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【ふしぎ旅】水草の局塚

 新潟県長岡市(旧中之島町)に伝わる話である。

 寿永4年(1185年)、壇の浦で敗れた平家の残党は生け捕られて殺された。
 だが、山奥へ落ち延びて土着し、人目を忍んで暮らしたりした者もあった。平家部落と呼ばれるものだ。
 大納言平頼盛も、その一人で、敵将、源頼朝と同じ乳母に育てられた縁で命を助けられ、奥方水草の局とともに越後へ落ち延びた。
 そして最初は三面川の上流、羽越国境に住んでいたが、後の三条へ出て住んだ水草の局は、その後、中之島に移り、ここでさびしい一生を終えたと伝えられている、
 坪根の田圃の中にある松の木の下に、小さな古墳があり、石塔が立っている。
 これが水草の局を葬った塚だと言われ、村人は「水草の局塚」と呼んでいる。

小山直嗣『新潟県伝説集成 下越篇』


おつぼね様供養塔

 壇の浦、唯一の生き残りとも呼ばれる平頼盛であるが、歴史にも語られる活躍などとは対称的に、晩年は静かに政治の世界からは離れていったようだ。
 とは言え、京都で終焉を迎えたことは確かなようなのだが、なぜか越後国へと逃げ延び隠居したとの伝説が多く残っている。
 糸魚川のかつての道の難所である「親不知・子不知」も一説には平頼盛を追って越後に向かった水草の局と、その子どもがここを通る際に、子供を波にさらわれたという悲劇から生まれた地名とも呼ばれているとか。

親不知

 伝説にもあるように、新潟県の村上市から山奥にある三面地域あたりは平家の落ち武者伝説が、古来よりあった。現在はダム湖の中へと消えたが、ダムのほとりには、今でもそのことを伝える碑がある。

三面碑

 その後、三条に出てとあるが、これはどうも福島の奥会津にある三条という地域のようで、そこには平家部落伝説が残っている。。
 あるいは、以仁王にまつわる源氏の落ち武者伝説が三条市の奥にある下田あたりにあるので、それと混同したのかもしれない。

旧、下田村吉ヶ平にある以仁王を奉じた前伊豆守源仲綱墓所

 もっとも、中之島には、池公社なる神社があり、そこでは 平頼盛が祀られている。
 伝説では、平頼盛は家臣らと共に中之島に移り、その地を開拓繁栄させたが、その後信濃川の氾濫で水流に飲み込まれ命を落としたと伝えられている。
 それを、家臣の大竹氏の子孫が、後になって祀ったとか。
なので、平頼盛本人でなくとも、その血縁のものや、家臣などの、何らかの関係者が、その地にたどり着いたことは確かなようではある。

池公社

 とは言え、平頼盛のことですら伝説として伝えられているのだから、その妻と言えば、さらにあやふやになるだろう。
 もっとも、今までのことを念頭におくと、この水草局塚は平家に何らかの関係がある者の史跡であるとは言ってもよいだろうと思う。

水草の局塚 遠景

 実際に訪れると、この水草の局塚、田園地帯のど真ん中にあり、少々びっくりする。
 田圃の中にあるのは分かるのだが、さてどうやって向かえばよいのだろうかという感じだ。
 近くを通ると、車1台通ることが出来るくらいのあぜ道があるので、そこを進むと、田圃の一角にそれはある。
 大きな松の木が一本。他、数本の木、石柵で囲われ、案内看板がある。
 地元では「おつぼね様として呼ばれている。

おつぼね様招魂碑

 以前は石の塚であったようだが 近年になって整理され、招魂碑、供養塔と呼び方が変わっている
 先にも記したが田圃の中にポツンとあるというのが、不思議ではあるが、神聖なところを避けて、田を作ったというのが実のところであろうか。 

おつぼね様招魂碑(水草の局塚) 

 もっとも、田舎では田圃の一角に墓を建てるというのは、さほど珍しいことでは無い。
 共同墓地ではなく、自分の敷地内に墓があるものだったのだから。
 ただ、それが現在においても、遠いご先祖の墓として伝えられ、残っていることに驚きを感ずる。
 伝える者も無く、野ざらしになっている史跡を、私はいくつも見てきたから。
 それだけ、地元の人に好かれていたのだろう。

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