玉川徹さん「書き得」指摘への反論を批判する

コメンテーターの玉川徹さんが、自身の出演するテレビ番組内で、週刊誌などのいわゆる「書き得」の指摘に対して、「そんなビジネスモデルはない」という趣旨の反論をしたとのことである。

「書き得」というのは、松本人志さんのような大物のスキャンダルは世間の耳目を集めるから、間違っている内容だとしても書いてしまえば億単位の売り上げがある。それに対してもし名誉毀損の訴訟などで負けても200~300万、高くてもせいぜい1000万円程度の賠償命令が下されるにすぎず、内容の裏取りが不十分でも経済的な面では発売をためらう必要がない。結果的に書いたもの勝ちになるという理屈だ。

このようなことはかなり前から指摘されていたし、これまでに週刊紙の報道で多大な影響を受け、人生が壊れかけた人たちも、この書き得の問題点を指摘している。
誤った内容の報道をされた個人が被害を受けるのはもちろんだが、読者も事実でない情報を受けとることになるのであり、当然そんな記事を読むために金を払った読者も被害者だし、金を払ってない人だって話題を耳にして信じてしまった人にも影響はある。誤報が大問題なのは言うまでもないだろう。

玉川さんは、アメリカの雑誌が「敗訴前提で捏造記事を乱発して儲けるビジネスモデルなどない」という「書き得」に否定的な内容の記事を紹介。
そのうえで「SNSでのデマ情報のようなやり方を、記事内容への信頼を大切にするプロの書き手がやるはずはない、そんなビジネスモデルでやるはずはない」という主張だ。

はっきり言ってメディア人として悪質な言い訳だし、こんなことを言っているから報道機関は一般の信頼を失っているのではないか。
出版社の組織全体として捏造を意図してやることは多くないかもしれないが、間違っていても構わないという「未必の故意」はあるのではないか。
そして売り上げと賠償の額の比較は先ほどの通りである。
アメリカの記事が紹介されたとのことだが、まさにアメリカでは懲罰的賠償という形で日本とは桁違いの賠償金を課せられる。
そこまで誇り高い姿勢で「報道」をやっているなら「自分も含めて、間違えたら被害に応じて何億もの賠償をします」とまずは言うべきだ。

またSNSのデマ情報と週刊誌の情報との差は一般の人だって認識しているだろう。
たまに政治家などの利権構造などをすっぱぬくような有益な仕事をしていることも知っている。
どこの誰かわからないような一般人のSNSの情報との違いぐらいわかっているのであり、それを踏まえてもなお「書き得」を主張している人たちの判断能力を見くびっている。

そして間違えた時の対応の図々しさが反感を買っていることも全くわかっていないようだ。
「自分も週刊文春も報道機関を名乗っていて信頼を大切にしている。間違えたら謝罪、訂正をしている」とのことだが、これはお笑いだ。
玉川さん自身はもしかしたらそのようにしているのかもしれないが、報道したときと同じ熱量で全力で訂正内容を世に知らしめる努力を多くの報道機関がしていると言えるのか。信頼を言うならまずはそこだろう。
裁判の結果が数年後に出て、申し訳程度にひっそりと数行程度のお詫びと訂正があるだけではないか。
その頃には報道被害者は多くを失っていて、この程度の訂正で被害が回復されることもほとんどない。
本当に報道機関としてのプライドがあるなら、他社が報道機関の敗訴を積極的に報じてもいいはずだが、お友達どうし庇い合う構造もあるのだろう、そのようなこともほとんど見受けられない。次は自分たちがバッシングを受けるかもしれないからだ。
こうなると報道機関が糺されることはなくなる。
せいぜいSNSなどで玉石混淆の情報に埋もれて敗訴情報が流れる程度だろう。そんなもの何人の人が目にするのか。


そしてそもそも論として「信頼、信頼」と言うが、記事内容に間違いが一定程度見受けられるからといって週刊誌のような媒体は本当に売れなくなるのだろうか。
「日付以外は全て間違っている」と揶揄されるスポーツ新聞だって未だに刊行されているではないか。

これはどういうことか。例えば前日のプロ野球や大相撲の勝敗がしょっちゅう間違っているならそんなスポーツ新聞はたしかに売れなくなるだろう。
しかし芸人の下半身ネタは間違ってても面白がって見るのではないだろうか。ある程度のリアリティーがあれば、明らかな間違いでさえなければ、第二弾第三弾と「新しい証言出ました」などと言って引っ張りつづければ売れ続ける。
権力者を叩くのが好きな民衆であれば女や金にまつわる政治家スキャンダルだって燃え続けるだろう。
「売れてる芸人は派手な女遊びをしている」とか「政治家などの権力者は裏で警察の操作にさえも手を回している」など民衆が「ありそうなことだ」と思える内容であれば真実性とは無関係に売れ続けるのだ。
週刊誌では、その熱狂や興奮を大衆は消費しているのであり、それが裁判なんかで間違いだと数年後に確定したところで、その「真実」にはあまり関心をもたない。つまらないからだ。
「それは大衆が悪い」とも言えるが、その大衆の性を当てにして儲けている構造を正義とみなすかどうか、そういった正義感覚の問題だ。
もしそれを当て込んでいるのであれば、それこそがまさに書き得があるということなのだ。

政治家などの権力者の利権構造など重要で真実である話、なんとなく面白そうな著名人の醜聞、ツチノコやネッシーが見つかったという「報道」など、本当か嘘かがガチで大切なものから、野次馬根性のエサレベルの情報、嘘だとわかっていてもエンタメとして面白おかしく受け止める情報まで様々なレベルのものがあるのであり、その受け止め方や消費の仕方の違いを玉川さんは全く考慮に入れていない。
週刊誌の芸能ゴシップは野次馬根性のエサを売っているのであり、「信頼」だの情報の「精査」の度合いで週刊紙を買っている人は何人いるのだ?


また細かい点だが「組織全体として」という表現も玉川さんが逃げ道を作っているように思う。
出版や報道の理念として、編集が経営陣や発行者、簡単に言うと記者や編集者が所属する会社の意向に影響を受けないようにすべく編集権は独立しているべきというものがある。
記事内容が政治権力などの外部の力からだけではなく、会社の偉い人からさえもねじ曲げられたり、葬られたりしないために必要なものだ。
玉川さんが言う「組織全体」というのが、ここでは文藝春秋社なら文藝春秋社という会社全体のことだと言うなら、「編集権の独立があるのだから会社全体ではなく編集部が単独で誤報をやっている」とも言えるのであり、そういう意味での逃げ道を作ったとも考えられる。
椿事件を考えると、実際にはこれとて逃げ道となっているのか疑わしい。

政治や行政の不手際は報道によって周知され、是正され、場合によっては世論や選挙などを通じて権力の担い手は打倒される。その意味でマスコミは第四の権力などではなく、第一の権力だ。
ペンの権力が正しく行使されずに、人権を踏みにじりつづけ、司法や立法も対応しないならば、「暴力はいけません」という赤報隊を否定する論理にも正当性がなくなってしまうという恐ろしい事態を招くだろう。

玉川さんの発言は、このぐらい重い話なのであり、「捏造」「信頼」というワードでミスリードするような白々しいことはせず、問題ある報道姿勢に報道人としての矜持をもって向き合うべきだ。


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