『NANA』 蓮の死に見る自殺と事故の狭間。死を自らの隣人とするということ。

矢沢あい作『NANA』の主人公大崎ナナの恋人である蓮が車を運転中に高速でノーブレーキのまま建物に突っ込み亡くなる場面がある。
蓮は薬物依存が深まっていた。バンド活動を停止させることで自分を休ませ、ヤク抜きさせる猶予を作るために雲隠れするレイラを蓮は迎えに行く途中であった。バックミラー越しに週刊紙の記者に追われていることに気づき、「レイラと密会」なんていう記事を書かれたらいろいろと厄介だと思ったのかもしれない。追っ手が驚くほどに思いっきりスピードを上げてしまう。そして薬物による幻覚であったのか、黒猫をナナと見間違えてしまう。そこにいるはずのないナナを見かけた驚愕だったのか、ナナを避けようとしたのかは定かではない。スピードを出したまま建物に突っ込んでしまう。

この状況を見ると、意図した自殺のセンは薄い。では単純な自損事故なのだろうか。
ミュージシャンでも作家でもいいが、卓越した表現者の中には自らが死と隣接しているがゆえの輝きを放つ者もいるように思う。
すべての人間は、明日どころか1分後、いや次の瞬間には死んでいる可能性がある。これを哲学者マルティン・ハイデガーは死の切迫性と呼び、人間の実存を規定するものの一つと考えた。そしてほとんどの人間はそれを意識から追い出して生活している。この死の切迫性への向き合い方において特殊なあり方をしている人間が存在する。意識から追い出しきる形ではないが、かといって完全に無意識に沈んでいるのでもないような形で自らの死を連想し、また作品の中で連想させる。
90年代のバンドブームの頃はMVに棺が出てくる場面というのがいくつかある。連想どころか死が直接表現されているのだ。このように死の観念と親和性のある表現分野もあるようだ。
また不慮の事故死とされた人の中には、自身がどのような死を迎えるか生前に「予言」していた人もいるという。
彼らは社会を生きる多くの人とは違う形で死と隣接して生きているのではないか。
自殺の意志が積極的にあったわけではないが、常に自身が生きる隣人として死と向き合うことで死を独特な形で引き寄せ、予言し成就してしまう。
謎めいた死を迎え、今なお様々な憶測がなされている人もいる。若くして死を迎えた彼らはそのエネルギーゆえに、平凡な言葉のレベルで考えたら生の完全なる否定形であるところの死をも取り込んでしまう。彼らの死はその発露の機会を伺っていたのではないだろうか。それは自殺と事故の狭間にある死。どちらでもありながらどちらでもないようなそんな死を結実させているのだ。彼らの表現者としての輝きとそのこととが無関係なことにはどうしても思えないのだ。

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