。オタワ大学とトロント大学の卒業生と三人で受講した。講師は四十過ぎの課長さん、技術者である。人事部ではない。
 新人二人は靴を履いたまま机に脚を投げ出して聞いている。しばらく聞いていたが手を挙げた。「ここでは何人働いてるんですかあ」ドラマに出てくる不良生徒のようだ。「こんな授業聞いてられねえ」的質問なのだ。私が講師なら「パンフ見ろ」と却下しただろう。だが、紳士的に丁寧に回答している。管理職には大変な国だと思った。
 プログラマとして配属されたら、開発環境の基本操作を学ぶ研修は必修だ。一週間である。講師は若い女性プログラマだった。手当がつく社内バイトだ。生徒は三~五名。即実務で使えるよう、濃密で実践的だ。講師は前週、数十モジュールを一気に徹夜で編集したそうだ。そういう具体的な仕事の話は興味深い。だが「ストリーム」の説明は分かりにくかった。そこで、三カ月後、再度受講させてもらった。すでに基本操作はできるようになっていたが、今度の講師はヘルプデスク担当。私は彼の下で働いていたから、助手のように他の受講生を手伝った。
 管理者向けに、進捗管理や権限設定の研修もあった。それらのマニュアルは見ることも許されなかった。(机の上に出したまま離席したら罰金)
他にも、IBMメインフレームや試験ツールの研修を受けさせてもらった。若いインド人や中国人が頑張っていた。中には夜学に通っている者もいた。
 「ストリーム」を理解するのは難しい。単品の技術ではなく、開発の文化として成立している。ナイフとフォークによる食事を説明するなら、食器や調理法にも言及しなければならない。
 もし、日本で「設計と試験の分離」をやる前に見ていたら、自由な発想ができなかったろう。少ない情報から想像し、あとは自分たち流に進めたことが、かえって良かった。
 私から教えることも提案してみた。日本の品質管理、日本の電話交換機。課長さんは、週半日、自由時間を持っていた。自宅学習でもよい。パーティをやってもよい。その時間に課の部下を集めて勉強会をやってもいい。開発環境のエラーログをPerlで分析し、夜二十三時台にエラーが多いことを指摘したら、いたく感心された。(Perlが登場したばかりの時代)
 可視化は欧米のほうが得意で、ヘルプデスクの入口には、問題解決までの時間がパネル展示されていた。「ヘルプデスクはこんなに貢献しています」のアピールだ。
 ランチは毎日サンドイッチだった。真冬は日中でも零下二十度を下回る。周囲に店はない。車で自宅に戻って食べる人もいたが、私はビル内唯一のお店に半年お世話になった。そこのローストビーフサンドはなかなかだった。割腹のいいイタリア系のおばちゃんは、アジアから来た痩せっぽちの研修生を心配してくれた。「スープ飲みなさい」「肉多めにしといたよ」と親切だった。帰国が決まったと言うと大喜び。「おい、この坊や、職につけたんだって」その日のランチは、おばちゃんのおごりとなった。
 カナダから毎週、自宅に送ったFAXと、妻の手紙をまとめ、自費出版することにした。だが夫婦の会話は省略が多い。説明を補足し、客観化する必要がある。自宅パソコン一台を取り合い、週末や深夜、推敲した。まとめるのに二年かかってしまった。
 自費出版専門の出版社に相談に行ったのが、ちょうど結婚十周年だった。年寄り夫婦だけでやっている小さな出版社だ。題名は? から始まり、他人からのアドバイスは貴重だった。企業秘密で書けないこともある。共働き子育てに焦点を絞った。最初の原稿から半分になった。
 何度目かの打合せで「表紙は娘さん描いてみない」とアドバイスがあった。帰宅するなり、娘は描き始めた。赴任時、保育園生だった娘も、小学校に入る歳になっていた。
 「はるかカナダ、エールの交換FAX」は夫編、妻編の構成になっている。女性からは、この本のおかげで共働き子育てをイメージできた、産む勇気が湧いた、という妻編に対する感想が多かった。
 男性からの反応は少ないが、数人から「発禁本」だと言われた。うっかり机に置いておいたら奥さんに読まれてしまったというのだ。「あなたの会社には子供をお風呂に入れてくれる旦那さんがいるのねって散々嫌味を言われたよ」この世に五百冊しかない。廃棄を検討している方、高価買取いたします。

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